第3話 前線行き通勤列車、図書委員は軍靴で乗る
出発は翌朝の五時四十分。まだ空が青くなりきらない後方駅で、奏音は軍靴の紐を結び直した。革が硬く、指に食い込む。図書室では紙の角に気をつければよかったのに、ここでは足首まで締めないと転ぶ――そう言われたとおり、紐を引くたびに脛の奥がきしんだ。
昨夜、希恵から渡された臨時通行証には、行き先と時刻が乾いた字で並んでいた。後方駅から装甲列車で補給駅へ、そこで返送袋の受け取り印を直接確かめる。月翡翠粉末の管理簿も、列車の沿線で照合する――紙の上では簡単なのに、足元が軍靴になった瞬間、別の重さが増える。
ホームには、同じ制服の生徒が十数人。その周りに、補給兵と負傷兵が混じっている。皆、列車を待ちながら、同じ方向にだけ目をやっていた。線路の先に見えるのは、鉄板で覆われた灰色の車体。窓は細く、外側に格子。なのに車内からは、朝の通勤列車みたいなざわめきが漏れてくる。
「それ、靴の紐じゃなくて足首の命綱だ」
背後から低い声がして、奏音は振り向いた。佑摩が立っている。肩には訓練教官補佐の腕章。右手には、折り畳みの木製定規みたいなもの――いや、軍用の簡易ストックだ。
佑摩は奏音の靴を一瞥し、指で短く合図した。
「紐の端を内側に入れろ。引っかけたら、車内の誰かが転ぶ。転んだら、荷物が落ちる。落ちたら……中身が紙でも弾でも、被害は同じだ」
奏音は無言で端を押し込んだ。指先が冷える。佑摩は「よし」と言わず、目線を柚花へ移した。
柚花は軍靴の片方を、まだ半分しか履けていない。鳥舎での素早い手つきはどこへ行ったのか、踵の革に足を押し込むたび「くっ」と声が漏れる。紗里奈はその横で、ホームの柱に耳を当てていた。列車の振動が遠くから伝わり、金属の鳴り方が変わるのを確かめている。
希乃香は鞄の口を三回確認してから、ようやく肩に掛けた。順一郎は、咳払いひとつして周囲の兵の視線を散らし、あからさまに「学生の遠足」に見えない位置取りを作っている。
「おはよう。寝てない顔がいっぱいだね」
梨寿が、いつの間にか列の前にいた。白い包み紙の飴を指でつまみ、隣の負傷兵に差し出す。兵は戸惑ってから、ゆっくり受け取った。
「甘いの、舌が動くと呼吸が整う。痛み止めが切れたとき、少し楽になるよ」
言い方が淡々としていて、説教臭くない。兵は飴を口に入れ、ほんの一瞬だけ眉間の皺がゆるんだ。梨寿は次の人へ、同じ動作を繰り返す。奏音は、その手元を見ながら思った。補給と衛生の係は、物も空気も、減らさないと前へ進まないのだ。
列車が滑り込む。車体の側面に擦り傷がいくつも走り、乾いた泥がこびりついている。扉が開くと、車内の温い空気が顔に当たった。油と汗と、消毒液の匂い。吊り革はあるが、革でできた短い輪だ。背の高い兵が掴むと、低い者は肘で押される。
佑摩が先に乗り込み、通路の真ん中に立った。
「図書委員は今日から、現場で役立つ形で動く。三つだけ守れ。ひとつ、手を空ける。ふたつ、耳を塞がない。みっつ、目を下げない」
言葉が短く、車内のざわめきが一瞬だけ止まる。佑摩はそれ以上言わない。拍手も笑いも起きないが、兵たちは黙って視線を戻した。こういう空気が、前線へ向かう箱の中では普通なのだろう。
座席は長いベンチで、向かい合っている。奏音は窓際に腰を下ろし、鞄から薄い紙を出した。図書室で使う地図の複写だ。蔵書の保管場所を示す棚図は、彼の頭の中では迷路ではなく、流れ道だった。どの棚からどの机へ本が運ばれ、どこで詰まるか。人の動きが見える。
車内の掲示板には、戦況図が貼られている。補給駅の名前と、線路の分岐。前線の塹壕線が太い赤で引かれ、その周りに小さな印が点々と散っている。
奏音は棚図の紙を掲示板の前へ持っていき、角を揃えて重ねた。透明紙ではないのに、揺れる車内で目を細め、記憶の中の棚の位置を線路に置き換えていく。棚の「詰まり」は、補給の詰まりと同じ形になる。手紙が戻ってきた袋の印は、どの駅に集中していたか。月翡翠粉末が付いた脚環の番号は、どの便に偏っていたか。
鉛筆の芯が紙を擦る音が、列車の振動に紛れて小さく鳴った。
「なにそれ、仕事の顔」
柚花が、通路側の席から身を乗り出した。軍靴がまだ馴染まないのか、膝を揺らしながらも、目は奏音の手元に釘付けだ。
「顔じゃない。線だ」
「線が面白いって、図書委員だけだよ」
柚花がそう言った瞬間、隣に立っていた若い兵が吹き出した。梨寿がさっき飴を配った人だ。兵は柚花に「鳥の子、今日も噛むのか」と話しかける。柚花は待ってましたとばかりに、指を差し出して見えない鳥の動きを真似した。
「噛むよ。でもね、痛いのはね、こっちがビビってるときだけ」
「へえ」
「心臓がドクドクしてると、鳥って分かるんだよ。だから、平気な顔してると噛まない」
柚花は胸を張り、兵たちは笑った。笑い声が、鉄板の箱の中で跳ね返り、少しだけ軽くなる。奏音は思わず視線を上げた。柚花は、鳥の前での勢いを、そのまま人の前でも出す。怖さがないわけじゃない。昨日、指先が震えていたのを奏音は見ている。それでも口を止めない。止めたら、箱の中の空気が重くなると知っているみたいに。
列車は速度を上げ、窓の外の畑が線になる。ときどき、遠くで黒い煙が上がっていた。紗里奈は窓枠に指を置き、金属が鳴る高さで距離を測っている。希乃香は、乗客の腰の位置に目を配り、鞄が抜かれない角度を作る。順一郎は、兵の会話の切れ目にだけ短い相槌を打ち、話題が危険な方向へ転がりそうになると、別の話にすり替える。
それぞれが、同じ箱の中で違う仕事をしていた。
奏音は戦況図の補給路に、鉛筆で小さく丸を打った。戻ってきた未開封の封筒が多かった補給駅。そこは、線路の分岐点に近い。さらにその先に、月翡翠の管理が厳しい区域がある。粉末が鳥の脚に付いていたということは、誰かが鳥を「寄り道」させている。寄り道先で、手紙の熱を抜く――あるいは、熱い言葉を別の誰かに渡す。
奏音は自分の推測を紙の端に書きかけ、途中で消した。車内の揺れで字が歪む。歪んだ字は、誤解を生む。誤解は命取りになる。佑摩の「目を下げるな」が、今になって意味を持って胸に落ちた。
そのとき、列車が急に減速した。金属が擦れる低い音。吊り革が一斉に揺れ、誰かの肘が奏音の肩に当たる。柚花が「わっ」と声を上げ、紗里奈がすぐに手すりを掴む。佑摩が通路の中央で膝を曲げ、転びそうな兵の背を支えた。動きが早くて、声が出ない。
停車。窓の外に、小さな駅舎が見えた。ホームには兵が数人、立っている。だが迎えの合図はない。代わりに、一人だけ、しゃがみ込んで何かを燃やしていた。手の中の紙が、ぱらぱらと崩れて灰になる。風で舞った灰が、ホームの端へ流れていく。
灰の中に、淡い緑が一粒だけ混じった。朝の薄い光でもわかる艶で、奏音は息を止める。昨日、鳥の脚から取った粉の色と、同じだった。
奏音は目を凝らした。燃えているのは、封筒だ。薄い紙の四隅が、封蝋の重みで最後まで残り、赤い塊だけが黒く縮む。
「……手紙、燃やしてる」
柚花の声が、さっきまでの笑いと違う響きになった。
梨寿が無言で飴の包み紙を握り潰す。順一郎が立ち上がりかけ、佑摩の腕がそれを止めた。まだ扉は開かない。外の兵の目線が、こちらへ向いている。
奏音は掲示板の戦況図から目を離し、窓に額を近づけた。燃える紙の匂いが、ここまで届きそうな気がした。熱い言葉を抜かれた手紙が、読まれないまま終わる場所が、今、目の前にある。
列車の扉のロックが、重い音を立てて外れた。




