第20話 声を盗む者、心を盗む者
宿の二階、物干し台へ出る小さな梯子を上ると、鉱山都市の夜風が頬に刺さった。屋根瓦の隙間から立ちのぼる煤の匂いが、昼の坑道を思い出させる。遠くで、交代の笛が短く鳴り、街灯の黄色い輪が石畳を濡れたように照らしていた。
奏音は屋根の端にしゃがみ、膝の上で両手を組んだ。指先が白い。さっき薄片が吐き出した「撤退せよ」が、まだ耳の奥で反響している。自分の声なのに、自分の胸に入らない。喉が乾いて、唾を飲む音がやけに大きい。
柚花が隣に腰を下ろし、風に煽られないように鞄を抱えた。鞄の口から、伝書鳥の羽根が一枚だけのぞいている。
「奏音、いま自分の声に腹が立ってる?」
奏音は笑えず、首だけ横に振った。腹より、もっと深いところが冷えている。
「……声が、武器になった。俺の知らないところで」
順一郎が屋根瓦を一枚、指で軽く叩いた。音の響き具合を確かめる癖が、こんなときにも出る。
「盗む側は、君の声だけじゃない。君が積み上げた『信じられる感じ』も盗もうとしてる」
希乃香が風に髪を押さえながら頷く。彼女の手には、床下から見つけた薄片が布に包まれている。紗里奈がそれを受け取り、膝に置いた。
「ねえ、奏音。声を盗まれたなら、盗まれたままにしない」
紗里奈は布をほどき、薄片を月明かりにかざした。縁がわずかに翡翠色に光る。指先で縁を二度叩き、爪で短く擦ると、薄片は小さく震え、かすれた息の残像のような音を漏らした。
「この薄片、再生だけじゃない。『入れる』ほうもできる。だから――偽の命令を、こちらで作る」
奏音の肩が跳ねた。
「偽の命令? それ、俺たちが同じことをするって――」
言いかけて、言葉が詰まる。正しさを守るために、正しくない手段を取る。図書室では、そんなことを子どもに勧めたことはない。
柚花が鼻で短く息を吐いた。屋根の上の乾いた空気に、吐息だけが白く混じる。
「同じにしないよ。読んでほしい手紙には、合図を入れる。私たちが書いた命令には、私たちだけが分かる穴を開ける」
「穴?」
柚花はポケットから図書カードを一枚引っぱり出し、角を爪で欠いた。欠けた欠片を風に飛ばさず掌で押さえる。
「ここ。右上の角。司令部印があっても、ここが欠けてなかったら、うちの人は動かない。欠けてたら動く。簡単。図書カードって、角が欠けてるの、見慣れてるでしょ」
奏音は思わず、その欠けを見た。図書室の貸出印が押される位置と、同じ辺りだ。胸の奥に、ほんの少しだけ空気が入る。
佑摩が屋根の反対側に立ち、街路を見下ろした。灯りの輪の外で、誰かが立ち止まり、こちらを見上げたようにも見える。だが次の瞬間、煤の煙に紛れて消えた。
「条件がある」
佑摩は振り向かずに言った。声は低いが、屋根瓦に吸われず届く。
「偽の命令で動くのは、盗み聞きしている耳だけにする。味方の部隊が巻き込まれないよう、先に合図を回す。俺が直接、伝える」
奏音は唇を噛んだ。佑摩が自分の足で走ると言うとき、たいていは怪我をして帰ってくる。
希恵が、軍帽のつばを押さえながら屋根に上がってきた。夜風が制服の裾を鳴らす。
「許可は私が出す。責任も私が負う」
希恵は懐から小さな手帳を出し、鉛筆で数行書きつけた。紙に残るのは、あとで誰かが否定できない証拠だ。
「君たちは図書室の帳面をつけるのが上手い。なら、この街で起きたことも帳面に残しなさい。戦が終わったあと、誰が声を盗み、誰の心を盗んだか、ひっくり返せるように」
紗里奈が薄片を奏音に差し出した。
「奏音。あなたの声を借りる。あなたが嫌なら、やめる」
嫌だ、と言えば楽だった。自分の声がもう誰かの道具にならずに済む。けれど、薄片の中の「撤退せよ」が、今も街のどこかで兵を惑わせるかもしれない。
奏音は喉に指を当て、短く咳払いをした。自分の癖が、月に見張られている気がして腹立たしい。だが目の前には、図書カードの欠けを作って待つ柚花の指と、帳面を開いた希恵の手がある。誰も、奏音を責めていない。
「……分かった。やる。ただし――本物の命令を守るために、偽物を使う。順一郎、文面は君が整えてくれ」
順一郎は片眉を上げ、懐から短い鉛筆を出した。
「了解。君の癖は、君が一番知ってる。癖を入れる場所は、君が決めろ」
屋根の上で、彼らは小さな灯りを囲んだ。紗里奈が薄片に耳を寄せ、奏音は声の高さを少しだけ変え、わざと息継ぎを増やした。柚花は図書カードの角欠けを何枚も作り、合図の欠け具合が揃うように比べては舌打ちする。
「角って、意外と難しいのよ。まっすぐ欠けない」
「貸出返却も、慣れるまで曲がる」
奏音が言うと、柚花は一瞬だけ目を細め、すぐに「そうそう」と肩で笑った。笑い方は軽いのに、欠けた欠片を風から守る手は真剣だった。
やがて、薄片が淡く光り、奏音の声を新しく抱え込んだ。紗里奈が布で包み、封筒に忍ばせる。封筒の裏には、欠けた図書カードの角を貼りつけた。合図が見えないよう、さらに司令部印の写しを重ねる。偽物の皮を、偽物が好む形に整える。
佑摩が伝書鳥の籠を開けた。鳥たちは羽を震わせ、夜の空気を吸い込む。煤の匂いの中でも、彼らの目は澄んでいる。
希恵が短く言った。
「一斉に。迷わせるためじゃない。真実へ最短で飛ばすために」
柚花が籠の前で指を鳴らすと、鳥たちは合図を待っていたように、一羽ずつ足環を見せた。足環には、敵首都の中央図書館を示す符号が刻まれている。そこが、声と心の盗人の巣に繋がっていると、彼らは踏んでいた。
奏音は、最後の一羽の背に指先を置いた。温かい。生きている重さが、薄片の冷たさを押し返す。
「……行ってこい。帰る場所は、ちゃんと残す」
鳥が小さく鳴いた。柚花が籠を傾ける。紗里奈が空へ向けて手を伸ばす。順一郎は文字の角度を頭の中で最後に直し、希乃香は屋根瓦の影に身を沈めた。佑摩の合図で、羽音が夜を切り裂く。
伝書鳥が一斉に飛び立ち、街灯の輪を越え、煤の煙を越え、月の下で一本の矢のように伸びた。
向かう先は、敵首都の中央図書館。
そこで待つのは、奏音の声を盗んだ誰かか。それとも、もっと別の――心を盗む手口か。
奏音は自分の喉を押さえ、夜の冷たさを確かめた。冷たいのに、もう震えだけではない。小さな熱が、胸の奥に灯っていた。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。




