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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第22話 図書カードは嘘をつかない

 敵首都の中央図書館、閉館後の閲覧禁止棚の前。鍵は、金属の冷たさ以上のものを握らせてくる。

  順一郎は指先で溝をなぞり、耳を澄ませた。廊下の遠い方で、提灯の火が揺れる気配がする。紗里奈は書架の影に身を沈め、奏音は掌の上の鍵を布で包んだ。音を立てないために、息まで薄くする。



  「開けるの?」

  柚花が口の形だけで問い、順一郎は首を一度だけ縦に振った。頷きは軽いのに、意味は重い。

  禁じられている棚を開くのは、敵に見つかったら終わりだ。けれど、開かないまま帰るのも、同じくらい危ない。鍵の出どころが味方なら、ここで何が行き来しているかを確かめないと、明日も誰かの手紙が消える。



  奏音が目で合図する。紗里奈が巡回兵の足音を数える指を止めた。いま、遠い。いまだけ、近くない。

  順一郎は棚の側板に鍵穴を探し、木目の継ぎ目を指で押した。カチ、と小さく沈む。鍵穴が現れた。敵の図書館が、こういう仕掛けを隠すのは理解できる。理解できないのは、ここに“味方の型”が合うことだ。



  鍵が回る音を、順一郎は喉の奥で飲み込んだ。

  扉は、驚くほど素直に開いた。ひやりとした空気が、紙の匂いと一緒に漏れ出してくる。柚花が鼻先を押さえた。くしゃみは戦の合図になる。



  棚の内側は、閲覧室とは別の細い通路になっていた。幅は人ひとり。壁の両側に、背の高い書架が並ぶ。分類札は外側と違い、手書きの数字で統一されている。背表紙の金箔は擦れ、紙の角は丸くなり、何度も引き抜かれた痕が残る。

  「ここ、ずっと閉じてた場所じゃない」

  順一郎が囁くと、奏音が同意するように目を細めた。禁じられているのに、読まれている。禁じられているからこそ、読まれている。



  通路の奥で、紙を捲る音がした。

  誰かがいる。しかも、息の荒い誰かだ。



  順一郎は、深呼吸を一つだけしてから歩みを止めた。声を掛けるか、引くか。ここで騒げば巡回が来る。だが、逃げれば背中を見られる。

  迷いを切り裂いたのは、奏音の目だった。『本を運ぶ係』――希乃香の偽装が通る相手なら、司書だ。



  順一郎は通路の角から、ゆっくり顔を出した。

  灯りの下に、司書服の人物がいた。机に向かい、蔵書台帳を抱えるようにしている。肩が上下するたび、紙が擦れる。机の端には小さなスタンプ台。黒いインクが蓋を開けられたまま、乾きかけていた。脇には、図書カードの束。紙の端が揃い過ぎていて、持ち主が“揃える癖”を持つとわかる。



  順一郎は、咳払いの代わりに本の背を軽く叩いた。コト、と木が鳴る。

  司書は跳ねるように振り向いた。片手が、胸元のカードケースを押さえる。目は順一郎ではなく、通路のさらに奥を見ていた。

  「……誰です」

  声は細いのに、語尾が硬い。怖れている相手が、ここにいる。



  順一郎は帽子を少しだけ持ち上げた。礼の形を見せるためだ。

  「寄贈本の運搬で。さっき外の係の方に案内されました。棚の鍵が合ってるか、確認してほしいって」

  嘘は短く。言い訳は丁寧に。図書館の人は、雑な言葉を嫌う。順一郎は過去に図書室で叱られた回数だけ、その点を学んでいる。返却期限を破ったときの“延滞札”の赤さも、まだ覚えている。



  司書の視線が鍵に落ち、そこで止まった。

  怖れが、別のものに変わる。軍の階級章を見たときの怯えではない。もっと、生活に根を張った怯えだ。上司の顔色を伺うときの、喉の硬さ。

  「……その鍵、どこで」

  「棚の裏にありました。あなたが置いたんじゃないなら、誰が……」

  順一郎が言い終える前に、司書の手が小さく震えた。鍵ではなく、カードケースの方が強く押さえられる。順一郎はそこで確信する。

  この人が怖れているのは、巡回兵でも司令部でもない。もっと別の、図書館の外から来て、図書館の中を縛る何かだ。



  順一郎は言葉を変えた。

  「閲覧記録が消されてる。だけど、図書カードの癖は消せない。あなたは、それを知ってる人だ」

  司書の瞬きが止まった。短い沈黙のあと、彼女は机の引き出しをそっと開け、束ねたカードを一枚だけ取り出した。紙の角は丸く擦れている。何度も触った証拠だ。

  「……嘘をつかないのは、これです」

  指がカードの裏を示す。薄い圧痕。インクが消されても、押し跡は残る。



  奏音が、鞄から薄い紙片を出した。司令部で使う伝言札の端切れだ。彼女はそれをカードの上に重ね、指の腹で軽く擦った。圧痕の部分だけ、僅かに影が濃くなる。

  「……押されてる印の形が違う」

  奏音の声は喜びでも勝ち誇りでもない。ただ、見つけた事実を置く声だ。

  柚花が覗き込む。印は図書館の蔵書印ではない。丸でも四角でもない。二つの紋が重なったような、変な形。

  司書が、声にならない息を吐いた。

  「会議の方々が……」

  言いかけて、飲み込む。舌が動き直し、別の言葉に置き換えられる。

  「……上の方が、ここを使うんです」

  紗里奈の指が止まる。廊下側の足音は、まだ遠い。だが、司書の目は遠くない。彼女の頭の中では、“会議の方々”はいつもここにいる。



  順一郎は、心の中で符号を繋げた。

  暗号札で見えた「両国合同」。坑道で聞いた「こちらへ来い」の矢文。司令部型の鍵。そして、司書が口にした“会議”。軍ではない場所で、軍より強い命令が動いている。



  順一郎は机の端を指で二度叩いた。合図でも威圧でもない。考えを揃えるための音だ。

  「優先順位を決めよう。まず、ここに何が運ばれたか。次に、それが誰の指示か。最後に、誰が持っていったか」

  奏音が小さく頷く。紗里奈は通路の出口へ半歩下がり、巡回が近づいたときに遮る位置に立つ。柚花は司書の前に身体を入れ、机上のカード束が見えない角度を作った。司書の背中が、ほんの少しだけ楽になる。



  奏音が台帳を捲る。紙の端の摩耗が、同じ位置で繰り返されている。そこが“よく見られるページ”だ。

  「……ここ」

  奏音の指が止まった。指先の爪がわずかに白い。恐怖ではなく、怒りで力が入っている。

  ページの上部に、日付と、搬入元の印。品名の欄に、聞き慣れない語が並ぶ。部品、薬剤、封緘材――それだけなら軍需で片付く。だが、その次が違う。



  柚花が声を出さずに口を動かす。

  ――ハート泥棒。



  順一郎は目を細め、文字の続きまで見た。

  “完成品”と、はっきり書かれている。しかも、搬入先の欄には、図書館ではない別の場所の符号。司書の手が、そこを覆うように動いた。守ろうとする指の動きが、逆に答えを示す。



  「これ、写せる?」

  順一郎の問いに、奏音は首を振りかけてから、振り切らずに止めた。写しを作る時間がない。だが、残さないと意味がない。

  柚花が自分の図書カードを差し出した。角が欠けた、学園のものだ。順一郎は一瞬だけ目を丸くし、すぐ受け取る。

  「……返却期限、守ってた?」

  柚花が眉を動かす。肯定とも否定とも取れる動きだった。

  順一郎はカードの裏に、奏音が擦り出した印の形を爪先でなぞり、頭の中に刻み付けた。図書カードは嘘をつかない。嘘をつかないものを、嘘の中へ持ち込むしかない夜がある。



  通路の外で、提灯の火が揺れる影が近づいた。

  紗里奈が唇を結び、奏音が台帳を閉じる準備をする。柚花が司書のカード束を胸の前へ戻し、順一郎は鍵を抜く指に力を込めた。

  けれど、順一郎の目は、最後の一行を見逃さなかった。



  搬入担当者の署名欄に、見慣れた筆圧の癖。

  味方司令部で見た、“矢文の筆”と同じ癖が、ここにもある。



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