第17話 伝書鳥を救うか、証拠を取るか
坑道の入口を越えた途端、外の風が背中で切れた。八月の夕方、煤けた桃色の空はもう見えない。代わりに、湿った土の匂いが鼻の奥へ貼りつき、鉱灯の炎が、息を吸うたびに小さく揺れる。木札に焼き印で「第七」とある。そこまで辿り着いたのに、足元は一歩も進めなかった。
第七坑道の壁には、伝書鳥の羽毛が煤と混ざって貼りついていた。籠の中で小さな胸が速く上下し、脚環の金具が擦れるたび、鈴ではなく鎖の音になる。柚花が籠へ手を伸ばしかけて止めた。助ける動きと、見つかったら終わる現実が、指先で引っ張り合う。奏音は鉛筆を噛みそうになり、代わりに舌で上あごを押した。
柵の内側に縛られた伝書鳥は、羽を震わせているのに、鳴き声を上げなかった。鳴いたら誰かが来る――そう分かっているみたいに、喉だけが動く。月翡翠の粉が羽の隙間に入り込み、光を受けて白い筋になっていた。脚環の金属が冷たく光り、奏音の胸の奥を、硬いものが押した。
奏音は、足を止めたまま、指で「待て」を作った。声を出すより早く、紙片を一枚、掌に落とす。台帳の切れ端だ。そこへ鉛筆で、粉の量、縄の結び方、脚環の位置を、短い線で写す。証拠は、手の中に残すしかない。ここで騒げば、すべてが煙になる。
「触るな。ここは、見せるために置いてある」
囁きは、鉱灯の炎のすぐ横でほどけた。
柚花は返事をしなかった。笑顔を張りつけていた頬が、ひと呼吸だけ崩れる。次の瞬間、彼女は柵をまたいだ。袖のない腕が縄へ伸びる。
「……ごめん、あとで怒って」
言い残して、鳥の目の前へしゃがみ込む。鳥の黒い目が、柚花の指先を追う。まるで「早く」と言っているようで、奏音は喉の奥が痛くなった。
佑摩が腕を掴んだ。
「いま動くな!」
声になりかけた音を、佑摩は喉の奥で噛み潰した。代わりに、肩が前へ出る。柚花の体を引き戻すのではなく、自分の背で隠す位置へ押しやる。盾になると決めた動きだ。柚花は一瞬だけ睨むように見上げ、それでも手を引っ込めない。結び目を、ほどけない角度のまま探っている。
「証拠が要る。助けるのは――」
奏音が言いかけたところで、順一郎が掌を一度だけ上げた。止める合図ではない。「いまは声を減らせ」という合図だ。ここでは、正しさの順番を言い争う暇がない。
紗里奈が、靴先で小石を転がした。コツ、と短い音。坑道の壁が受け取り、遠くで二度返す。反響の戻り方が、妙に早い。
「右、上。足場。あと……後ろ、二十歩。鉄が鳴ってる」
彼女の声は小さいのに、景色がその通りに組み上がる。見張りがいる。しかも、こちらを覗ける高みがある。
希乃香が入口側へ半歩ずれ、荷の影を作る。梨寿は薬包を握ったまま、咳をするふりの練習を、胸の中だけで繰り返した。希恵は視線だけで「時間」を示し、指を二本立てた。二十息。長居はできない。
順一郎が、笑っていない笑いで、柚花の隣へ膝をついた。
「主任、仕事は僕が引き受けます」
柚花が「主任って誰」と言いかけて口をつぐむ。順一郎の手が、鳥の頭の上へゆっくり下りたからだ。指の腹で、羽の向きを整える。撫で方が、図書室で古い背表紙を整えるときみたいに慎重だった。
鳥は最初、身を固くした。だが順一郎が、喉を震わせる音に合わせて、撫でる速さを変えると、羽の下の震えが少しずつ落ち着いた。柚花の指が、結び目の芯を見つける。ほどけるまで、あと少し。
順一郎が鳥の脚をそっと持ち上げる。金属の脚環は冷たく、月翡翠の粉が白い筋になって付着していた。脚環の内側に、薄い札が差し込まれている。順一郎は息を止め、爪先で札の端をつまみ、音が出ない角度で引き抜いた。
札は小さく、紙ではなく薄い板だ。表面に刻まれた点と線が、鉱灯の光で浮かぶ。
紗里奈が顔を寄せた。耳で聞く人が、目で読むときは呼吸が変わる。奏音はそれを知っていて、邪魔をしなかった。
「……これ、二つの紋の並び。上と下。『両国合同』って、読める」
紗里奈の声が、坑道の湿りに吸われる。
奏音の鉛筆が止まった。敵の印だけなら、まだ分かる。だが「二つ」。自分たちの側にも、同じ手口の手がある――台帳の線が、急に重く見えた。
佑摩は唇を噛み、順一郎の手の札を見たまま言う。
「……敵だけじゃないってことか」
柚花の指が、鳥の縄を一息でほどいた。鳥は羽を一度だけ大きく開き、音も立てずに柚花の肩へ乗る。温かさが、首筋へ伝わる。柚花は笑おうとして失敗し、代わりに小さく息を吐いた。
「……帰ろ。いまは、帰ろ」
希恵は掌の中で指を折った。二十息。梨寿の薬包が擦れる音すら大きく聞こえる。
「いまは――戻る。証拠はある」
声を出さずに、唇だけが動く。希恵の視線が鳥へ滑り、順一郎の掌へ戻る。『守る』『運ぶ』の順番を、目だけで決めている。
柚花は鳥の背を撫でながら、口の端だけで笑った。
「いい? 静かにできたら、返却期限、三日だけ延長」
鳥が首を傾げる。柚花は自分でも何を言っているのか分からなくなり、袖のない腕を自分で抱え直した。笑うと喉の奥が痛い。
奏音は台帳の切れ端を胸の内ポケットへ滑らせ、鉛筆の芯を折らない位置へ押し込んだ。ここで落としたら、拾う動きが命取りになる。汗は冷え、背中の皮膚だけが妙に熱い。
そのとき、上から小さな砂が落ちた。人の重みが、木の板をきしませる音。
紗里奈が、指を一本立てた。――見張りが、覗いた。
止まり木の上で鳥が羽を膨らませると、空気が一段だけ柔らかくなった。奏音は手袋の指先で藁を整え、藁の向きで鳥の落ち着きが変わるのを確かめる。図書室の本と同じだ。揃うと、鳴き方が変わる。
柚花が薄い冊子の束を抱え直し、紙の端が藁に触れない角度へ傾けた。紙に付いた匂いは、読む人の集中を削る。順一郎が「鳥の便は早いけど、匂いは遅い」と真面目に言い、奏音は真面目に頷いてしまってから、遅れて自分の頷きを恥ずかしがった。
脚環の番号は数字なのに、見ていると名前みたいに思えてくる。奏音は一つだけ声に出さずに口の形で読み、柚花はそれを見て頷いた。二人だけの点呼だ。
鳥舎に入ると、温い息と羽毛の埃が一気に押し寄せた。藁の匂いに混じる糞の匂いは、嫌なはずなのに「生きてる」の印だった。奏音は袖で鼻をこすらず、視線だけで餌桶の位置を確認する。鳥の世話は、目の前の小さな作業の積み重ねだ。
脚環の金属は冷たく、指先に当たると小さく鳴った。柚花が「それ、図書カードの角みたい」と言うと、鳥が首を傾げて、まるで返事をするように喉を鳴らした。奏音は笑いそうになり、笑う前に餌を一粒だけ置いた。甘やかしではない。次の一歩のための交渉だ。
鳥の胸は小さく上下し、温さが手袋越しにも伝わる。奏音はその温さを、忘れないように掌で包んだ。守ると言う前に、まず冷えないようにする。冷えたら飛べない。
止まり木の上で鳥が羽を膨らませると、空気が一段だけ柔らかくなった。奏音は手袋の指先で藁を整え、藁の向きで鳥の落ち着きが変わるのを確かめる。図書室の本と同じだ。揃うと、鳴き方が変わる。
柚花が薄い冊子の束を抱え直し、紙の端が藁に触れない角度へ傾けた。紙に付いた匂いは、読む人の集中を削る。順一郎が「鳥の便は早いけど、匂いは遅い」と真面目に言い、奏音は真面目に頷いてしまってから、遅れて自分の頷きを恥ずかしがった。




