第26話 通勤列車に乗る、秘密の読み物
午前五時前、装甲列車は敵首都の外れの操車場から滑り出した。窓は小さく、外の景色は鋼板の縁で切り取られている。車輪の響きが一定の拍になり、倉庫街で追ってきた足音の記憶を、少しずつ上書きしていった。
奏音は通路側の席に座り、膝の上で布袋の口を結び直した。袋の中で脚環が触れ合わないように、結び目を二重にする。柚花は向かいの席で、息を吐くたびに肩が少しだけ上下した。口を開けば、あの乾いた音が喉から出てしまいそうで、言葉を飲み込んでいるのがわかる。
装甲列車の床は、走るたびに腹の奥へ振動を落とした。車内売店の鉄板が、揺れに合わせて小さく鳴り続ける。柚花は缶詰の列の前で足を止め、値札を二度見してから奏音を見た。奏音は頷けず、代わりに財布を開くふりで周囲の視線の流れを確かめる。順一郎は紙コップを受け取り、熱さを感じないように掌の位置をずらした。
紗里奈は車内売店の前に立ち、湯気の立つ紙コップを一つ買った。代金を払う手つきは落ち着いているのに、指先だけがせわしなく、胸元の小箱を探っている。小箱には、倉庫街で拾った盗聴薄片が入っていた。薄い透明な欠片を、紙コップの縁にそっと当てる。列車の振動が欠片に伝わり、そこへ紗里奈の小さな息が重なる。
「……この音、まだ生きてる」
彼女は囁き、耳を片側だけ髪で隠した。欠片の奥から、男の声の癖だけを引きずり出すみたいに、息の長さを合わせていく。喉の奥で、同じ語尾を何度も転がし、不要な揺れだけを削いでいく。
奏音が席から身を乗り出した。
「紗里奈。今、何を作ってるの」
「会議の呼び出し。上の人がよく使う言い回し、盗んで、混ぜて、仕上げる」
紗里奈は紙コップを回し、欠片の角度を変えた。音は目に見えないのに、彼女の指先は、文字を組むみたいに迷わない。
「味方の徽章を付けた人が、屋根にいた。あれが動くなら、呼び出しに反応する。反応した瞬間が、証拠になる」
彼女は売店の棚から古い携帯拡声器を借り、欠片を当てた紙コップをそのまま口元に近づけた。小さく鳴ったのは、誰かの名を呼ぶ声ではなく、命令文の形をした声だった。
「――十分後、検査室。関係者のみ。遅れるな」
言い切ったあと、紗里奈は自分の声を一度だけ聞き直し、眉をひとつ動かした。誰かの癖を借りた声は、借り物の衣服みたいに不快でもあり、必要でもあった。
誰が、いつ、どこで、何をしたか。倉庫街の出来事を、紗里奈は短い文に切って並べた。奏音はその順番を聞きながら、頭の中で紙面を作っていく。長文の報告書にして机へ積めば、上の階級の人間は「後で読む」と言って終わる。読み終わらないまま、現場の命だけが減っていく。だから、やり方を変える。
「一枚で戦争を動かせないなら、一枚を百枚にする」
奏音は独り言みたいに言って、メモ帳の欄を線で切った。
梨寿が売店の棚から包み紙を引き抜き、手のひらでこすった。
「前線で配るなら、この紙だね。汗でにじみにくい。駅の簡易印刷機でも、片面なら走る」
彼女は店員へ、さらりと言った。「次の補給駅で、紙束を二つ。インクは黒。版は同じでいい」。店員は首を傾げたが、梨寿が補給票を一枚見せると、空気が変わった。通すべき道を知っている人の手つきだった。
「配達の道を曲げると、誰が困る?」
梨寿は店員にそう尋ね、店員が答える前に小さく頷いた。「じゃあ、曲げない。私たちはその道に紙を乗せるだけ」
奏音はメモ帳を開き、証拠を短い連載に分ける案を口にした。
「通勤の五分で読み切れる長さ。題は毎回同じ、番号だけ変える。読む人が次を探すように、最後に問いを残す」
「名前は?」
梨寿が訊くと、奏音は首を横に振った。
「人の名前は書かない。場所と物だけ。脚環の刻印、倉庫の番地、屋根の影。読む人が自分の足で確かめられるものだけ」
奏音はページの下に小さく書いた。「次の駅で、誰が待っている?」と。問いは、読む人の時間を奪わない。それでも、胸に引っ掛かるように。
柚花が突然、売店の端に置かれていた古い広告紙を引き寄せ、鉛筆を借りた。手が動き出すと止まらない。線は迷わず、鳥の横顔を一息で描き、首に小さな札をぶら下げた。札には太い字で――伝書鳥主任。
梨寿が目を丸くし、紗里奈が紙コップを持ったまま固まった。
「それ……何」
「読ませるには、顔がいる。いまの私たち、顔がない」
柚花は鉛筆の芯を折る勢いで塗りつぶし、鳥の脚に輪を描いた。脚環だ。輪の中に、屋根の男が転がしていた金属の白い光を閉じ込めるみたいに。
柚花の唇が動いた。声にならないまま、「返して」とだけ形が読めた。
奏音は柚花の手首に触れ、止める代わりに紙を引き取った。
「これ、私が出す。責任も私が持つ」
柚花が言い返そうとして口を開きかけ、閉じた。代わりに、鉛筆を置き、布袋を抱え直した。その指先が震えているのを、奏音は見て見ぬふりをした。見れば、抱えきれない痛みを自分まで引き受けてしまうからだ。
列車が減速し、車内の灯りが一段明るくなった。車掌の声が硬い金属みたいに響く。
「次は――前線連絡駅、到着」
窓の外にホーム灯が並び、制服の影が一つ、柱の横で動かないままこちらを見ていた。腕章に情報部の印。帽子のつばの下、口元がまっすぐで、笑う気配がない。
奏音は紙束を胸に抱え、立ち上がった。背後で、希乃香の小さな咳払いが聞こえる。呼んだのは、彼女だ。
扉が開く前、柚花が奏音の袖をつまんだ。
「……私が描いた」
「ううん。私が持って降りる」
鋼の扉が、空気を切って開いた。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。
薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。




