第13話 同じ袖章、別の国
鉱山都市ムーンジェイド区の表通りは、昼の交代を終えた鉱夫が流れ込む時間だった。焼き菓子の甘さと、汗を拭く布の湿り気が混ざり、陽に温められた石畳からは粉塵の匂いが立ち上がる。通りを歩く人の口元は笑っているのに、笑い声は薄い。咳を一つ挟むたび、笑顔の縁が欠けていく。
奏音は、袖章を包んだ布の端を指で押さえた。布の中の小さな布片が、やけに重い。昨日まで、ただの図書委員長だった自分の掌に、今は「国の外側」の匂いが乗っている。
「裏へ行く」
希乃香が先に言った。言い切ってから、足首のひもを結び直す。歩きやすさを確かめる仕草が、逃げ道を頭の中に引く速度と同じだった。
柚花は袖をまくり、腕に付いた粉を払った。今日も上着の前を開け、涼しげに着崩している。通りの男たちが視線を向けるたび、柚花はわざと胸を張る。
「見られてるってことは、見返せるってことだよ。ね、奏音」
奏音は笑いで返せず、代わりに台帳を抱え直した。紙が胸に当たると、散りかけた心が一枚に揃う気がする。
裏路地へ一歩入ると、匂いが変わった。油、湿った木、古い汗。壁のレンガは黒ずみ、窓のない家が肩を寄せている。表通りの笑顔を支えるものが、ここで咳になって吐き出されていた。
梨寿が小さな薬草袋を取り出し、歩きながら配る。
「喉、痛い人は口に含んで。苦いけど、咳が楽になるよ」
受け取った鉱夫が、礼を言う代わりに目をそらした。礼を言う息も惜しいのだろう。梨寿はそれ以上追わず、肩を並べるだけで歩幅を合わせた。
順一郎が周囲を見回し、声の高さを落とす。
「袖章の形、確かに学園名鑑の挿絵にあったな。中立学園の紋。だが、ここで落ちる理由が薄い」
奏音は布をほどき、袖章を掌に載せた。縁取りの糸は丁寧で、洗われた形跡がある。泥や汗で擦れた軍服の袖に付くものではない。
「綺麗すぎる……洗濯場を通ってる」
柚花が、鼻先で袖章を嗅いでから顔をしかめた。
「石けんの匂い。しかも、うちの軍の支給品じゃないやつ。こっちは甘い」
佑摩が唇を結び、喉の奥で息を鳴らした。怒鳴る代わりに、拳を握り直す。
「支給品に混ぜ物する余裕があるってことだ。現場の靴底は穴だらけなのに」
希恵が歩きながら帳面をめくった。鉛筆が走る音が、路地の静けさに馴染む。
「補給の経路が、二日前から一つ増えてる。両国の線じゃない。軍票でもない。――誰かが、戦の横で商いしてる」
「商い?」
奏音が聞き返すと、希恵は視線を上げずに言った。
「紙。インク。薬。布。戦の火が消えないほど売れる。火が強いほど、もっと売れる」
奏音は喉の奥が冷えるのを感じた。戦の理由が「憎しみ」だけなら、まだ理解できる。けれど、誰かの都合で火が足されるなら、兵の涙は燃料にされる。
奏音は袖章を光にかざした。紋の中心に、開いた本の意匠がある。そこに重なる線は、国境の地図よりも、天秤の支えに似て見えた。
「戦は、国境だけで分けられない」
奏音は、自分の声が震えないように舌の位置を整えてから言った。
「学ぶ場所には、両方の言葉がある。両方の歌がある。……両方の家族を失った子だっている」
柚花が、少しだけ笑いを引っ込める。
「中立学園って、戦わないってこと?」
「戦わない、とは限らない」
順一郎が短く答えた。裏路地の曲がり角で立ち止まり、わざと靴底を鳴らす。物陰の気配をあぶり出すような音だった。
「戦うのが剣だけだと思うな。言葉、噂、帳面。……伝書鳥もな」
紗里奈が壁にそっと指を当てた。指先で、叩く。乾いた音と、鈍い音が混ざる。
「ここ、奥が空いてる。休憩小屋の壁と同じ。隠し扉の匂い」
希乃香が目だけで頷き、立ち止まらずに歩かせる。今触れば、見ている人間に「気づいた」と教えることになる。
奏音は、胸の台帳を抱える腕に力を入れた。記録は武器になる。けれど、武器は振り回す前に、持ち方が必要だ。
希恵が袖章を見ずに言った。
「第三の手がある。両国が互いに嫌ってるのは本当。でも、その嫌いを煽って、火を絶やさない手が別にある」
佑摩が低く唸った。
「俺たちは、誰の手のひらで踊ってる」
順一郎が、佑摩の肩に指を置いた。重さはない。けれど、置かれた指があるだけで、佑摩の呼吸が少し整う。
奏音は言った。
「記録に残す。――踊らされないために」
希恵は小さく頷いた。頷きが早い。もう準備が出来ている人の頷きだった。
希乃香が、急に歩幅を変えた。まるで路地の石ころを避けたように見えるが、足先は角度まで計算されている。
「……後ろ」
声は小さい。けれど、全員の背中が同時に硬くなる。
紗里奈が耳を澄ませる。坑道の音を聞き分ける癖が、路地でも生きていた。遠くの荷車の軋みとは別に、一定の間隔で、同じ靴音が重なる。
「三人。距離、十歩くらい。音が軽い。鉱夫じゃない。靴底、まだ新しい」
柚花が、わざと大きく欠伸をしてみせた。
「ふあぁ。裏路地、眠くなるね。奏音、右の曲がり角、行こう」
奏音は驚きながらも、柚花の手の動きに従った。柚花は無鉄砲に見えて、伝書鳥の巣を守るときだけ、鋭く速い。翼が危ないと知ったら、羽根より先に人を動かす。
希乃香が先頭に立ち、曲がり角を二つ続けて曲がった。表通りの音が遠のき、代わりに水滴の落ちる音が近づく。狭い路地で、壁に貼られた紙が湿って剥がれかけている。そこに描かれた簡易地図の線が、袖章の縁取りと同じ色に見えた。
奏音は、思わず紙を剥がしかけ、指を止めた。今は触るな、と自分に言い聞かせる。好奇心は武器になるが、刃が自分へ向く。
「尾行って、いつから?」
梨寿が振り返らずに訊いた。薬草袋を確かめる手が止まらない。落ち着いているふりではなく、落ち着かせるための動きだった。
希乃香が答える。
「休憩小屋を出た直後。人の流れに紛れた。三人のうち一人は、歩き方が学園の行進に似てる」
順一郎が、口の端だけで笑った。
「似てる、で済むならありがたいがな」
次の角を曲がった瞬間、路地が少し広がった。壊れた樽が積まれ、錆びた看板が倒れている。逃げるならここで左右に分かれる、と奏音が考えた、そのときだった。
前方の影が、すっと動いた。隠れていたのではない。最初から、ここで待っていた動きだ。
その影は、手を上げて見せた。武器を持っていない、と示すように。けれど、指先の形は、伝書鳥の脚環を外すときの、あの慎重さに似ていた。
「図書委員さんだよね」
声は若い。笑いも乗っている。けれど、その笑いは、表通りの薄い笑いと同じ匂いがした。口元だけが上がっていて、目が笑っていない。
奏音は台帳を抱えたまま、一歩も引けなかった。背中の汗が冷える。
柚花が半歩前に出る。肩をすくめ、いつもの調子で言う。
「そうだけど。あなたは、どこの図書室の人?」
返事の前に、相手の袖口が揺れた。そこには、奏音が布で包んだものと同じ――中立学園の袖章が、縫い付けられていた。
糸は白く、粉塵を嫌うみたいに清潔だった。奏音は自分の袖を見て、喉の奥で乾いた息をした。図書室の埃ならまだ笑える。けれど、この街の粉は、笑顔まで削っていく。
相手は袖章を指で弾き、にやりとした。
「同じ印だと、門番は通す。……でも本当に通したいのは、別のものだよ」
言葉のあとで、遠くの蝉が一度だけ鳴き、すぐ黙った。奏音は、その黙り方のほうが気になった。




