第11話 月翡翠鉱山都市、笑顔の裏で誰が泣く
七月の終わり、昼前の空は白く張りつめ、陽の輪郭だけがやけに硬かった。奏音たちは前線司令部の裏口から出る。希恵が机の引き出しから出してきた通行証は、紙が新しく、角がまだ硬い。だが印章だけは古びた朱で、触ると指先に粉が付いた。
「この粉、月翡翠?」
紗里奈が鼻先に近づけ、微かに笑った。笑ったというより、空気の味を確かめている。
「匂いの道しるべだ。鳥が追えるようにしてある」
希恵の声が、奏音の耳の奥でまだ響いていた。命令は短く、条件は多い。『目立つな』『死ぬな』『証拠を持ち帰れ』。
柚花は通行証を翳し、真顔で言った。
「これ、偽物じゃないよね」
「本物だ。だから危ない」
奏音が返すと、柚花は納得したように頷き、次の瞬間、肩から提げた鳥籠を揺らした。
「じゃあ本物の顔して歩こう。ね、ムーンジェイド」
籠の中で、淡い灰色の伝書鳥が首を傾げた。羽の端が翡翠色の粉でわずかに光る。柚花の指が金網を撫で、その指先が震えているのを、奏音は見ないふりをした。
駅へ向かう道は、夏の陽で白く霞んでいた。軍靴の音に混じり、遠い森から蝉が鳴く。音があるだけで、人はまだ生きている気がする。奏音はそんな幼い感想を、台帳の端に書きそうになり、慌てて消した。記録係の仕事は、感想ではなく事実だ。
貨車と客車が繋がった列車に乗り込むと、車内は麻袋と汗の匂いに満ちていた。梨寿が席を拭き、順一郎が窓の外の見張り塔を数え、佑摩が無言で荷物の紐を締め直す。希乃香は最後に乗り込み、誰にも見えない角度で通行証の紙を撫でた。
「印章、少し薄い。ここ、上から押されると割れる」
「直せる?」
奏音が聞くと、希乃香は返事の代わりに指を鳴らした。袖口から出した小さな蝋を温め、朱の欠けを埋めていく。作業が終わると、彼女は何事もなかったように席へ戻った。
向かいの席で順一郎が帽子を深く被り、周囲の目を数えながら、わざとだらけた声を出す。
「図書室の視察係、ねえ。書類が重いだけで英雄扱いはされない。いい肩書きだ」
「肩書きは軽くていい。中身で殴る」
佑摩が呟いた。殴る相手は人ではなく、不公平だ。
柚花は肩を回し、ノースリーブの作業着の腕を窓の光にさらした。
「暑いし動ける。怒りは軽くしないで持ってくけど、布は軽くする」
奏音は反射的に視線を逸らし、鉛筆を落としかけた。
「……目立つ」
「目立ったら、目立つ理由を作る。荷物運び係の腕、ってね」
柚花は笑ったが、その笑いはすぐに消えた。地下書庫で軽くなりかけた心は戻った。戻ったから、笑いが重い。
昼過ぎ、ムーンジェイド区の外縁に列車が滑り込んだ。駅舎の屋根には翡翠色の薄片が並び、日差しを受けてきらきらと波を作る。甘い焼き菓子の匂い、香草の煙、呼び込みの声。ここが戦争の腹の中だと頭では分かっているのに、目が騙される。
改札の先に検問があり、銃を持った兵が列を作っていた。汗が鎧の内側に溜まり、兵の鼻の下が白い粉で汚れている。
「通行証」
兵が手を伸ばす。奏音の喉が乾いた。台帳を抱える腕に力が入り、紙の角が掌に食い込む。
希乃香が一歩前に出て、奏音の手から通行証を抜き取った。渡す角度がほんの少しだけ、相手の目線をずらす角度だ。
「視察の書類係です。管理局へ」
兵の視線が柚花の腕に滑り、止まる。
「……荷は?」
「紙です」
柚花が即答し、鳥籠を少し持ち上げた。
「それと、鳥。紙の匂いが好きで」
兵の眉が上がりかけたところで、梨寿が水筒を差し出した。
「喉、荒れてますよ。薬草茶です。飲むと咳が楽になります」
兵は一瞬ためらい、結局、水筒を受け取って一口飲んだ。咳が一度、短く出る。兵は咳をごまかすように腕で口元を拭き、通行証を返した。
「……行け」
柚花が小さくガッツポーズをした。奏音は叱る代わりに、胸の内で一回だけ礼を言った。
表通りは華やかだった。月翡翠を薄く削った飾り板が店先で揺れ、光が翡翠色に砕けて人の頬を染める。露店の鏡には笑顔が映り、笑顔の数だけ値札が吊られている。
だが、順一郎が路地へ一歩入った途端、空気が変わった。粉塵が喉に貼りつき、咳が背中を叩く。建物の壁は煤で黒く、窓は半分だけ開けられている。中から聞こえるのは、笑い声ではなく、鉱石を削る金属音と、息を吐く音だった。
紗里奈が足を止め、掌の中の薄片を取り出した。月翡翠を削った小さな板――音を記録できると希恵が言っていたものだ。彼女は薄片を壁に当て、耳を近づける。遠い坑道の振動が、指先に伝わる。
「表の音、軽い。裏の音、重い」
紗里奈の言葉は短いが、奏音は意味を理解した。軽い音は飾りで、重い音は働きだ。
梨寿がしゃがみ込んでいる子どもを見つけた。唇が乾き、目だけが大きい。
「お水、少し飲める?」
梨寿は水筒に薬草をひとつまみ落とし、掌で温めるように揺らした。
「熱いのは嫌?」
子どもが首を振ると、梨寿は笑って、唇に当てる角度まで整えてやる。子どもの喉が一度鳴り、咳が二度、短く出た。咳が落ち着くと、子どもは梨寿の袖を掴み、囁く。
「お父さん、手紙、来ない。鳥、飛ばない」
柚花の指が鳥籠の金網を強く掴んだ。爪が白くなる。
佑摩の視線が掲示板に吸い寄せられた。日ごとの掘削量、未達の罰、達成の褒賞。褒賞の欄だけが薄く、罰の欄だけが太い字で埋まっている。
「……掘った者の名前が、どこにもない」
佑摩の拳が震えた。誰かを殴りたいというより、紙を破りたい震えだ。
「数字だけで働かせるのか。これじゃ……」
言葉が続かず、喉が詰まる。怒りが先に立ち上がり、足が勝手に前へ出る。
奏音は慌てて佑摩の袖を掴んだ。軍服の布が熱を帯び、手のひらに汗が移る。
「ここで声を上げたら、目を付けられる」
「目を付けられて困るのは、怠けてる側だろ」
佑摩の声は低く、刃物のように硬かった。
そのとき、柚花が佑摩と掲示板の間に割り込んだ。腕を広げ、わざと大げさに肩をすくめる。
「すみませーん。私たち、紙の人なんで。紙の用事が済むまで、殴り合いは後でいいですか?」
路地の奥で、鉱夫が一人、鼻で笑った。笑った瞬間に咳き込み、背を丸める。その咳に、柚花の眉が吊り上がる。
「……後で、じゃない。今は持ってく。怒りも、咳も、全部」
柚花の声が震え、しかし逃げない。子どもが彼女の腕を見上げ、少しだけ安心した顔をする。
奏音は台帳を開き、鉛筆を走らせた。数字の羅列ではなく、咳の回数、粉塵の色、子どもの言葉、罰の文字の太さ。記録係の手が、初めて武器になった気がした。
「証拠にする。ここで吐いた息を、紙に残す」
順一郎が頷き、周囲の視線の流れを読みながら、軽い調子で付け足す。
「誰が泣いたかまで残せば、笑顔の看板は剥がせる。……泣いた本人が、口を閉じたままでもね」
表通りへ戻ると、翡翠色の光が目に痛かった。露店の店主が歌うように呼び込み、通りすがりの客が笑いながら値切っている。梨寿は子どもに渡した茶の残りを布で包み、戻ってくる鉱夫たちに小声で飲み方を教えている。希乃香は人の流れの癖を観察し、紗里奈は薄片を掌で温めながら、音の隙間を探している。
柚花は鳥籠を胸に抱え、鳥の羽に付いた粉を指でそっと払った。
「鳥も、咳きそう」
「咳いたら記録する」
奏音が言うと、柚花は一瞬だけ笑い、すぐに唇を結んだ。笑いの裏に、悔しさが残っている。奏音はその悔しさが戻ってきたことを、嬉しいとも怖いとも言えず、ただ台帳の背を撫でた。
鉱山管理局の建物は、表通りの奥でひときわ白かった。玄関の石は磨かれ、扉の取っ手だけがやけに冷たい。門番の視線が通行証に落ち、奏音の心臓が一拍遅れる。
掲示板には、格式ばった字で紙が貼られていた。
『図書館祭 実行委員募集』
奏音は文字を追い、背中に汗が流れるのを感じた。図書室の匂いが、ここにある。こんな場所で、誰が「心」を抜いているのか。
順一郎が口角を上げ、視線だけで皆を集めた。
「入口があるなら、潜り込める。――図書委員長、応募する?」
佑摩が唇を結ぶ。梨寿が子どもの咳を思い出したように目を伏せ、紗里奈が薄片を握り直す。希乃香は通行証の角を指で押さえ、柚花は鳥籠の留め金を確認した。
奏音は台帳を閉じ、胸に抱えた。重みが逃げない。
「応募する。泣いている側の席から、笑っている側の机を見たい」
柚花が頷く。
「じゃあ私は、腕で荷物を運ぶ係。目立って、目を逸らさせる」
奏音はため息を飲み込み、代わりに小さく言った。
「……頼む。ただし、帰り道も忘れるな」
柚花は笑い、今度は消えなかった。




