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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第25話 味方の合言葉、味方の顔じゃない

 敵首都の倉庫街は、夜更けほど人の気配が増える。港から運ばれた木箱の匂いに、油と潮の甘さが混じり、遠い汽笛が胸の奥を震わせた。

  柚花は外套の中で布袋を抱え、指先で口を固く結ぶ。中にある脚環が、歩幅に合わせて微かに触れ合い、鈴のような音になりそうで怖い。奏音がその布袋に視線を落とし、何も言わず、柚花の歩調に合わせて靴底の角度だけ変えた。砂利を踏む音が散らないように、音が一つにまとまるように。

  希乃香は細い路地へ入る手前で立ち止まり、壁に指先を当てた。石の冷たさを確かめるみたいに。紗里奈はその横で、耳だけを動かしている。目は前を見たまま、耳は四方へ滑っていく。



  合言葉は短い。短いほど、噛む回数が少なくて済む。だが短いぶん、間違えたときの破裂音も大きい。柚花は喉を鳴らさないように唾を飲み込み、相手の口の形を先に読む。奏音は倉庫の壁に背をつけ、油の匂いに混じる香水の甘さを拾って、目の前の男が“港の人間”ではないと気づいた。



  待ち合わせの印は、錆びた看板の文字だった。倒れかけた「倉」の字の下、三つ目の扉の前。時刻は、鐘の音が二回鳴った直後――そんな曖昧な約束を、敵の都で信じるしかない。

  扉の脇に、味方の軍服が立っていた。袖の縫い目、胸の釦、帽子の影。懐かしさが一瞬だけ喉に浮かび、すぐ引っ込む。

  男は、顔を上げもせず言った。

  「……雨、降るってよな」

  合図の言葉は、もっと長い。語尾に息が残るはずだ。奏音の背中の毛が、見えないところで立った。



  柚花が一歩進みかけ、奏音の手が、柚花の袖口を軽く引いた。強くない。止めろ、と言うより、ここで息を整えろ、と教える触れ方だった。

  紗里奈は、返事をしない。代わりに、靴の中で足指を動かした。金属の爪を隠す癖が出たとき、彼女は大抵、もう一つ先の音を拾っている。



  男が顔を上げる。灯りに照らされない角度で、口元だけが見えた。

  「早くしろ。……合言葉だろ」

  言葉の置き方が違う。味方の中で耳に染みた、あの人たちの呼吸じゃない。奏音は喉の奥で一度だけ息を吸い、わざと大きな声を放った。

  「――雨は、東から来る! だから灯りを消せ!」

  倉庫街の空気が、ぱきんと割れる。木箱を叩く作業の音が一瞬止まり、どこかの犬が吠えた。遠くの見張りの足が、ばらばらに動き出す。合図が違う、と分かる者だけが、反射で体を向けるはずだ。



  男の肩が跳ねた。

  「お、おい……声がでけぇ」

  叱る言い方が、馴れ合いじゃない。柚花の胃が冷える。奏音は笑わないまま、さらに一歩前へ出て、男の胸元の徽章を見た。縁に付いた泥が、乾き方からして最近のものだ。敵の都の泥だ。

  紗里奈が、低く短く言う。

  「二人、右。箱の陰。刃が鳴った」

  音にならない音を、彼女は言葉にする。希乃香が地図を開かずに、路地の角を指差した。風の流れで、そこが抜け道だと分かるような指差しだった。



  奏音は、布袋を抱える柚花の前に半身を入れたまま、男から目を離さない。

  「合言葉、もう一回。今度は、ちゃんと」

  男の喉が鳴る。違う言葉を探す時間が、短すぎる。

  箱の陰から、靴底が二つ、同じ調子で近づいた。合わせた歩幅。軍靴じゃない。



  柚花は、布袋の口を指で押さえ込み、体の内側で脚環を沈めた。金属が鳴らないように、胸で抱えたまま息を止める。奏音の肘が、柚花の肩に当たり、次の合図になる。走るな。滑れ。

  四人は、同じ瞬間に動いた。希乃香が先に路地へ入り、紗里奈が一拍遅れて振り返り、音の洪水の中から「追ってくる足」を選り分ける。奏音が最後に、男へ向けて、わざともう一度叫ぶ。

  「東だ! 東からだ!」

  嘘の合言葉を撒く。敵の都の音を、敵の都のまま混ぜ返す。



  路地へ滑り込んだ直後、背後で木箱が崩れる音がした。追う足が二つ、三つ、増える。紗里奈が壁に耳を当て、薄く息を吐く。

  「……さっきの軍服、味方じゃない。でも、味方の匂いがする」

  匂い、と言いながら、彼女は耳に触れた。音の癖を匂いと呼ぶとき、紗里奈はもう、嫌な答えに触れている。



  振り返った奏音の視界の端で、倉庫の屋根が切り取られた。月明かりの下、そこに一人、同じ軍服がいた。高い位置から見下ろす影が、こちらの逃げ道を全部知っているみたいに、動かない。

  男は帽子のつばに指を当て、ゆっくり持ち上げた。灯りを背にして、顔は見えない。ただ、胸の徽章だけが、味方のものと同じ形で鈍く光っていた。

  柚花は布袋を抱えたまま、喉が鳴るのを必死に抑えた。袋の中の脚環が、あの影の指先にある気がして、胸が痛む。奏音も息を飲み、声を出さずに唇だけ動かした。

  ――届かなかった手紙は、最初から、この屋根の上に集められていたのか。

  影の男は、胸元から何かを取り出し、指の腹で転がした。金属が月に触れて、一瞬だけ白く光る。鳥の脚環の輪郭だった。紗里奈の耳が、遠いのに痛そうに動く。金属が擦れる、あの乾いた一音が、確かに聞こえたからだ。



  合言葉は、波のない声だった。喉の奥で一度も擦れていない。言葉だけが形になって、空気へ放られている。

  紗里奈が耳を指で押さえ、眉を動かした。次に、薄片の端を軽く弾く。反響が返らない。

  「……録って、流してる」



  希恵の手が、胸の前で止まる。指が二本。『沈黙』。佑摩が頷き、順一郎が唇を閉じ、梨寿は薬包を握り直した。奏音は、自分の呼吸音が相手に渡らないよう、舌を上あごへ押しつける。



  柚花だけが、腹の底で火を起こした。怒りを言葉に変える前に、わざと大きく息を吸う。

  「合言葉がそれ? 違う違う! “月翡翠は冷たい、でも湯呑みは熱い!”」

  倉庫街の影が一斉に揺れた。見張りの視線が、声の方へ吸い寄せられる。柚花はその隙に、扉の金具へ肘をぶつけてわざと音を出し、さらに混乱を上塗りした。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



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