第27話 検閲官は笑わない、だから笑わせる
ホームに降りた瞬間、砂と鉄の匂いが鼻の奥に刺さった。前線連絡駅の空気は、列車の中より乾いている。足元の砂利が鳴るたび、奏音の胸の中でも小さな音が鳴った――「見つかるな」と、「見つけろ」が、同じ拍子で。
検閲室の机は、紙の山で地形になっていた。朱肉の匂いが乾ききって鼻に残り、判子が押されるたび、木が叩かれる音が胸に響く。梨寿は咳を一つだけして、薬袋の口を見せる。係官の目が薬へ寄った一瞬、奏音は封の縁を見て、押し直された跡を数えた。数えながら、自分の鼓動まで数えていることに気づいて、やめた。
情報部の腕章を付けた男は、迎えに来たというより、待ち伏せしていた。帽子のつばの影で目が見えない。口元だけが、きっちり水平だ。
「図書委員一名、補給係一名、訓練教官補佐一名、工兵志望一名……」
人数を数え、過不足がないと分かると、男は踵を返した。
「検閲室へ。走る必要はありません。逃げるなら、なおさら走れませんから」
走れませんから、の言い方が妙に丁寧で、妙に怖い。希乃香が奏音の肩に軽く触れ、息だけで「見る」と言った。逃走路の癖が出そうになるのを、いまは抑えている。
検閲室は駅舎の裏手、薄い鉄板の壁で作られていた。扉を開けると、机が二つ、椅子が四つ、壁に貼られた注意書きが七枚。紙とインクと、湿った布の匂いが混ざっている。窓は小さく、外の光は線になるだけだ。
男は椅子に座らず、机の向こうに立ったまま言った。
「私は検閲官です。あなた方の持ち物と文章を確認します」
奏音は胸に抱えていた紙束を、机の上にそっと置いた。柚花の描いた表紙が一番上に来る。丸い目の伝書鳥が、むっとした口でこちらをにらんでいる。笑わせる気があるのか、ないのか分からない絵だ。
検閲官の指が、表紙の端をつまんだ。わずかに止まる。すぐに、無言でめくる。ページを送る音だけが室内に残った。
「通勤途中に読める短い連載」――奏音は昨夜、そう書いた。長文の報告書は、上に行くほど薄くなる。読み飛ばされる。けれど、兵の胸ポケットに入る紙なら、汗で皺になっても、最後まで読まれる。
検閲官は数ページ読み、顔を上げた。水平な口が、水平のまま動く。
「内容は……事実に近い。だが、拡散は危険です」
言い切る声に、飾りがない。危険だと告げるだけで、どう危険かは語らない。語れば、理由が漏れるからだ。
順一郎が一歩前に出た。軍靴が砂利ではなく、床板を鳴らす。
「危険なのは分かってます。だから、ここで止めるんですか?」
問いは柔らかい。けれど逃げ道はない。順一郎は検閲官の胸元ではなく、右手の指先を見ていた。ペン先を持つ指。紙を押さえる指。そこだけ、ほんのわずかに白い。
検閲官が机の端に置いた小箱に、順一郎の視線が落ちる。角が擦れている。手の汗で艶が出ている。守りたい物は、手が触れる。
佑摩が椅子を引かなかった。座る時間を与えないように、真っ直ぐ立って言った。
「現場の努力が、紙一枚で軽く扱われています」
声が大きいわけじゃないのに、壁に当たって返ってくる。訓練場で号令をかけるときの喉の使い方だった。
「伝書鳥の脚環を読み、盗聴の薄片を逆に使い、印刷用紙を補給経路で運ぶ――全部、人が汗を流して積み上げたものです。これを『危険』の一言で潰すなら、誰が次に走りますか」
検閲官の口元が、少しだけ固くなる。水平が、水平のまま強くなる。
柚花は黙っていた。黙っていたのが、逆に不自然なくらいだ。奏音が横目で見ると、柚花は布袋から一通の手紙を取り出していた。封筒の紙が、妙に白い。指で触れたときに、温度がない白さ。
柚花は机の前まで進み、検閲官の視線の中で封筒を置いた。置き方が乱暴じゃない。丁寧すぎて、怖い。
「読んで」
それだけ言った。説明もしない。怒鳴りもしない。
検閲官は手紙を開いた。中の文字は整っている。けれど、行間が空っぽだった。呼び名だけがあり、感謝だけがあり、最後の「生きてる」が、まるで印刷したみたいに軽い。
奏音は息を止めた。これは――ハート泥棒に削られた手紙だ。言葉の形だけが残り、送り主の熱が抜けたやつだ。
検閲官の親指が、紙の端をなぞった。なぞる、というより、確かめる。ここに本当に“誰か”がいたのかを。
沈黙が落ちた。室内の注意書きが紙の重さでたわむ音まで、聞こえる気がした。
順一郎が、そこへ冗談を投げた。投げ方が、下手じゃない。
「……検閲官殿。笑ってくれとは言いません。せめて、怒ってください。怒られたら、こっちは『やりすぎました』って言えます」
奏音は思わず眉を動かした。順一郎は、叱られる役を引き受けた。責任を一枚、自分の前に置いた。
検閲官は返事をしない。代わりに、机の引き出しから朱肉を出し、判を持った。押すか、押さないか。その間で、部屋の空気が薄くなる。
佑摩が息を吐き、奏音が紙束を押さえ、希乃香が扉の蝶番の音を聞き分け、紗里奈が窓の外の足音の数を数えた。夏の昼、駅の向こうで蝉が鳴く。ここまで届かないはずの音が、なぜか耳に残る。
判が、紙の上に降りた。
乾いた音。強くも弱くもない音。
検閲官は朱肉の匂いを一度だけ吸い込み、声を落とした。
「証拠は……認めます。だが、上は嫌います。あなた方より先に、私が叩かれる」
言ってから、検閲官は初めて小箱に触れた。蓋を開けずに、指を置くだけ。そこに入っているのは、守りたい誰かの写真か、届かない手紙か――奏音は聞かなかった。聞けば、その人まで巻き込む。
検閲官の視線が、柚花の置いた手紙に戻った。水平な口が、ほんの一瞬だけ、歪んだ。笑いではない。痛みの形だった。
そして、さらに声を小さくした。
「……上からの命令が来る前に……やれ」
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。
薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。




