表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/40

第16話 潜入は笑顔で、退路は冷静に

 検問所の裏手、帳簿と薬箱が積まれた物置で、鍵が回る音が一段だけ響いた。外では鉱夫の列がざわめき、通行札を叩く机の音が一定の間隔で返ってくる。奏音は布袋の口を押さえ、紙が鳴らない角度を探した。紗里奈は指を一本立て、順一郎は壁際へ半歩寄って呼吸を浅くする。奏音は手順書の角を指で撫で、わざと汚れを付けた。ここに残すのは盗みの痕ではなく、ただの“通りすがりの痕”だ。



  物置の隙間から覗くと、検問机の上で通行札が扇みたいに広がり、係官の指が一枚ごとに唾で滑る。柚花は笑い声を落とし、肩だけで笑うふりを続けた。梨寿は咳止めの包みを撫で、紙の角が立たないように整える。奏音は自分の呼吸が列の音より大きくならないよう、鼻から短く吸って口を閉じた。



  扉が少し開き、灯りが差し込んだ。

  「……先生、薬、置いていきますね」

  梨寿の声が、廊下の向こうから飛び込んできた。咳止めの袋を揺らす音。次の瞬間、柚花が笑い声を添える。

  「ほんとに? 助かる〜。うちの人、喉弱いんだよね」

  扉の隙間が広がる。見張りの兵の顔が覗きかけた瞬間、柚花が一歩前へ出て、ノースリーブの腕で荷袋を抱え直した。布が擦れる音と、汗の匂いが近づく。兵の視線が、その腕と荷へ引っ張られ、木箱の奥まで届かなかった。



  希乃香が、影の中で小さく頷いた。合図は「出る」ではなく「いまなら通る」。

  奏音は手順書を袋の底へ滑り込ませ、紙が鳴らない角度で畳む。佑摩は拳を開き、指先を震えから切り離すように、空の掌をズボンで拭った。

  順一郎が扉の外へ先に出て、軽く頭を下げる。

  「薬は受け取りました。巡回の方、足元お気をつけて」

  言葉は丁寧で、目は、嘘をつく瞬間だけ兵のまぶたを拾っていた。兵は曖昧に返事をして、扉を閉めた。鍵が戻る音が遠ざかる。



  裏口へ回ると、希恵が狭い路地を指差した。泥の上に、乾いた靴跡が三つ。巡回が通ったばかりの線だ。

  「別れたら、鐘楼の影。右手の袖口に白糸が見えたら味方」

  希恵はそれだけ言い、荷袋の紐を結び直した。言葉が少ないほど、逃げ道は頭に残る。奏音は頷き、胸の奥で繰り返した。鐘楼、白糸、右。覚えるのは、詩ではなく帰り道だ。



  十分も経たずに、彼らは検問所の手前にいた。八月の夕方、月翡翠鉱山都市の空は煤けた桃色で、坑道へ向かう鉱夫の行列が、橋の上から蛇のように続いている。鉄柵の向こうには、銃を下げた兵と、通行札を確認する係官。ここを越えない限り、手順書に書かれた「司令部」の尻尾には触れない。



  紗里奈は列の端で、耳を澄ませた。蝉の音が薄い。代わりに、銃の金具が触れる小さな鳴り、靴底が鉄板を叩く反響、札をめくる紙の擦れ――それらが、規則正しい拍に揃っている。彼女は袖の内側で、小さな木片を爪で弾いた。乾いた高い音が、蝉の帯に寄せるように漂い、周囲の雑音へ溶けていく。

  「足音、合わせて。音がずれたら目が来る」

  それだけで、佑摩の歩幅が少し落ち着いた。



  希乃香は、行列の端にしゃがみ込み、靴紐を結ぶふりで人数と間隔を数えた。立ち上がると同時に、咳き込む鉱夫へ水を差し出し、何気なく列の中へ滑り込む。

  「いま、三人目が札を出すのが遅い。そこへ入る。合図は、鼻を拭く」

  言い切る前に、彼女は自分の鼻を袖で拭った。合図がもう来ている。



  梨寿は布袋から薬包を取り出し、検問の机に置いた。紙に書かれた成分名が、係官の目を一瞬だけ真面目にさせる。

  「坑内で咳が広がると、掘り手が倒れます。これ、配らせてください。医務室の印もあります」

  彼女は印章の角度を変え、光に当てて見せた。係官は袋を一つ取り、喉を鳴らしてから頷く。通行札の束が、机の上で一枚だけ、こちらへ寄せられた。



  柚花は、通行札を受け取るより先に荷袋を肩へ担ぎ直し、わざと足元をもつれさせた。

  「うわ、重っ……。兵さん、これ、持ってみる?」

  冗談みたいに言いながら、荷の重みを少しだけ兵の腕へ預ける。兵は反射で支え、周囲の目がそちらへ向く。柚花は口角だけで笑い、目は笑わないまま、兵の手から荷を取り返した。

  「ありがと。ほら、腕、太いんだね」

  視線が集まった隙に、奏音は列の影へ入り、佑摩は背を丸め、順一郎は最後尾のように振る舞った。希恵は一歩遅れて、検問所の柱に背を預けるふりをしながら、退路になる路地を確認していた。



  検問を越えると、空気が変わった。地面の匂いが濃くなり、風が穴へ吸い込まれる。坑道入口の柵の内側で、薄い月翡翠の粉が舞っている。灯りに反射して、雪のように見えた。粉はただの装飾ではない。伝書鳥の方角感覚を尖らせる――そんな噂が、台帳の余白にも書かれていた。



  柵の内側、木枠のそばに、伝書鳥が一羽いた。羽に粉をまぶされ、足を縛られ、動けないように固定されている。目だけが忙しく動き、誰かの笑い声を待つように、喉を小さく震わせていた。

  奏音は足を止めた。手順書より先に、あの脚環の金属が見えたからだ。もし脚環に暗号札が残っているなら、ここは「心を抜く装置」より手前で、もう証拠の入口に立っている。



  佑摩が一歩踏み出しかけ、順一郎が肩を押さえた。力で止めるのではなく、重心を戻すだけ。希乃香が鼻を拭き、梨寿が薬包を握り直す。柚花は、笑顔のまま、袖のない腕で鳥と自分の距離を測った。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ