第21話 敵首都の中央図書館、静かな戦場
敵首都の夜は、石畳まで息を潜めていた。
閉館の鐘が鳴ってから二刻ほど。中央図書館の屋上にある止まり木へ、伝書鳥が滑り込むように降りた。羽が一度だけ鳴って、すぐ静まる。
柚花は外套の襟を指でつまみ、屋上の縁へ身を寄せた。街灯の光が届かない影を選び、鳥の脚環を外す。紙片は短い。だが、紙より先に粉の匂いが来た。
「……月翡翠。ここにも」
言い切る前に、柚花は言葉を喉の奥へ戻した。屋根下の換気口から、金属の靴底が擦れる音が上がってきたからだ。
奏音は屋上扉の陰で懐中時計を伏せ、秒針の動きを指で追った。二、三、四――足音が角を曲がる位置で一拍空く。
「巡回は、北階段を上がってから屋上を見回す。あと七十秒」
囁きは低い。けれど柚花には充分だった。彼女は鳥のくちばしへ乾いた豆を一粒押し込み、手の甲で軽く撫でてから放つ。鳥が飛び去る影が、月の薄い輪に溶けた。
合図は、屋上からではなく中へ落とす。
柚花は図書カードを二枚取り出し、角欠けの形を確かめると、換気口の隙間へ挟んだ。欠けが三つ。昨夜、順一郎が決めた「通れる」の印。指先に残る紙の感触が、学園の図書室を思い出させる。
学園では、手紙の束を抱えて泣いた兵の家族がいた。封を切っても、言葉だけが転がり落ちて、熱がなかった。あれを作った道具の手がかりが、この建物のどこかにある――そう言ったのは紗里奈だ。
「道具は記録を残す。残さないと作れない。中央の蔵書庫なら、必ず痕跡がある」
その言い方は淡々としていたが、彼女はその夜、指先の爪を一度だけ噛んだ。奏音はそれを見て、メモ帳の端を折り、覚えておくことにした。
扉の向こうで、順一郎が小さく息を吐いた。濡れた紙の匂いがする。彼は念のため、屋上扉の蝶番へ布を当て、開く角度を指で測った。
「行こう。今は、音が味方だ」
奏音は頷き、扉を押す。軋みは出ない。布が噛んで、金属は沈黙した。
階下の閲覧室は、昼のざわめきが嘘のように整列していた。机、椅子、書架。背表紙の金文字だけが、月明かりを拾って点々と光る。古紙と蝋の匂いが混ざり、喉の奥が乾く。
返却台の上には、まだ温度の残る湯呑みが一つ置かれていた。誰かが、ついさっきまでここにいた証拠だ。
柚花の視線が湯呑みに吸い寄せられ、指が半歩だけ伸びる。奏音はその手首をそっと押し戻した。彼女は頬を膨らませ、でも声は出さない。
順一郎が床に落ちた紙片を拾い上げた。貸出票だ。返却予定日の欄に、同じ日付が何度も書き直されている。兵の手の震えが、そのまま紙へ残っていた。
館内案内板には、閉館後の禁閲棚へ触れれば鈴が鳴ると小さく書かれていた。柚花は鼻で笑い、奏音はメモ帳に「鈴」とだけ書いて線を引く。
鈴が一度鳴れば、窓の鎧戸が降り、外の見張りが駆け込む――昼の案内係の声が、奏音の耳の奥で反響した。
紗里奈は床に膝をつき、耳を板に近づけた。目は閉じているのに、指先が棚の脚をなぞり、距離を測っている。
「三歩、四歩、五歩……同じ間隔。折り返しは必ず、角の前で一拍止まる。巡回は二人。片方が鍵束を持ってる」
奏音は胸元のメモ帳を開き、鉛筆で線を一本引いた。図書室で培った癖が、今夜は地図になる。棚札に書かれた番号と足音の周期を重ねると、巡回が立ち止まる位置が絞れた。
「……禁閲の棚だ」
柚花が首を傾ける。
「禁止棚って、ここにもあるんだ」
順一郎は指で唇を塞ぐ代わりに、棚札をそっと触った。分類記号は見慣れない。だが、札の裏に付いた小さな印――紙を二度折った跡は、味方の司令部で使う伝言札と同じ折り目だった。
「誰かが、ここで同じ癖を使ってる」
紗里奈の指が止まる。足音が近い。彼女は立ち上がらず、書架の影へ滑り込む。奏音も続く。柚花は外套の裾を押さえ、棚の角へ肩を預けた。
巡回兵が通り過ぎる。灯りは提灯一つ。光が背表紙を舐め、三人の影をかすめ、また遠ざかる。
静けさが戻った瞬間、紗里奈は棚の奥へ手を伸ばした。板の裏に隠された小箱。留め金は古いが、開け方は丁寧に磨かれている。触る前に、彼女は指先で箱の埃をなぞり、呼吸を整えた。
中には鍵が一本。
奏音が受け取り、掌の中で回した。重い。溝の形は見慣れたものだった。味方司令部の禁庫を開ける鍵――あの型と、寸分違わない。
柚花が、笑うでもなく呟いた。
「敵の首都の図書館で、どうして……」
順一郎は鍵の頭を指で弾き、金属音を聞いた。短く澄んだ音がした。
「作ったのは敵じゃない、って言いたいのか」
答えはまだ出ない。だが、鍵の冷たさだけが、確かに掌へ染みてくる。
屋上の止まり木は、古い旗竿の影に隠れていた。風が強く、伝書鳥の羽がふくらむ。柚花は袖のない腕を大きく振って合図を作り、すぐに引っ込めた。腕を見せるほど、屋根の見張りに見つかりやすい。
希乃香が寄贈本の木箱へ布をかけ、外側の札を貼り替える。書名の字は少しだけ崩し、敵首都の筆癖へ寄せた。奏音はその筆致を見て、図書室で見てきた“手癖”が、ここでも人を救うのだと喉の奥が熱くなる。
紗里奈は床の板目を指で叩き、巡回の足音が戻る周期を測った。三十六拍、ひと拍のズレ。ズレの理由は、曲がり角の段差だ。順一郎が小さく頷き、段差の前で足を止める手振りを皆へ回す。
奏音は台帳の端に残る消し跡を見つけた。消されたのは名前だけではない。閲覧日時の並びが、不自然に揃えられている。誰かが“同じ日”を隠したい。息が浅くなる。鍵が、味方の型をしている理由が、背中で形を持ち始めた。
図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。
柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。
棚番号の札が揺れて、カタンと鳴った。奏音はその音を聞いて、やっと肩の力を落とした。戦場の音は終わらない。けれど図書室の音は、終わり方を知っている。
図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。
柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。
返却箱の口はいつもより小さく見えた。柚花が箱の縁を撫で、紙が引っかからないことを確かめる。引っかかって破れたら、今日の記録が欠ける。欠けたら、また同じことが起きる。
図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。
柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。
戦記の背が棚に収まると、空気が一段だけ整う。奏音は整った空気に甘えず、最後に床の埃を足先で払った。埃を払うのは、ここが生活の場所だと宣言することだった。




