第24話 脚環の山は、誰の涙で光る
敵首都の夜は、灯りが多いのに、足元が暗い。
中央図書館の地下から抜け出した一行は、換気口の先の狭い通路を腹ばいで進み、石の冷えを背中に貼り付けたまま、裏路地へ落ちた。息を吐く音さえ惜しくて、柚花は口を手で押さえたまま、目だけで「暑い!」と叫ぶ。
佑摩が指を二本立て、歩幅を小さくする合図を出す。柚花が同じ指で「でも急ぐ」と返す。会話は成立しないのに、やり取りだけはやけに賑やかだった。
「持ち過ぎだ」
佑摩が小声で言った。規律の音だ。
柚花は胸の前の布袋を抱え直し、肩をすくめる。布袋の中で、金属が触れ合って、かすかな鈴みたいな気配を出す。
「……だって、あれ全部、置いていけない」
奏音が布袋へ視線を落とした。脚環。伝書鳥の輪。山ほどあった中から、梨寿が「番号の刻みが違うのを」選り分け、紗里奈が「擦れ方が生きてるのを」指で示し、順一郎が「意味のありそうな刻み」を拾った。それでも、持っているだけで胸が重い。
角を一つ曲がると、屋台の匂いがした。油で揚げた豆の香り。甘い蜜。兵の靴音に混じって、民の笑い声が浮く。戦勝歌が遠くで鳴り、いま通勤途中に読む物語みたいに軽い空気が、路地の口まで流れてきた。
その軽さが、逆に怖い。
希乃香が手の甲を振った。止まれ。彼女は路地の先を覗かず、壁の欠けを見ている。角度、影の長さ、踏み跡の向き。逃げるための情報だけを拾い、余計な興味を捨てる目。
紗里奈が耳を澄ませ、首を傾けた。
「……二人。提灯、右。歩幅、揃えてる」
巡回だ。しかも、歩幅が揃っているのは、眠い巡回じゃない。目的のある足音。
希恵が、合図を出した。三本指。分散。五歩。集合は次の角。
奏音は頷き、鉛筆を握り直す。書きたいのに、今は走らなければならない。責任が、背中を押す。
梨寿が先に動いた。路地の入り口に立っていた子ども二人へ、躊躇なく近づく。顔を上げた子どもの目が、布袋と軍靴を見て固まる前に、梨寿は飴を一つ、指先で差し出した。
「甘いの、好き?」
子どもは頷いた。もう一人が遅れて頷く。梨寿は二つ目の飴を渡し、唇だけで「静かに」と言う。その代わりに、目で笑う。
柚花が一瞬だけ眉をひそめた。「今それ?」の顔だ。梨寿は柚花へ飴の包み紙を見せ、包み紙の端を破って、わざとらしく手を振った。キラッと光る。子どもの視線がそっちへ吸われる。
次の瞬間、梨寿は子どもの肩を軽く抱いて、裏手の細い抜け道へ誘導した。
「兵隊さん、あっち行った?」
子どもは反射で指を逆方向へ向ける。梨寿は「助かった」と口の形だけで礼を言い、子どもに小さく親指を立てた。子どもは、飴を舌で押さえたまま、得意げに胸を張る。
追手の足音が近づく。
希乃香は迷わず、古紙の山へ飛び込んだ。路地の角に積まれた、捨てられた新聞と古い帳票。湿った紙の匂いが強い。彼女はそこへ、奏音の肩を押し、次に柚花の腕を引いた。
「……本の匂いに、紛れる」
奏音は、胸の奥がざらつくのを感じた。図書室の匂いじゃない。紙が汗と油を吸って腐りかけた匂い。それでも、ここでは救いになる。
柚花が布袋を抱えたまま、古紙の山に膝を落とす。ノースリーブの腕に紙片が貼り付いて、白い鱗みたいになる。柚花はそれを剥がす余裕もなく、奏音の手の甲を掴んで引き寄せた。
「……手、冷たい」
奏音は返事の代わりに、柚花の指を軽く握り返した。叱る言葉も、褒める言葉も、いまは出せない。出せば、音が出る。
順一郎は古紙の陰で、布袋から脚環を一つ取り出した。月翡翠の粉が残っているのか、金属に薄く白い膜がある。
彼は脚環を親指で撫で、刻みを読む。文字ではない。点と線、角の欠け、輪の継ぎ目。図書カードの圧痕みたいに、爪でなぞっても消えない跡がそこにあった。
「……回収担当、個人名だ」
順一郎は、声を出さずに唇だけで言った。希恵が目を細め、紗里奈が息を止める。
順一郎は、もう一つ脚環を重ね、刻みの癖を比べた。指先が、ほんの一瞬だけ止まる。そこに、嘘の匂いが混じった。
「同じ名を、二人が使ってる。……内通の匂いがする」
奏音はメモ帳を開き、鉛筆の芯を紙に押し当てた。擦る音が出ないように、息を殺す。ページに並ぶのは、脚環の刻みの写しと、対応する宛先の断片。前線の補給駅、塹壕の番号、部隊名の略称。
宛先が並ぶほど、胸が詰まる。届かなかった手紙が増えるほど、世界は広がるのに、救える範囲は狭くなる。
追手が、角を曲がった。
提灯の光が、古紙の山の端を舐める。佑摩の手が、柚花の肩に触れた。押し止める力。規律の手。柚花は反射で立ち上がりかけ、そこで止まった。珍しく、止まった。
紗里奈が耳だけで笑った。音にならない笑いが、目尻にだけ浮かぶ。
提灯の兵が、鼻を鳴らした。
「……紙くせぇ」
古紙の山を蹴る気配が来る。希乃香が、紙の束の間から、薄い布切れを滑らせた。香料袋だ。敵都市の図書館で嗅いだ、背表紙の磨き油の匂い。甘くて、気持ち悪いほど“本らしい匂い”。
匂いが跳ねた瞬間、兵の足が止まる。
「……なんだ、ここ、図書館の裏か?」
兵は勝手に納得し、提灯を振って離れていく。図書館の権威が、こんな所でも盾になる。奏音は歯を食いしばる。守ってくれたのは、本ではなく、権威だ。その事実が、さらに腹立たしい。
兵の足音が遠のいたところで、希恵が合図した。移動。いま。
一行は古紙の山から抜け出し、さらに細い路地へ滑り込む。梨寿が子どもたちの方へ、もう一つ飴を投げた。子どもが笑いそうになり、口を手で押さえる。飴は光って転がり、敵の目を引く。
角を三つ曲がった先で、路地の壁に白い文字があった。
煤で書いたような、短い言葉。
『会いに来い』
味方の合言葉だ。けれど、字の癖が、奏音の知っている味方の書き方と少し違う。
柚花が壁に指を当て、指先に付いた煤を見て、眉を吊り上げた。
奏音は、メモ帳を閉じる手を止めた。
順一郎が、誰にも聞こえないほど小さく息を吸った。
会いに行けば、罠かもしれない。
会いに行かなければ、鳥の脚環の山は、ただの金属の山のままだ。
鳥舎に入ると、温い息と羽毛の埃が一気に押し寄せた。藁の匂いに混じる糞の匂いは、嫌なはずなのに「生きてる」の印だった。奏音は袖で鼻をこすらず、視線だけで餌桶の位置を確認する。鳥の世話は、目の前の小さな作業の積み重ねだ。
脚環の金属は冷たく、指先に当たると小さく鳴った。柚花が「それ、図書カードの角みたい」と言うと、鳥が首を傾げて、まるで返事をするように喉を鳴らした。奏音は笑いそうになり、笑う前に餌を一粒だけ置いた。甘やかしではない。次の一歩のための交渉だ。
鳥の胸は小さく上下し、温さが手袋越しにも伝わる。奏音はその温さを、忘れないように掌で包んだ。守ると言う前に、まず冷えないようにする。冷えたら飛べない。
止まり木の上で鳥が羽を膨らませると、空気が一段だけ柔らかくなった。奏音は手袋の指先で藁を整え、藁の向きで鳥の落ち着きが変わるのを確かめる。図書室の本と同じだ。揃うと、鳴き方が変わる。
柚花が薄い冊子の束を抱え直し、紙の端が藁に触れない角度へ傾けた。紙に付いた匂いは、読む人の集中を削る。順一郎が「鳥の便は早いけど、匂いは遅い」と真面目に言い、奏音は真面目に頷いてしまってから、遅れて自分の頷きを恥ずかしがった。




