第10話 奪われた心を取り返す言葉
地下書庫の鉄柵の影が揺れる昼下がり、紗里奈の唇に当てられた管が、わずかに白く光った。月翡翠の唸りに、別の音を重ねるなら、今しかない。彼女は深く息を吸い、肺の中の冷たい空気を、細く真っ直ぐに吐き出した。
音は小さく、だが地下の石壁を伝って伸びた。笛のようで、鳥の鳴き真似にも似ている。唸りの隙間へ、針を差し込むような高い一音が入り、月翡翠の光が一拍だけ乱れた。
柚花の体が、ふっと軽くなったように見えた。引かれていた腕が止まり、指先が柱から離れる。佑摩が背中から抱えるように支え、梨寿が柚花の指を握って離さない。奏音は一歩だけ前へ出て、円環の外縁で踏み止まった。これ以上踏み込めば、自分の胸の熱まで薄くなる。
柚花が笑った。
笑い声は、いつもの冗談の時の笑い方と違う。喉の奥が空っぽで、音だけが転がっている。彼女は頬を押さえ、楽しそうに肩を揺らした。
「ねえ、すごいよ。頭の中が、からっぽ。悩まないって、楽」
「柚花、黙って深呼吸しろ」
佑摩が低い声で言う。だが柚花は、ふわりとその言葉を受け流した。
「深呼吸? そんなの、別にいらない。だってさ、怒る理由も、泣く理由も、思い出すの面倒だもん。面倒なものは、捨てたら軽い」
奏音の指先が震えた。面倒だから捨てる、と柚花はいつも言う。だがその後に必ず、捨てられないものを抱えて勝手に怒って勝手に泣いて、勝手に笑い直す。その「勝手」が、今は消えている。
奏音は、台帳を抱え直した。紙の重みだけは、まだ手の中にある。彼は喉を鳴らし、言葉を探した。命令口調では届かない。説教では、余計に遠のく。柚花の中に残る糸を引くなら、彼女自身が繰り返してきた癖を肯定するしかない。
「……楽なら、まず一つ。いつもみたいに言ってくれ」
奏音は笑おうとしたが、唇が引きつった。涙が勝手に出そうになり、奥歯で噛み止める。
「『私は悪くない』って。柚花は、そう言ってから動く。あれを聞かないと、俺は本が閉じられない」
柚花は首を傾げ、髪が頬を撫でた。目の焦点が合っているのに、どこにも刺さらない。彼女は、奏音の顔を見ているようで、奏音の背後の光を見ている。
「『私は悪くない』……それ、言う必要ある?」
「ある。すごくある」
奏音は声を強めた。強めた瞬間、胸の熱が抜けそうになるのを感じ、慌てて続きを繋ぐ。
「柚花は、貸出札を返し忘れても『私は悪くない』って言って、次の日にちゃんと返しに来る。返しに来るから、許せる。来ないなら、怒れない」
梨寿が、思わず息を漏らした。笑いかけて、すぐに口を押さえる。佑摩の眉が上がる。「今それか」と言いたげだが、何も言わない。ここは地下書庫で、柚花を取り戻す場だ。
柚花の唇が少しだけ動いた。だが声が続かない。軽い笑いがこぼれ、彼女は自分の手の甲を見つめた。
順一郎が一歩進み、柚花の前にしゃがみ込んだ。彼は戦靴の紐をきっちり結び直すみたいに、言葉を整える癖がある。今も、息を整え、柚花の目線の高さへ自分の顔を合わせた。
「柚花、君は図書委員室の机の角を、毎朝必ず指で撫でる」
柚花が、ぱちりと瞬きをした。
「机の角が欠けてると、『ここは危ない』って言って、勝手に布を巻く。そうして、布がずれてると怒る」
順一郎は指を立て、もう一本立てた。
「それから、返送袋の紐を結ぶ時、必ず二回目に結び直す。最初の結び目が気に入らないって顔をして」
柚花の眉がわずかに寄った。無意識の癖を突かれた時の、あの顔だ。
順一郎は、三本目の指を立てた。
「借りた本を読む時、面白い場面が来ると、ページをめくる前に一度だけ息を止める。誰にも見られてないと思ってるけど、僕は見てる」
奏音は胸の奥が痛んだ。順一郎は、柚花のことを「見て」きた。笑い話の形で守るために。
「……そんなの、どうでもいい」
柚花が、薄く笑った。だが言い切れず、語尾がほどけた。
順一郎は、立てた指をゆっくり握り込んだ。
「どうでもよくない。君のそういう細かい癖は、君が君である証拠だ。軽くなるために捨てるものじゃない。面倒くさいのも、怒るのも、泣くのも、全部まとめて――それが柚花だ」
言い切った瞬間、順一郎の声が少し震えた。奏音はその震えが、地下の冷たさのせいだけではないと分かった。
柚花の目の奥が揺れた。笑いだけが残っていた場所に、別の何かが戻ろうとしている。だが月翡翠の唸りが、まだ粘っている。紗里奈の一音は効いているのに、装置の芯は止まっていない。
紗里奈は管を離さず、唇の形を変えた。短い音、長い音、わざと少しだけ音程を外す。唸りに合わせない。合わせたら同化してしまう。ずらして、ずらして、歯車を噛ませない。
希乃香が棚の影で、腕時計の秒針を見た。彼女は指で、三つ数え、二つ数え、合図を出す。紗里奈は頷き、最後に一度だけ、息を強く吹いた。
唸りが、途切れた。
地下の空気がずしりと重く戻り、月翡翠の光が一気に薄くなった。柱の中の青白い脈が、心臓の鼓動をやめたみたいに静まる。煤の線は床に落ち、紙片はただの灰色に戻った。
柚花の膝が折れた。佑摩が支え、梨寿が背中を撫でる。柚花は息を吸い込み、吸い込みすぎて咳き込んだ。咳の合間に、涙が溢れる。涙は重くて、熱くて、頬を伝うのがはっきり分かる。
「……むかつく」
柚花が絞り出すように言った。声が戻った。怒りが戻った。
「勝手に軽くするとか、何それ。私の面倒くさいの、私のだから!」
奏音は、胸の奥が一気に熱くなるのを感じた。熱くなると同時に、安心で足が震える。彼は台帳を床に置き、膝をついて柚花の前に手を差し出した。
「……おかえり」
言った瞬間、奏音の目から涙が落ちた。柚花は濡れた目で睨み、そして、少しだけ笑った。いつもの笑い方だ。喉が空っぽじゃない。
佑摩が鼻で息を吐き、口の端だけを上げた。
「怒れるなら、大丈夫だ」
梨寿が薬草の小袋を柚花の掌に押し込み、優しく言った。
「落ち着いたら、お茶にして飲もう。喉、痛いでしょ」
紗里奈は管をそっと鞄に戻し、手の甲で口元を拭いた。彼女の指先はまだ震えている。だが目は落ち着いていた。希乃香が近寄り、短い紙片に書いた。“止まった”。紗里奈は小さく頷く。
順一郎が立ち上がり、奏音の落とした台帳を拾い上げた。背表紙の間に、薄い紙が挟まっている。彼はページを開き、挟まった紙を引き抜いた。
それは図面だった。地下書庫の構造図とは違う、粗い線で描かれた坑道の地図。角に、掠れた文字がある。
「……月翡翠鉱山・第七坑道」
順一郎が読み上げると、佑摩の肩が跳ねた。梨寿が息を呑み、柚花は涙で濡れたまま眉を吊り上げた。
奏音は図面の線を見つめた。線は細く、しかしはっきりと「ここへ来い」と言っている。届かない手紙を止め、心を軽くして奪う仕組み。その根が、地下書庫ではなく、鉱山へ続いている。
奏音は台帳を閉じ、胸に抱えた。重みは、今度は逃げない。
「地上へ戻る。希恵に見せる。今夜のうちに」
彼がそう言うと、柚花が涙を拭いもせずに頷いた。
「うん。私、怒りながら行く。怒りは軽くしないで持ってく」
その言い方が、もう柚花だった。




