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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第14話 敵の案内人は、図書カードを持っていた

 月翡翠の粉は、陽が傾いても空気に残った。通りの石畳が白く曇り、靴底がきゅっ、きゅっと鳴る。工房から漂う熱い金属の匂いに、柚花は腕をさすって袖のない上着の端を引っ張った。汗が乾くたび、肌に細かな砂が貼りつく。



  「……ここ、図書室?」

  柚花が指を差した先に、看板らしい木札がぶら下がっていた。煤で黒ずんだ板に、かろうじて読める文字で「私設閲覧室」と彫ってある。窓は小さく、硝子の内側に布が垂れ、外から中が見えない。



  奏音は周囲を見回した。鉱山都市の路地は狭く、上からは洗濯物が渡されている。蝉の声が、あちこちの壁に跳ね返って、ひとつの大きなうねりになる。音の波に紛れるように、誰かの足音が二歩、止まる。



  「見られてる」

  紗里奈が、口の中だけで言った。目は布の向こうを見ていない。代わりに、壁に反射して戻る響きの差で、角の先に立つ影を数えている。



  順一郎は肩をすくめるふりをして、奏音の袖を指先で軽く叩いた。

  「入ろう。外で固まると、看板より目立つ」



  戸を叩く前に、内側から鍵が外れた。ぎい、と木が軋む音。隙間から、細い顔がのぞく。頬に煤がついているのに、目だけが妙に澄んでいた。



  「……図書委員の方だね」

  その声は、確かにこちらの言葉だった。けれど、抑揚が違う。教本で習う標準の発音に、鉱山街の硬さが混じっている。



  奏音が名乗ろうとした瞬間、相手は手のひらを上に向けた。そこにあるものを見せるために。



  小さな札。硬い紙を薄い革で挟んだような、使い込まれた一枚。

  中央に押された印は、図書室で見慣れた丸い紋章に似ていた。



  「図書カード……?」

  柚花が息を呑んだ。次の瞬間、目が鋭くなった。

  「偽物でしょ。敵の印を、こっちの形に寄せただけ」



  男は札を引っ込めず、逆に少し差し出した。指先がわずかに震えている。

  「偽物なら、もっと新しく作る。これは……傷がある。借りた本の角で、何度も擦った傷だ」



  奏音の胸の奥で、図書室の匂いがよみがえった。紙の乾いた甘さ。返却棚の木の湿り。鉛筆の削りかす。ここは煤と金属の街のはずなのに、札の擦れは、同じ場所に通った手の癖を語っている。



  「……あなた、誰です」

  奏音が問いかけると、男は戸を大きく開けた。

  「中で。名は、ヴァル。ここの図書係だ」



  柚花が足を止めた。

  「敵の図書係に案内されるなんて、冗談じゃない。奏音、やめよう」



  順一郎が柚花の横に立つ。声を落とし、笑うように言った。

  「冗談なら、外で銃口は向かないよ」



  路地の奥、洗濯物の影が一瞬だけ揺れた。紗里奈が、蝉の声に紛れない程度の小ささで舌打ちする。奏音は、柚花の手首を掴まなかった。ただ、自分の手袋を外し、素手を見せた。



  「本を扱う手だ。武器はない」

  奏音が言うと、ヴァルは短くうなずいた。



  中は、思ったよりも狭かった。棚が天井まで積まれ、通路はひとりが横向きで通れる程度。灯りは鉱灯の小さな炎で、紙の背表紙が橙色にゆらゆらと浮かぶ。湿った紙の匂いに、金属と煤が混じっている。



  「ここは、誰のための図書室なんです」

  奏音が尋ねると、ヴァルは棚を指で撫でた。埃を払うのではなく、背表紙の傷を確かめるように。



  「鉱夫のため。前線へ行かされる前の子のため。……そして、手紙のため」



  柚花が眉を寄せた。

  「手紙? 図書室で、手紙?」



  ヴァルは、奥の机へ案内した。机の上に、麻紐で束ねられた封筒が並ぶ。封の切られたもの、切られていないもの。紙の色が違う。匂いも違う。汗と土のにおいがするもの、薬品のにおいがするもの。



  「戦場の手紙を集めている」

  ヴァルが淡々と言った。

  「燃やされる前に。捨てられる前に。……『記録』として残す」



  柚花の肩が跳ねた。

  「それ、盗んでるのと同じじゃない。届くはずのものを、ここに積んで」



  ヴァルは返さない。代わりに、机の端に置かれた薄い帳面を開いた。そこには、筆記具で細かく書かれた番号と日付、差出人と宛先。紙の端に、短い要約まで添えられている。



  奏音は喉が乾いた。図書委員の仕事と、同じ形だった。違うのは、扱うのが物語や教本ではなく、誰かの「生きている言葉」だということ。



  「あなたは、届けるために集めているのか」

  奏音が問うと、ヴァルの目がわずかに揺れた。次の瞬間、視線が机の下へ落ちる。まるで、そこに置かれた何かを思い出すように。



  順一郎が、その揺れを見逃さなかった。椅子に腰を下ろすふりをして、足元の影を踏まない位置へずらす。

  「机の下に、何がある。言いたくないなら、言わなくていい。でも、君の目は、そこへ逃げた」



  ヴァルの喉が鳴った。返事の代わりに、鉱灯の炎が大きく揺れた。外で誰かが戸を叩いたのではない。風でもない。室内の空気が、急に重くなった。



  「……脅されている」

  ヴァルが、ほとんど音にならない声で言った。

  「手紙は『装置』の餌だ。心を壊すために使われる。私は、集めないと……」



  柚花が机を叩いた。ばん、という音が棚に跳ね返り、蝉の声が一瞬だけ遠のいたように感じた。

  「手紙を道具にするな! 人の気持ちを、勝手に磨りつぶすな!」



  言い終えた柚花の指が震えている。怒りだけではない。恐怖と、悔しさが混じっている。奏音は、柚花の背中に手を置きたくなったが、今は触れない方がいいと感じた。触れたら、柚花は泣くか、噛みつくか、そのどちらかになる。



  紗里奈が棚の奥を見ながら、低く言った。

  「ここ、巡回が来る。足音が、一定。三分おきに角で止まる」



  ヴァルが頷き、机の下に手を伸ばした。引き出しではない。床板の一枚が、爪の先で持ち上がる。そこから出てきたのは、薄い箱だった。箱の蓋には、革の留め具。留め具の金具が、味方の司令部で見た型に似ている。



  「これを、持って行け」

  ヴァルが箱を開ける。中にあったのは一冊の本。背表紙に、手書きの文字が踊っている。



  『ハート泥棒 操作手順』



  柚花が息を飲み、すぐに顔をしかめた。

  「そんなもの、見せびらかして罠にする気?」



  ヴァルは首を振った。けれど、その動きは、誰かに許可を乞うように小さかった。

  「罠なら、君たちをここへ入れない。……私が渡せるのは、これが限界だ。次は……私の首が飛ぶ」



  順一郎が本を取る前に、ヴァルの手首を軽く掴んだ。力ではなく、確認のため。

  「渡したら、君はどうなる」



  ヴァルは笑おうとしたが、口角が上がらなかった。

  「図書係は、替えが利く。……でも、君たちは替えが利かない。届けてくれ。燃やされる前に。壊される前に」



  奏音は、本を受け取った。紙の重みが、手紙の束の重みと重なった。ここで書かれた手順が、誰かの心を壊しているなら、その手順を知ることは、止めるための第一歩になる。



  外で蝉が鳴き続ける。路地の影がまた揺れ、足音が近づく。紗里奈が指を二本立てた。二十歩。次の角で止まる。



  奏音は本を胸に抱え、柚花を見る。柚花は唇を噛み、視線をヴァルから逸らさなかった。敵味方の線の上に、図書カードの擦れた傷が浮かぶ。



  「帰ろう」

  順一郎が言った。言葉は短いのに、背中が前へ押す力になる。



  ヴァルは最後に、図書カードを奏音の手のひらに押し込んだ。

  「次に会えたら……貸出の続きを、書きたい」



  奏音はうなずいた。返事は声にしない。声にすれば、誰かに聞かれる。けれど、カードの端の擦れは、確かに温かかった。



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