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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第15話 操作手順の最後に書かれた、たった一行

 「操作手順」なんて、図書室なら棚の裏にでも隠しておくべきだ――柚花は、そう言いたげに本の表紙を指でつまみ、指紋を残さないように端だけ持った。八月の午後の熱が、煤の匂いといっしょに狭い部屋へ沈み、鉱灯の炎が小さく伸び縮みする。

  外では蝉が、命がけの合唱をしている。三分おきの巡回の足音と、蝉の声が、壁の中で混ざってほどける。いま、この棚の隙間で書物をめくる自分たちは、世界でいちばん不似合いに見えるだろう――奏音はそう思いながらも、手を止めなかった。



  「読むなら、いま。次の角で止まったら、三十息で引く」

  紗里奈が、机の端を指で二回叩いた。彼女の合図はいつも、言葉より先に正しい。耳が拾うものが違うからだ。

  順一郎は椅子を引かず、立ったまま、背中で扉を隠す位置に立つ。希乃香は棚の影へ滑り込み、外から見えない角度で小窓の布を少しだけ持ち上げ、路地の影を確かめている。梨寿は棚の端に薬草茶の包みを置き、咳払いが出そうなとき用に喉を湿らせる準備だけしていた。



  奏音はページを開いた。紙は高級だ。鉱山街の湿りの中でも、繊維がへたらない。最初に書かれていたのは、装置の部品一覧と、月翡翠粉末の扱い。軍の教本みたいに整然としているのに、ところどころに手書きの追記がある。誰かが、実際に心を抜いた回数だけ、文字が増えたのだろう。



  「……これ、図書係の手じゃない」

  奏音が呟くと、柚花が鼻で笑った。

  「そりゃそうでしょ。図書係がこんなの書くなら、まず“返却期限”って赤字で書くよ」

  場違いな冗談に、順一郎の口元が一瞬だけ緩む。だが、すぐに戻った。外の足音が、二歩、止まる。紗里奈の視線が、ページから離れない。



  手順は淡々としていた。

  “封蝋の欠けを整え、文字面の優しさを保ったまま、感情のみを抽出すること。”

  “抽出後は、受信者に疑念を抱かせないため、香りを残すこと。”

  優しさを保つ。香りを残す。まるで贈り物の説明みたいな言葉が、紙の上で平気な顔をしている。



  奏音の喉が乾いた。前線で手紙を燃やしていた兵の顔が浮かぶ。字は見えるのに、心が入らない。読むたびに空っぽになる。誰だって怖くなる。

  奏音は指先で、文章の端をなぞった。月翡翠粉末を混ぜたインクの配合。鳥が追える匂い。そこに“抜く”工程が挟まることで、匂いは残り、温度だけが消える――そんな書き方だった。



  柚花が小さく舌打ちした。怒りというより、吐き気を噛み潰す音だ。

  「……前に吸われかけたときさ。軽かった。笑えた。あれ、たぶん……これのせいだ」

  奏音は顔を上げ、柚花を見る。柚花は視線を逸らさない。笑っていたときの自分を思い出すのが、悔しい、と言っているみたいに。



  佑摩が奥から現れた。荷袋を背負ったまま、汗をぬぐう暇もない顔だ。希恵の指示で外の動きを見ていたはずなのに、我慢できずに入ってきたのだろう。彼は奏音の肩越しに紙面を覗き込み、歯を食いしばった。

  「……“許可印”って書いてある」

  佑摩の指が、紙面の欄外を叩く。そこには小さな枠があり、押印欄のようになっていた。図書室の貸出印みたいに、丸い枠。

  柚花が眉をひそめた。

  「司令部のスタンプ押してから、心を盗めって? ほんと、図書室ごっこが好きだね」



  奏音はページをめくり、最後の章へ飛ばした。余計な手順は後でいい。いま必要なのは、“誰が許したか”だ。

  手順書の末尾。最後の最後に、たった一行だけ、取り返しのつかない重さで書かれている。



  ――装置は司令部の許可でのみ使用。



  佑摩の拳が、空中で止まった。机を叩けば音が跳ね返る。棚が揺れれば、本が雪崩れる。そう分かっているのに、拳の震えが収まらない。

  「結局、上の連中は“許可しただけ”って顔をするんだ。現場が壊れても、“命令したのは装置だ”って言い逃れる」

  言い終える前に、佑摩の肩が前へ出た。棚の角へぶつかりそうになる。



  奏音は立ち上がり、佑摩の腕を掴んだ。力で抑えるのではなく、腕の向きを変える。拳が空を殴るだけの角度へ。

  「いま暴れたら、ここで終わる。怒りは――持って帰る」

  佑摩は、奏音の手を振りほどけなかった。振りほどけば、拳が机に落ちる。落ちれば、音が路地へ漏れる。その理屈が、先に立った。



  順一郎が低く息を吐く。

  「“司令部”がどこの司令部か、まだ断定できない。敵の上層でも、うちの上層でも、どちらでも致命的だ。――希恵に見せる材料になる」

  奏音はうなずき、欄外の押印枠を目に焼き付けた。紙を持ち出せても、真似されたら意味が薄い。だからこそ“この一行”が重い。言い逃れのために書かれた一行が、逆に鎖になる。



  梨寿がそっと、薄い布を差し出した。汗で濡れた手で紙を触れないためのものだ。

  「写せる? 破れたら困るよ」

  奏音は布越しに鉛筆を取り、手順書の余白に目印だけ付けた。全文を書き写す時間はない。だが、最後の一行と、押印枠の形は、頭に刻める。



  柚花はページの余白に走る手書きの線を見つけた。乾ききらないインクで、丸がつけられている箇所がある。

  「ねえ、これ……“夏期は稼働が不安定”って」

  奏音が目をやると、確かにそう書かれていた。理由の欄に、粗い線で波の図。山と谷の間隔が一定で、蝉の鳴き方に似ている。



  紗里奈が息を吸った。蝉の声が一段高くなる瞬間に、彼女の耳だけが別の音を拾っている。

  「装置の音、前に止めたときと同じ揺れ。蝉の声がいちばんうるさいところに、装置の“吸う”脈が重なってる」

  彼女は指で机を軽く叩いた。一定のリズム。蝉の合唱の奥で、同じ間隔の脈があるみたいに。

  「だから夏は不安定。蝉が鳴くと、装置が勝手に揺れる。逆に言えば、そこに合わせて“ずらす”音を入れたら……止まる」

  紗里奈は、腰の袋から薄い月翡翠片を一枚取り出した。前線の灰の中から拾った、あの薄片だ。爪で弾くと、乾いた鈴みたいな音が鳴る。

  「これ、音を覚える。蝉の声を覚えさせて、装置の揺れと“違う”形で返したら、吸う口が噛み合わない」



  佑摩が唇を引き結び、怒りの代わりに頷いた。

  「夏のうるささが、救いになる……。現場の汗を、上が利用するなら、現場の音で崩す」

  順一郎が目を細めた。紙面の専門用語は読めなくても、紗里奈の言い方が“使える話”だと分かる。

  「蝉の声で、心泥棒を止める。敵は、夏を侮ったな」

  柚花が肩をすくめた。

  「侮ったんじゃなくて、うるさくて諦めただけでしょ。あの検問の人、蝉に負けてたもん」



  笑いが、ほんの一息だけ場を軽くした。奏音も、口の端がわずかに動くのを感じた。図書室で、静かに本をめくるときの息の使い方が、ここでも必要だ。怒鳴らない。泣き叫ばない。けれど、絶対に見逃さない。



  次の巡回が来る前に、退く。そう決めて、奏音が手順書を閉じた瞬間だった。



  蝉の声が、途切れたのだ。



  合唱が消えたのではない。一本の糸が切れたみたいに、街全体の音が、すっと薄くなる。代わりに聞こえたのは、路地の向こうで布が擦れる音と、靴底が砂利を踏む乾いた一歩。



  希乃香が窓布を戻し、口の形だけで告げた。

  「……近い」



  奏音は手順書を胸に抱えた。佑摩の怒りを、いっしょに押し込むように。順一郎が扉の前へ一歩寄る。柚花は、ヴァルから預かった図書カードを握りしめたまま、息を吸う音を殺した。梨寿は薬草茶の包みを布で包み、鈴の音が鳴らないように掌で押さえる。紗里奈は月翡翠片を指の間に挟み、爪を立てないで持てる角度を探した。



  静けさの中で、鍵が回る音がした。



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