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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第28話 蝉の声で止まる装置、蝉の声で動く心

 七月の昼、前線連絡駅から少し歩いた場所にある通信壕は、土の匂いと汗の匂いが混ざっていた。木の板で組んだ壁は熱を溜め、息を吐くだけで喉が乾く。外では蝉が鳴き続け、音が頭の奥まで刺さってくる。



  検閲官の「やれ」という小声が、奏音の耳から離れなかった。命令文にしてしまえば安全になるはずなのに、今日は逆だ。紙にすると誰かに奪われる。だから奏音は、胸の内にだけ言葉をしまい、鉛筆の芯を指で折らないように握った。



  通信壕の奥に、木箱が一つ置かれている。灰色の粉がこびりついた石板と、薄い金属の枠。希恵が押収してきた禁制具――「ハート泥棒」の小型機だ。周囲には、手紙の束を抱えた兵が六人、壁に背を付けて立っていた。封筒の角が、汗で柔らかくなっている。



  「並んでください。手紙は一通ずつ。銃は、いまは置く」

  佑摩が短く言い、棚板に銃を預けさせる。兵は言われた通りに動いたが、手が小さく震えていた。笑って誤魔化す者もいない。笑う理由が見つからない顔だ。



  梨寿が水筒を振って、ふたを開けた。薬草の香りが、土の匂いに混じって広がる。

  「熱いけど、喉に落ちると、ちょっと楽になるよ。ほら、ここ、座って」

  彼女は板の端を指で叩き、膝をずらして場所を作った。兵の一人が躊躇してから腰を下ろす。手紙を握る指が白い。梨寿はその手元に湯飲みを置き、手紙を奪わず、支えるだけ支えた。



  紗里奈は通信壕の入口近くに立ち、外の蝉の声へ耳を向けていた。目は半分閉じたまま、指先だけで薄片を撫でる。月翡翠の薄片。盗聴用に使われるはずのそれを、彼女は「蝉の声の瓶詰め」にしていた。

  「……いま。高い方が強い。壁に吸われにくい」

  言うと、紗里奈は薄片を木箱の脇に当て、布を巻いた棒で小さく擦った。



  音が鳴った。

  蝉の声に似ているのに、すこしだけ違う。外の大合唱から抜け出した一本の筋みたいに、壕の中の空気を震わせた。石板の表面の灰色が、ほんのわずかに揺れる。粉が「落ちそうで落ちない」動きをした。



  「え、なにそれ。蝉のモノマネ、機械に効くの?」

  柚花が通信壕の入口で、首に手ぬぐいを巻いたまま言った。汗で張り付いたノースリーブの肩が、土の壁に触れて茶色く汚れる。彼女はそれも気にせず、胸を張った。

  「私もできるよ。――ミ゛ー゛ン゛ミ゛ン゛ミ゛ン゛!」

  佑摩が眉を動かした。

  「静かに」

  「静かに鳴く蝉って何!?」

  柚花が思わず言い返し、すぐに口を押さえた。兵の目がこちらを向いたからだ。笑いそうな目ではない。けれど柚花は、その視線から逃げずに、わざと肩をすくめた。

  「……ごめん。でも、聞いて。蝉が鳴いてるとき、怖いの、ちょっと薄くなるでしょ。ほら、いまも鳴いてる。止まってない」



  奏音は黙って頷いた。言葉が軽くなりそうで、口を開けなかった。代わりに、膝の上のノートを開き、日時と場所を書いた。

  ――七月、昼、前線通信壕。蝉の声が途切れない時間。



  希恵が木箱の前に立つ。彼女は周囲を見回し、声を低くした。

  「やることは二つ。ひとつ、装置を止める。ひとつ、戻った感情を、ここで守る。誰かを笑いものにするな」

  佑摩が「了解」と短く返し、兵たちにも目で命令を渡す。兵たちは頷いた。頷く速さが、ばらばらだった。



  順一郎が兵の前に立ち、手紙の束へ視線を落とした。

  「読めないって言われると、読むのが怖くなるよな。……でも、怖いまま読んだほうが、あとで眠れる。夜に」

  彼は言い切ってから、視線を逸らさずに、相手の返事を待った。兵は小さく頷き、手紙を胸に押し当てた。



  最初の兵が一通の手紙を差し出した。封筒の宛名は、後方の町の妹。奏音は台帳で番号を確認し、紗里奈へ目配せした。紗里奈が薄片を擦る。音の筋が、壕の中で一本伸びる。

  希恵が装置の枠に手紙を置いた。灰色の粉が、紙へ吸い付こうとする。紙の上の文字が、いっせいに薄くなる気がした。



  その瞬間、紗里奈が手首の角度を変えた。

  蝉の声の筋が、すこしだけ歪む。

  壕の壁が、きしむ。

  灰色の粉が、紙から離れた。ふわり、と言うより、はじかれたみたいに。



  「……読んで」

  梨寿が湯飲みを押し出し、兵の前に置いた。兵は湯飲みを掴まず、手紙を両手で持ち直した。指の震えが、いったん大きくなってから、すっと小さくなる。

  兵は声に出して読んだ。最初は、文字をただなぞるような声だった。二行目で、喉が詰まった。三行目で、息が乱れた。



  「……兄ちゃん、帰ったら、また……」

  そこで、兵の目から水が落ちた。涙が落ちた、というより、目の中にしまっていた水が堰を切った。

  兵は慌てて袖で拭こうとして、袖が汚れているのを思い出し、手の甲で拭いた。手の甲が震えた。震えが、逃げ場を探す震えじゃなくなっていく。



  「……ああ、これだ」

  兵が笑った。笑い方が下手で、顔が歪んだ。それでも、笑った。壕の空気が、少しだけ軽くなる。

  柚花が、そこへ小さく鳴いた。

  「ミン……」

  佑摩が「静かに」と言いかけ、止めた。柚花の声が、兵の笑いに繋がっていたからだ。



  次の番に移ろうとしたとき、柚花が木箱へ一歩近づいた。興味に負けた足取りだった。

  「ねえ、これ、もっと近くで――」

  「だめ」

  奏音が言ってから、自分の声が強かったことに気づく。柚花は驚いた顔で止まり、唇を尖らせた。奏音は息を整え、言い直した。

  「……灰が、寄る。いまは寄せない」

  柚花は「はい」と返事した。返事の音が、普段より短い。奏音はその短さに、胸の奥がざらつくのを感じた。柚花の感情まで薄くするわけにはいかない。



  紗里奈が薄片を擦る音を止め、石板の縁を指で叩いた。

  「この石、音を食べる。食べて、空っぽにする。……だから、外の蝉が必要。食べきれない量の音を、押し込む」

  説明は短い。けれど、兵たちの顔が少しだけ上を向いた。理由が見えると、手が止まる。



  奏音はノートに、短い文を積み重ねた。

  ――蝉が鳴く時間帯に行う。壕の入口を塞がない。薄片を木に当てる。擦りの速さを一定にする。灰の動きが紙へ寄ったら角度を変える。止まったら、すぐ読む。読む人の隣に、水を置く。周囲は、笑ってもいいが、笑いものにしない。



  梨寿が動いた。読む者の背中へ手を添え、湯飲みを渡し、泣き声を遮らないように距離を作る。順一郎が冗談を挟むときは、必ず相手の目を見てからだった。

  「泣いてるときに笑うの、変じゃない。泣くのと笑うの、同じ場所から出るからな」

  兵の一人が、鼻をすすってから頷いた。頷きながら、笑った。涙が頬を伝ったまま、笑った。



  壕の外の蝉の声が、急に大きくなった。熱気が揺れ、土の匂いが濃くなる。紗里奈が薄片を持つ指を変え、呼吸を整えた。奏音は彼女の手元を見て、黙って布を差し出した。紗里奈は布を受け取り、薄片の端を拭き、また擦り始める。言葉は交わさない。必要な動きだけが、足りていく。



  最後の兵が手紙を読み終えたとき、壕の中には、泣き笑いが混ざっていた。誰かの肩を叩く音、湯飲みが机に当たる音、鼻をかむ音。どれも、さっきまでここになかった音だ。

  希恵が小さく息を吐いた。奏音は、その息が「間に合った」に聞こえた。



  柚花が壕の入口へ振り返り、外の蝉に向かって手を振った。

  「助かったよ。……あとで、ちゃんとお礼する」

  佑摩が「蝉に?」と小さく言い、順一郎が肩を揺らした。兵の一人が、そのやり取りに遅れて笑った。遅れて出た笑いが、逆に嬉しくて、奏音の胸が少し熱くなる。



  兵の一人が、急に顔を上げた。涙で赤い目のまま、奏音を見た。

  「……会議室。地下の、会議室の場所を知ってる」

  奏音の鉛筆が、紙の上で止まった。

  佑摩が一歩前へ出る。

  「どこだ。いま言え」

  兵は唇を震わせ、壕の外の蝉の声を一度だけ聞いてから、頷いた。

  「国境の坑道網……換気の穴のそばだ。石に、鳥の印が……」



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