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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第2話 ハート泥棒の手口は「優しさ」だった

 その日の午前十時、図書室の時計が短く鳴った。奏音は台帳を抱え、廊下を早足で抜ける。希恵に言われた「昼まで」が、鉛の塊みたいに胸の奥で沈んでいた。

  背後では柚花が靴音を弾ませる。手には鳥舎の鍵束。金属がじゃらじゃら鳴って、奏音は思わず振り向いた。

  「音を立てるな。前線じゃないが、ここは学園だ」

  「学園なら、もっと元気に歩いていいでしょ。鳥が待ってる」

  言い返しながらも、柚花は鍵束を握りしめた。金属音が止まる。奏音は視線だけで「よし」と返し、歩幅を落とさずに進んだ。

  「落とすなよ。前の鍵、排水溝で泳がせたの忘れるな」

  「それは、事故! しかも私、ちゃんと釣り上げた!」

  紗里奈が後ろで鼻を鳴らした。笑いか、咳払いか判別がつかない。彼女は封蝋欠けを収めた小箱を胸に抱え、指先で箱の角を撫でている。彼女は指先で箱の角を一度だけ撫で、呼吸を整えた。



  図書室の裏手に回ると、草の匂いが濃くなる。煉瓦塀の陰に、鳥舎が並んでいた。木箱の上に薄い屋根。朝の陽が板の隙間に刺さり、乾いた藁が光る。近づくほど、羽の擦れる音と、嘴が餌皿を叩く音が重なってくる。

  「おはよー。みんな、私の顔見た? 見たよね?」

  柚花が扉を開ける前に声を掛けると、鳥舎の中が一斉にざわめいた。羽ばたきが雨みたいに降り、数羽が柚花の肩に乗ろうとして柵にぶつかる。奏音は思わず眉間を押さえた。

  「……お前、毎朝ここで大騒ぎしてるのか」

  「大騒ぎじゃない。挨拶」

  「挨拶で鳥が転ぶのか」

  「転んでない! ……ちょっと当たっただけ!」



  奏音は台帳を作業台に置き、飛行記録の束を広げた。脚環の番号、出発時刻、帰還時刻、袋の重さ。規定の欄はきっちり埋まっている。だから余計に、未開封の封筒が机に山になった光景が、目の端から離れない。

  柚花は鳥の脚を一羽ずつ確かめ、脚環の緩みを直し、結び紐を取り替えていく。口は動くが、手は止まらない。奏音が記録をなぞっていると、柚花が急に胸を張った。

  「ほら見て。こっちの子、私の指に自分から乗る。ね? 懐いてる」

  柚花の人差し指に、灰色の小鳥がちょこんと乗った。目が丸い。奏音が「脚環を見せろ」と手を伸ばした途端、小鳥が柚花の指を軽く噛んだ。

  「……痛い」

  「痛い? それ、愛情表現」

  「愛情表現で血が出たら、文書で抗議する」

  「出てないでしょ。ほら、赤くもない」

  奏音は指先を見た。確かに赤くない。なのに妙に悔しい。紗里奈がまた鼻を鳴らす。



  「数の帳尻は合ってる?」

  低い声が背後から降ってきた。順一郎が鳥舎の入口に立っていた。制服の袖をまくり、手には薄い紙の束。図書室から持ってきた未開封の手紙だろう。彼は鳥の視線を避けるように、柵から一歩離れた場所で止まった。

  「鳥に襲われたくないなら、動かないことだ」

  柚花が助言する。順一郎は真剣な顔で頷いた。

  「了解。俺の腕は、紙より弱い」

  「弱いって言うな」

  奏音は台帳を閉じ、順一郎の手元の封筒を指差した。

  「読みますか。中身は検閲の対象になるが、今は原因の特定が先です」

  「読む。……ただ、内容そのものより、温度を見る」

  「温度?」

  順一郎は一通を選び、封を切らずに紙の上から指で撫でた。封筒越しに文面が見えるはずもないのに、彼は文字の配置を思い浮かべるみたいに目を細める。

  「この束、文章が妙に整ってる。『お体にお気をつけて』『いつも感謝しています』――そういう言葉が並ぶ。なのに、腹の底が動かない」

  奏音は言葉を探した。丁寧。優しい。どれも、手紙にあっておかしくない。だからこそ不気味だ。

  「優しさがあるなら、問題ないんじゃないですか」

  「優しさの形をした、空白がある。たとえば、『会いたい』が抜けてる。『怖い』が抜けてる。相手を傷つけない文章だけが残ってる」

  順一郎は封筒を掲げ、光に透かす。紙は厚く、ほとんど透けない。それでも、彼は納得したように頷いた。

  「これを書いた兵は、たぶん、相手を心配させたくなかった。だからこそ、削られたら残りが綺麗すぎる」

  奏音は喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。綺麗すぎる。そこにあるはずの熱い部分だけが剥がされて、言葉の殻だけが残る。希恵が言った「誰かが壊れる」が、急に具体的な顔を持った。



  「匂い、変じゃない?」

  希乃香が、鳥舎の脇の物置から顔を出した。腕には布袋。肩で息をしているのに、足音はほとんどしなかった。奏音は初めて会った時、彼女がいつドアの前に立ったのか気づけなかったのを思い出す。

  「餌袋、こっち、昨日と違う」

  希乃香は布袋の口を開け、鳥の餌をひとつまみ取って差し出した。粒が揃いすぎている。乾きすぎている。いつもの餌なら、少し油の匂いがするはずだ。

  「補給係が替えたんじゃないか」

  奏音が言うと、希乃香は首を横に振った。

  「替えるなら、伝票が残る。残らない替え方は、だいたい匂いを消す。――追われたくない人がやる」

  彼女は餌を指先で潰した。粉が舞う。鼻先に、妙に空気が軽くなる感覚がある。

  「……匂い消し。薬草系。鳥の鼻を鈍らせる」

  柚花が顔をしかめた。

  「え、鳥って匂いわかるの?」

  「方向感覚の補助にする個体もいる。餌の匂いも、帰り道の手掛かりになる」

  奏音は台帳の欄に目を走らせた。飛行記録に異常はない――そう思っていた。だが、「帰還時刻が安定している」のは、本当に安定なのか。途中で受け取り、同じ距離で戻しているなら、数字は整う。



  「脚環、見せて」

  紗里奈が唐突に言った。彼女は小鳥の一羽をそっと抱え、脚環の継ぎ目に指を当てる。金属を爪で軽く擦ると、かすかな音が鳴った。奏音は耳を澄ませた。普段の脚環なら、乾いた「きん」という音。だが今は、粒が混じった「しゃり」という音が混ざる。

  「……砂?」

  奏音が言いかけると、紗里奈は首を振った。指先に付いた粉を、光の下へ持ち上げる。淡い緑。ほんの少し、月の光みたいな艶がある。

  柚花が目を見開いた。

  「それ、綺麗……って、これ、どこから?」

  紗里奈は粉を指先で丸め、もう一度擦った。音が変わる。砂より高く、ガラスより柔らかい。

  「石。細かい。磨いたやつ」

  奏音の頭に、図書室の奥の資料が浮かんだ。通信石の核材。伝書鳥の方角感覚を強める粉末。供給の管理が厳しいはずの――。

  「月翡翠粉末……」

  口にした瞬間、柚花が鳥の脚を覗き込み、声を潜めた。

  「ちょっと待って。これ、脚環の内側にも付いてる。ってことは、飛ぶ前から付けられてた?」

  奏音は指先に粉を少し取り、白紙の端で伸ばした。緑が薄く広がり、紙の繊維に引っかかる。

  「飛ぶ前に付けたなら、鳥に目印をつけた。どこへ向かわせる目印だ」

  希乃香が物置の奥を指した。

  「餌袋、封が一回切られてる。新しい紐で結び直してる。……やり方、急いでない。慣れてる」

  順一郎は封筒の束を胸に寄せ、低く息を吐いた。

  「優しさだけ残して、熱い言葉を抜く。鳥の鼻と目を鈍らせて、道を曲げる。……手は荒くない。むしろ丁寧だ」

  奏音は台帳の空欄に、月翡翠粉末、と書きかけて手を止めた。文字にすると、急に現実味が増す。ここは学園の裏。昼前の陽の下。鳥が鳴き、柚花が「噛まれたのは愛情」と言い張る場所だ。そんな場所で、禁制の粉が鳥の脚に付いている。



  奏音は粉の付いた脚環をそっと元に戻し、柚花に言った。

  「鳥を全部出すな。混乱する。番号順に、今から俺が見る」

  「はいはい。……そこまできっちりやるの」

  柚花は口を尖らせる。だが、鳥の羽を乱さないように手を引いた。指先が少し震えているのが見えた。笑い声の裏に、怖さが混じっている。奏音は、それを見ないふりをして台帳を開いた。



  まずは、餌袋の入荷経路。次に、月翡翠粉末の管理簿。最後に、鳥が飛んだ先の補給駅の受け取り印。

  昼までに、手繰れる糸はまだある。



  奏音は、希恵の顔を思い浮かべながら、報告用の紙を一枚抜いた。

  ――ここから、足元の泥じゃなく、手紙の熱を取り戻すための道が始まる。



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