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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第12話 図書委員、鉱山の図書室を作る

 ムーンジェイド区に着いて二日目の朝、坑道から吹き出す風は粉塵を含み、舌の上にざらつきを残した。日の出前から鳴る金属音が、町の目覚ましになっている。表通りの飾り板は、朝の光に翡翠色を散らし、笑顔を映す鏡だけが忙しく揺れていた。



  奏音たちは、鉱山管理局の掲示で見た「図書館祭の実行委員募集」の札を、胸の内側で握りしめるように歩いた。希乃香の通行証は、汗で紙が波打たないよう、角を指で押さえられている。順一郎は、何も言わずに周囲の足音を数え、希恵は、持ち込んだ帳面に「鉱夫休憩小屋――午前七時」とだけ書いた。佑摩は、昨日の路地で見た咳を思い出したのか、口の奥で短く息を吐いた。



  休憩小屋は、坑口から少し離れた斜面にあった。板を継ぎ足した壁は乾いて割れ、扉の蝶番が鳴るたび、木屑が落ちる。中へ入ると、湿った汗と油の匂いが混ざり、薄暗さに目が慣れるまでの数秒が長い。



  「ここ、図書室にしよう」

  柚花が、扉を閉めた瞬間に言った。



  奏音は反射で台帳を抱き直した。順一郎の目がわずかに細くなる。梨寿は、肩から下げた布袋を開け、薬草の束が潰れていないか確かめている。紗里奈は、壁の釘穴に指を当て、音を探すように静かに呼吸を整えた。



  「読書の……小屋、だな」

  順一郎が言い換えると、柚花は胸を張るでもなく、腰のベルトに手をかけて頷いた。

  「だって、みんな座ってるだけだもん。ここで眠って、起きて、また削って。なら、座ってる時間を変える。紙を置く。声を置く」

  言い切ってから、柚花は近くの木箱を足で押した。重い箱が床を擦り、鈍い音が小屋の奥へ転がる。

  「まず棚。誰か、板、ある?」

  命令の形をしているのに、顔は本気で困っていた。奏音は、その困り方に、昨日までの柚花の泣き怒りがちゃんと残っているのを見つけ、胸の奥が少しだけ温かくなった。



  「棚は、作れる」

  希恵が言い、外へ視線を投げた。休憩小屋の裏には、不要になった支柱が積まれている。彼女は帳面を閉じ、鉛筆を耳に挟むと、佑摩に顎で示す。

  「力仕事、頼む。壊さないで。折れたら、直す時間がいる」

  佑摩は返事をしない代わりに、小屋の外へ出ていった。扉が開くと粉塵が流れ込み、扉が閉まると、また汗の匂いが濃くなる。



  奏音は持ってきた本の束を机代わりの箱へ置いた。学園図書室から借りた本ではない。戦場へ持ち出しても良いと許可が出た、複製の薄い冊子だ。童話集、短い詩、鉱石の扱い方を絵で示した小冊子。読める人だけが独占しないよう、文字の少ないものも混ぜた。



  梨寿が水筒を出し、湯気の出ない温度の茶を作り始めた。薬草の匂いが、油の匂いに負けずに広がる。

  「喉、痛い人、これ。飲むの、嫌なら匂いだけでも」

  小屋の隅で横になっていた鉱夫が、身体を起こした。目の下が黒く、爪の間に煤が残っている。彼は梨寿の手元を見つめ、しばらく迷ってから、掌を差し出した。

  「……礼は、言わねぇぞ」

  「言わなくていいよ。飲んで、少し楽なら、それで」

  梨寿は笑って、湯飲みの縁を指で拭いた。鉱夫が口を付けると、喉が一度鳴り、咳が二度、短く出た。昨日、子どもが出した咳と同じリズムだった。



  その咳を聞いた順一郎は、小屋の真ん中へ腰を下ろし、膝に両手を置いた。背筋を伸ばさない。胸を張らない。鉱夫と同じ高さに、ただ座る。

  「手紙が来ないって、さっきの子が言っていた」

  鉱夫は顔を背け、床の木目を見た。

  「来ねぇんじゃねぇ。……飛べねぇんだ。鳥が。飛ばしても、戻ってこねぇ」

  順一郎は頷きも否定もしない。指先だけで、机代わりの箱を軽く叩いた。音が小屋に溶ける。

  「戻らない。――どこで消える」

  「七坑道の脇だ。管理の奴らは『事故だ』って言う。事故なら毎日起きるか? 俺の仲間は、手紙を結ぶ紐を、指から切られたみてぇに震わせてた」

  鉱夫の声が、最後だけ掠れた。恥ずかしさを隠すように、彼は唾を飲む。

  「手紙がないと、家が遠い。顔が思い出せねぇ。……笑えねぇのに、表通りじゃ笑えって」



  順一郎は、鉱夫の言葉をそのまま返した。

  「笑えないのに、笑えって言われる。心が削れる瞬間は、そこだな」

  鉱夫が、ふっと鼻で笑った。笑いは短く、すぐに消えたが、消える前に確かに音があった。

  「図書委員さんよ。そんな言い方、誰から習った」

  「図書室で。泣いてる人と、怒ってる人と、黙ってる人から」

  順一郎の答えは、説明になっていないのに、鉱夫の肩が少し落ちた。重さが一ミリだけ外れる。



  奏音は、帳面を開いた希恵の手元を見た。言葉が、鉛筆で形になっていく。後で「証拠」にするための文字だ。けれど、今ここで必要なのは、鉛筆の硬さより、息の温度だと奏音は思った。

  「本、読む?」

  奏音が本を一冊差し出すと、鉱夫は一瞬だけ眉を寄せた。拒むでも受け取るでもなく、指先で表紙を撫でる。

  「俺、字、遅い」

  「遅くていい。ここは、削る場所じゃない」

  奏音が言うと、柚花が横から口を挟んだ。

  「遅いなら、私が読む。早口で読んで、わからなかったらもう一回読む。三回目で寝たら、寝顔に栞を挟む」

  「寝顔に栞ってなんだよ」

  鉱夫が笑いそうになり、堪えた。柚花は堪えず、木箱をもう一つ引きずってきて、椅子代わりに据えた。

  「ここ、座って。頭ぶつけるから、背中は壁につけないで。壁、釘が出てる」

  気遣いが乱暴な形で出てくるのが、柚花らしかった。奏音は、その「らしさ」を見失わずにいられることが、こんな場所では武器になると知る。



  外で、佑摩の息が荒くなった。支柱を抱えて戻ってくる。木の端が肩に食い込み、腕の筋が震えている。

  「これで棚。……足りる?」

  柚花が即座に頷き、希恵が縄の長さを測る。梨寿は、釘の代わりになる硬い骨片を布袋から取り出した。学園の倉庫にあった、古い道具の残りだ。

  「打つなら、耳、塞いで」

  紗里奈が小さく言った。



  奏音は、紗里奈の声の細さに気づき、近づいた。

  「何か聞こえる?」

  紗里奈は、壁に掌を当てたまま、目だけを動かした。

  「……ここ、音が違う。木が、薄い。奥が、空っぽ」

  彼女が指を滑らせると、板の継ぎ目の一箇所だけ、爪がわずかに引っかかった。奏音が息を止める。順一郎が音を立てずに近づき、希乃香は扉の方へ半歩下がり、外の足音に耳を澄ませた。



  柚花は棚作りを途中で止め、壁の前にしゃがんだ。

  「隠し扉?」

  言い方は軽いのに、手は慎重だった。彼女は釘穴の位置を避け、板を押す。押しても動かない。次に、指の腹で板の縁を探り、引く。板が、わずかに鳴った。

  「……鳴いた」

  柚花が笑ってしまいそうになるのを、奏音は睨んで止めた。柚花は舌を出し、真面目な顔に戻す。順一郎が小さく言った。

  「音が鳴るのは、誰かが触っている証拠だ」



  紗里奈が耳を寄せ、板の向こうの空洞に意識を沈めた。

  「風、通ってる。外じゃない。下、から」

  下――奏音の背中に、七坑道の地図が挟まっていた瞬間の冷たさが蘇る。ここは休憩小屋だ。休むための場所に、下へ続く風がある。



  希乃香が、さっと小屋の入口へ視線を走らせた。

  「誰か来る。……足音が軽い。作業靴じゃない」

  その言葉に、佑摩が支柱を床へ置く音が大きくなりかけ、順一郎の指先が空中で止めた。佑摩は唇を噛み、音を殺した。



  扉の外で、人が立ち止まった。咳ではない。息を整える音でもない。布が擦れる音――制服の布だ。

  「……図書委員さん? ここ、何してるの」

  声は若い。笑っているのに、喉が乾いている。



  奏音が返事をする前に、梨寿が湯飲みを両手で包み、扉の方へ歩いた。

  「お茶、飲む? 喉、粉塵で痛くなるよ」

  扉が開く。光が差し込み、影が床に落ちた。影は一人分。けれど、その袖口に付くはずの泥がない。



  来訪者は、顔を見せずに去った。扉が閉まる直前、袖が風に揺れ、何かが床へ落ちた。小さな布片――袖章だった。



  奏音は拾い上げ、指で縁をなぞった。学園の紋ではない。けれど、見覚えがある形だった。書庫の地図棚に並ぶ「中立学園名鑑」の挿絵で見た、あの袖章。

  順一郎が、袖章を覗き込み、短く息を吐く。

  「敵兵じゃない。――同じ制服で、別の国のやつだ」



  柚花が棚の支柱に手を置き、わざと大きく音を立てた。

  「読書小屋、続ける。今の人が戻ってくるなら、ここで迎える。逃げるなら、逃げ道も作る」

  奏音は袖章を布で包み、台帳の間に挟んだ。重みが、また一つ増える。

  「……続けよう。ここは、鉱石じゃなく、言葉を積む場所にする」



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