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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第19話 味方司令部印、裏切りの匂い

 鉱山都市ムーンジェイド区の夜は、昼より息苦しかった。粉塵が落ち着くぶん、湿り気だけが残り、石畳の隙間からぬるい湯気みたいに立ちのぼる。路地の奥で蝉が一匹だけ鳴き、すぐに黙った。鳴き止むたび、誰かの足音が聞こえそうで、柚花は袖のない腕を自分で抱いた。



  宿の部屋は狭く、四人が座るだけで畳の縁が押し合った。窓の隙間から粉塵が入るたび、湯呑みの表面に薄い膜が張る。柚花が湯呑みを持ち上げて眉をひそめ、指で縁をこすって見せた。奏音はそれを見て、封のにじみも同じ“薄い膜”かもしれないと、胸の奥がざらついた。



  宿は裏通りの二階だった。看板は外れかけ、窓枠に貼った紙が風でふくらむ。梨寿が先に入り、薬草の匂いで部屋の空気を薄く塗り替える。順一郎は戸を閉めると、掛け金を二重にした。佑摩は部屋の角へ背を預け、視線だけで出入口と窓の距離を測る。希恵は通信石の小片を掌で隠し、灯りを落としても合図だけは送れるようにしていた。



  奏音は、坑道で拾った矢文を机の上へ置いた。紙は乾いていて、朱の印章だけが妙に鮮やかだ。希乃香が指先で印の縁をなぞり、爪の先でにじみを確かめる。紗里奈は耳を寄せ、封の硬さがいつもと同じかを、爪で軽く弾いた音で判断した。

  「印は……本物。紙も、司令部の規格に近い」

  希乃香が小さく言う。頷きながらも、誰も安心しなかった。



  柚花が水差しを持ち上げ、たらいに少しだけ水を落とした。手と腕の粉を流すと、白い筋が薄灰色になって沈む。柚花はそれを見て、口の端だけで笑った。

  「ここまで汚したのに、紙一枚で帰れって? 丁寧すぎて、逆に腹立つ」

  佑摩が視線を動かしただけで、柚花は「はいはい」と肩をすくめる。言葉は軽いのに、指先は震えていた。



  奏音が矢文を開く。短い命令文のはずなのに、文末だけがきっちり揃っている。余計な敬語がついて、冷たい。書き手の息が紙に残っていない。

  順一郎が、紙の端を少しだけ持ち上げた。灯りに透かして、繊維の流れを見たあと、奏音の顔を見る。

  「……奏音、これ、君の癖に似てる」

  「俺の?」

  奏音は眉をひそめた。順一郎は、指先で文末をなぞった。

  「注意書きの札を作るとき。最後の一文字を、きれいに揃えるだろ。『お願いします』の置き方も、間を取る場所も」

  奏音は言い返せなかった。図書室で、読ませるために書くときの自分の手癖。それを、別の誰かが真似ている。



  希恵が、矢文の印章を見たまま言う。

  「内部の人間が、誰かを誘い出す文を作れる。しかも、君の癖を借りて」

  佑摩が低く息を吐いた。吐き方が、怒鳴りたいのを押し込めているようだった。

  柚花は奏音を見た。目が笑っていない。けれど責める言葉は出さず、代わりに、机の上の矢を指で弾いた。

  「……誰かが、奏音に似せて書いた。じゃあ、奏音を悪者にしたいの?」



  そのとき、希乃香が畳の端へしゃがみ込んだ。指先で床板の隙間を探る。鼻をひと吸いして、すぐに顔をしかめた。

  「この板、昨日より新しい。釘も、打ち直してる」

  宿の床が新しくなる理由は、客のためじゃない。希乃香は板の角を爪で引っかけ、きしませない角度で持ち上げた。



  隙間の下に、薄い月翡翠片が挟まっていた。紙ではない。石でもない。薄すぎて、光の当たり方で輪郭が消える。

  紗里奈が、息を止めて受け取った。指でつまむと、冷たさが掌へ移る。彼女は爪で端を軽く擦った。小さな音が、机の脚に当たって返る。

  「盗聴……薄片」

  声は小さいのに、部屋の空気が一段重くなった。



  紗里奈は薄片を机に置き、指先で一度だけ叩いた。カツ、と乾いた音。次に、爪で長く擦る。ギィ、と鈍い響き。すると薄片の縁が淡く光り、押し殺した声が、部屋の闇に浮かび上がった。



  『……撤退せよ。命令だ。余計な記録は捨てろ』



  奏音の声だった。咳払いの癖も、語尾の落とし方も、図書室で叱るときの低さも、そのまま。

  柚花の手が止まり、水がたらいに落ちる音だけが続いた。順一郎は口を開きかけて、閉じる。佑摩は拳を握り直し、爪が掌に食い込むのを確かめるように指を動かした。梨寿は薄片を見つめ、薬草の香りが急に苦くなった気がして喉を押さえた。希恵は目を細め、希乃香は床板を戻す動きを途中で止めたまま、固まっている。



  奏音は立ち上がらなかった。立てば、自分の声のせいで皆が揺れるのが分かったからだ。机の上の薄片は、もう一度同じ声を吐き出しそうに沈黙している。





  薄片の縁を撫でると、指の腹に微かな粉が残った。月翡翠の粉塵とは違う。油と、朱肉と、誰かの香油が混ざった匂い。奏音は鼻の奥に残ったそれを、記憶へ釘打ちした。いつか必ず、同じ匂いの持ち主を見つけるために。



  佑摩が窓の外へ目だけを向け、路地を通る足音の数を数えた。二人、三人、そして一人。足音が消えた瞬間、佑摩の喉が一度だけ動く。怒鳴りたいのを飲み込んだ合図だ。



  紗里奈は薄片を布で包み、爪先で布を折り畳む。音が出ない折り方を選ぶ。希乃香は床板を戻し、釘の頭を指で撫でて、元の傷と同じ位置へ合わせた。順一郎は湯呑みの縁を拭い、何事もなかった顔を作る。梨寿は薬草の匂いを濃くして、部屋の空気ごと塗り潰した。



  奏音は、声を盗まれた事実よりも、盗んだ者が“撤退せよ”と命じたことに、背筋が冷えた。止めたいのか、誘い出したいのか。どちらでも、こちらの足は読まれている。



  柚花が、ようやく息を吐いた。

  「……いつ、どこで、誰が、奏音の声を盗んだの?」



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。



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