第23話 ハート泥棒の保管庫に、夏の音がない
閉館後の図書館で「走るな」は、たぶん戦場で「撃つな」と同じくらい難しい。
柚花は頬を膨らませたまま、順一郎の背中にぴったり付いて歩く。口で文句を言えないぶん、目で言う。奏音はその視線を受け流し、鍵束の重さを掌で測りながら、通路の角を一つずつ確かめた。
階段を下りるほど、背中に湿気が貼りつく。古い革装丁の匂いが遠いのに濃い。奏音は手袋の指で壁を軽く撫で、石の粉が付かないように気をつけた。ここで痕を残せば、あとで逆に辿られる。柚花は飴の甘さに助けられた顔をしているのに、足だけは床の継ぎ目を避けて踏む。
「いま、巡回が曲がった」
紗里奈が指を一本立てる。提灯の油の匂いが遠のき、かわりに冷えた石の匂いが近づいた。さっきまで耳にまとわりついていた紙の擦れも、いつの間にか薄い。
梨寿が小さな布袋を差し出し、柚花の口元を指した。飴だ。柚花は首を振る。噛んだら音が出る、と言いたいらしい。梨寿は諦めず、自分の頬に飴を当てて「口の中で溶かして」とだけ唇を動かした。
柚花は一瞬迷い、結局、舌の上にそっと置いた。目が少しだけ丸くなる。甘さが来たのだろう。
禁閲棚の通路のさらに奥、床板が木から石へ切り替わる地点で、希乃香が立ち止まった。
指先が壁の継ぎ目を探り、次の瞬間、棚の裏に隠れた小さな取っ手が現れる。彼女は息を吐かずに引いた。扉は音を立てず、暗い階段が口を開ける。
佑摩が前へ出て、指で順番を示す。先に希乃香、次に紗里奈、奏音、柚花、梨寿、順一郎。誰も反論しない。階段の一段目に足を置くときだけ、柚花がわざとらしく肩をすくめた。肩をすくめて、わざと鼻で笑った。目だけは階段の闇から離れない。
地下は冷えすぎていた。
夏の夜なのに、汗が引く。あの中立市場で聞いた蝉の声も、ムーンジェイド粉塵のざらつきも、ここにはない。代わりに、音が“落ちていく”感じがする。
柚花が耳元で囁いたつもりの言葉が、途中で消えた。唇は動いたのに、奏音の鼓膜へ届かない。柚花は自分の声に驚いて、手で口を押さえる。そこで笑いそうになった自分に気づき、さらに悔しそうな顔をした。
紗里奈が立ち止まった。空気に耳を当てるように、首を傾ける。
「……音が吸われてる」
奏音は眉を動かし、壁へ掌を当てた。石は滑らかで、冷たさが指に残る。普通の地下なら、どこかで水滴が落ち、配管が鳴る。だが、ここは違う。静か過ぎて、心臓の鼓動がうるさい。
紗里奈が指先で壁を叩いた。トン、ではなく、コト、と湿った音だけが返る。反響がない。
「石が……布みたい。叩いても、戻ってこない」
階段の先は、保管庫の前室だった。鉄扉が二枚、間を挟んで並んでいる。扉の上に、白い札が貼られていた。
『空調停止中 開閉は最小限』
奏音は札を見て、思わず息を吐きかけて飲み込んだ。止まっているはずの空調が、ここまで静かなら、逆に“止めた理由”がある。
佑摩が指で合図する。撤退の手順だ。扉を開けたら、右へ寄って、見張りを立て、証拠だけを取る。余計なことはしない。――言葉にせずとも、全員がわかる形で、佑摩は手の動きだけで命令を組み立てた。
柚花が指を二本立て、目で「余計なことって、どこから?」と聞く。佑摩は真顔のまま、柚花の袖のない腕を指してから、扉を指した。柚花は「えっ、私のせい?」という顔をして、唇を尖らせる。順一郎が肩を震わせ、笑いを喉で殺した。
順一郎が鍵を差し込む。回したはずなのに、音がしない。成功の気配まで吸われる。
扉が開くと、さらに“無音”が押し寄せた。空気が重く、紙の匂いが薄い。保管庫なのに、本の匂いがしない。代わりに、月翡翠を削ったときの粉の匂いだけが鼻に付いた。
棚が並び、木箱が積まれ、番号札がぶら下がっている。だが、札の揺れすら見えない。誰かが、ここで呼吸しても、音は奪われる。
奏音は木箱の蓋に手を掛け、少しだけ持ち上げた。中には薄い板――録音薄片に似たものが、布に包まれている。紗里奈の瞳が細くなる。彼女は触れずに、耳だけを寄せた。布の下で、何かが“鳴る寸前”で止まっている。
「ここ、嫌だ」
柚花が小さく言った。今度は、かろうじて届いた。声が震えたのではなく、音が削られて、残りだけが伝わった。
奏音は柚花の肩を叩く代わりに、自分の図書カードを掌で叩いた。ペラ、と情けない音。ふだんなら笑う音だ。だが、ここではそれさえ丸く潰れる。
「通勤列車の売店で、これ叩いたら怒られるな」
順一郎が口の形だけで言い、梨寿が目だけで笑った。笑う余裕が残っていることが、救いだった。
柚花が天井を見上げた。格子状の換気板。ねじ止めが一本だけ甘い。
彼女は外套の袖をまくる必要がない。腕を伸ばし、指先でねじを回す。金属が擦れるはずの音は、ここでは気配にしかならなかった。
「……抜ける」
柚花が換気板を外し、暗い空洞を覗く。風はない。けれど、逃げ道になる。彼女は得意げに眉を上げ、奏音へ親指を立てた。奏音は頷きだけで返す。褒め言葉を言う余裕はない。
そのとき、保管庫の隅で、梨寿が立ち止まった。
床に散らばる、金属の小さな輪。拾い上げると、指に冷えが貼り付く。伝書鳥の脚環だ。
梨寿は一つ、二つ、三つと数え、数えるのをやめた。数え切れない。
薄暗い影の中に、脚環だけが山になっていた。
柚花の喉が鳴った。音は出ないのに、喉の動きだけが見えた。
奏音はメモ帳を開き、鉛筆を走らせようとして、手が止まる。これを全部書けるのか。書けなければ、誰の手紙が届かなかったのか、また闇へ落ちる。
紗里奈が脚環の山に耳を寄せ、目を閉じた。
「……ここに、鳥の記憶が残ってる。匂いじゃない。金属の擦れ方で、飛び方がわかる」
順一郎が息を吸い、佑摩が手を握りしめる。希乃香は換気口の向こうを見て、すぐに引き返す合図を出した。
この山を作ったのは、誰だ。
そして――脚環を外された鳥は、どこへ行った。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。
誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。




