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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第29話 共同会議は地下、正義も地下に埋められる

 国境近くの坑道網、地上の灯りが届かない夕方。蝉の声が遠のいたのは、地上を離れたからではない。換気の風が、壁の隙間を舐める音だけが残ったからだ。



  地下会議室の天井は低く、灯りを上げると煤の匂いが落ちてきた。地図の上には国境線が一本、爪で引いたみたいに薄い。希恵はその線を指でなぞらず、紙の端を押さえるだけにする。触れば、指の温度で紙が波打つ。そんな小さな変化を、相手が見逃さないと知っていた。



  国境の丘の斜面に口を開けた坑道の入口は、地図にある印よりずっと小さい。昼の光を嫌うように、枯れ草で覆われ、見張り台からは死角になっていた。案内役の0兵は肩をすぼめ、暗がりへ先に身を滑らせる。奏音は背中の鞄を抱え直し、図書室で使う革紐を結び直してから、続いた。



  希乃香が前を歩く。片手は壁に触れず、もう片手は紙束を胸に押さえたまま、角を曲がるたびに立ち止まる。迷っているのではない。息を止め、風の向きを確かめている。坑道は枝分かれしていたが、風は嘘をつけない。湿った空気が強い方へ行けば、換気の穴に近い。



  「こっち。足音、吸われる」



  紗里奈が囁く。耳を澄ませる癖が、薄い砂利を踏む音の違いを拾っていた。湿った区画は反響が短い。乾いた区画は、声が細く伸びる。梨寿が水筒を差し出してきたが、奏音は首を振った。喉を濡らす音すら怖い。



  後ろから、柚花の息が少し上ずって聞こえた。暗い場所では、動きが大きくなる。指が無意識に胸元の巾着に触れる。そこには月翡翠の粉を混ぜたインクで書いた“匂いのしるし”が入っている。伝書鳥を呼ぶための、あの匂いだ。



  「走りたいなら、あとで。今は、線をまっすぐ」



  奏音が言うと、柚花は口を尖らせる代わりに、わざと深く一度だけ息を吐いた。足取りが小さくなる。言い返さないことで返事にした。



  坑道の途中、金属の扉が一枚あった。希恵が渡した通行紙を、奏音は指でなぞる。薄い紙なのに、角にある朱の印だけが重く見える。『換気設備点検』。正面からぶつかれば折れる。だから合法の枠に体を滑り込ませる――希恵のやり方だ。



  扉の前には見張りが一人いた。銃を抱えたまま、足先だけで落ち着かなく地面を擦っている。暗がりで、頬の汗が光った。若い。順一郎が一歩前へ出ると、見張りは反射で銃口を上げたが、引き金には指がかからなかった。



  「点検だ。紙はこれ」



  順一郎は声を大きくしない。相手の喉が震えるほどの距離で、言葉を置く。見張りの視線が、紙ではなく順一郎の手元へ落ちた。指の節。爪の縁。そこに戦場の汚れがあるかどうかを、確かめるように。



  「……そんなの、今日じゃなくても……」



  見張りが言いかけて、言葉を飲み込む。胸の内ポケットが、わずかに膨らんでいる。紙の角が覗いていた。封のない手紙だ。



  順一郎が、その膨らみから目を逸らさないまま、低く言った。



  「届けたいものがあるなら、邪魔はしない。こっちも、邪魔をしない」



  見張りの喉が上下する。坑道の奥から、遠くで椅子を引く音がした。会議室だ。見張りは一瞬、そちらに耳を向けた。躊躇いは、音でわかる。順一郎はその一瞬に、相手の決断の場所を作った。



  見張りは銃口を下げ、扉の脇へ体を寄せた。鍵に手を伸ばす。しかし、回す前にもう一度だけ、内ポケットの手紙を指で押さえた。守るように。



  扉が軋み、冷たい風が顔を撫でた。中はさらに暗く、天井の低い通路が続いている。梨寿が先に入り、薬草の香りで鉄臭さを薄めるように小瓶の栓を開けた。柚花が「匂い、残る」と小声で言い、すぐに自分の掌で口を塞いだ。



  通路の突き当たりに、もう一つ扉があった。今度は分厚い。隙間から、男の声が断片で漏れる。数字。部隊名。補給線。誰かの名前が読み上げられるたび、壁の向こうで紙が擦れる音がした。議事録だ。



  奏音が扉へ近づいたとき、紗里奈が腕を伸ばして止めた。



  「……これ、見て」



  扉の中央に、粉で描かれた小さな印があった。鳥の横顔。目だけが、妙に鋭い。月翡翠の粉特有の、ほのかな青白さが暗闇で浮いている。柚花の巾着と同じ匂いが、確かにした。



  誰かが先にここへ来て、目印を残している。



  その瞬間、扉の向こうで金具が鳴った。内側から、鍵が動く音だ。



  順一郎の指が、短く三度、壁を叩いた。止まれ、の合図だ。奏音は鞄を胸に抱え、扉の蝶番が見えない位置へ身を寄せる。希乃香は足元の砂利を指先で寄せ、音が出るものを一つずつ除けていった。梨寿は小瓶の栓を閉め、薬草の香りを飲み込ませるように布で包む。



  柚花は巾着を握りしめたまま、唇だけで数を数えていた。息の回数を整えれば、震えも少しだけ遅れる。紗里奈は月翡翠の薄片を掌に隠し、耳を扉へ向ける。向こうの足音が一歩、二歩、近づく。革靴の踵が、乾いた床板を叩いた。



  扉が指一本分だけ開き、細い光が坑道へこぼれた。光の中に、指が伸びてくる。月翡翠の粉の鳥をなぞり、青白い筋が指先に付いた。



  「……誰が、こんな印を」



  声は低い。怒鳴らない。だから余計に怖い。奏音は視線を落とし、光の幅だけを見た。逃げ道は、来た通路だけ。閉じ込められたら、会議室の声を聞く前に終わる。



  順一郎が、扉の影へわずかに体を滑らせた。見張りの手紙を守る指の動きが、まだ脳裏に残っている。ここにも、迷いがあるなら――その迷いに言葉を差し込む。



  蝶番が、さらに鳴った。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。



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