第1話 図書室に届いた「届かない手紙」
軍属学園の図書室は、朝の掃除が終わるといったん静かになる。窓の外では蝉が鳴き始め、机の天板に射す光が、うっすらと揺れていた。開館前のこの十分だけが、戦争の匂いから離れられる――そう思って、奏音は毎朝、床の木目を雑巾でまっすぐに撫でる。
ところが今朝は、扉の隙間から土と油の匂いが押し込んできた。廊下に、補給係の兵が立っている。肩に掛けた布袋が二つ、どちらも膨らみすぎていて、紐が食い込んでいた。
「図書委員長。返送袋です。……増えました」
兵は言い切る前に視線を落とした。声の調子だけが丁寧で、目の下の影が濃い。奏音は、形式通りに受領印を押し、兵の手から袋を受け取った。
「前線で、何かありましたか」
「……手紙が、届かない。届いても……読めないって」
兵はそれだけ言うと、踵を返した。廊下の先で誰かに呼ばれ、走る足音が遠ざかる。奏音は袋を胸に抱えたまま、図書室の中へ戻った。
机の中央に袋を置き、鍵を回して口を開く。袋の口には前線の補給駅の印。厚い紙の匂いに、砂と煤が混じっている。
図書委員の仕事は、貸出札と本の背だけでは終わらない。兵が図書室に預けた手紙の束を、伝書鳥に結んで送り、返ってきた袋を記録し、次の便へ回す。誰がどこへ向けて書いたのか、いつ出したのか。奏音は台帳を開き、鉛筆の芯を整えてから、封の数を数えた。
「……返送袋、未開封が多すぎる」
独り言のはずだった声に、背後から椅子を引く音が重なった。
「えー? 鳥がサボったんじゃない?」
柚花が机に肘をつき、袋を指でつつく。結び目が固いのに、まるでお菓子の包み紙みたいに扱う。肩で結んだ髪が揺れ、彼女の袖口から朝日が抜ける。
「サボる鳥がいるなら、まず鳥舎の記録に出る。飛行回数、餌の消費、脚環の汚れ……」
「はいはい、台帳くん。じゃあ、見てみよ。ほら、封、きれいだよ? 誰も読んでないってことじゃん。――ねえ、奏音。『読めない』って、字が消えるの?」
「知らない。だから、確かめる」
柚花が袋の口をほどき、束を引き出した。封筒はどれも、角が欠けず、宛名の墨も滲んでいない。戦場を通ったとは思えない整い方で、逆に不気味だった。
柚花は一通を耳に当て、冗談みたいに振った。
「もしかして中身、空っぽ?」
「空っぽなら、もっと軽い」
奏音は封筒の厚みを指で確かめた。紙の重さはある。なのに、どこか“詰まっていない”感触が残る。
「ここに『前線第六壕』って書いてあるの、昨日出したやつだよ。帰ってくるの早すぎない?」
柚花が宛名を読み上げる。奏音は台帳をめくり、同じ筆跡の記入を探した。
「昨日の朝に結んで、夕方の便で到着、夜の便で返送……理屈上は可能だ。でも、封が一つも開いていない。そこが合わない」
「じゃあ、受け取った人が……開けなかった?」
柚花の声が、ほんの少しだけ落ちた。さっきの兵の影が、彼女の頭にも刺さったのが分かる。
そのとき、机の端で本を積み上げていた紗里奈が、小さく咳払いした。彼女は手紙の束を一通だけ引き寄せ、封蝋に爪を当てた。
こすれる音が、薄い布の上で鳴る。奏音にはただの擦過音に聞こえたが、紗里奈は耳を寄せて、首を傾げた。
「……同じ型じゃない」
「え、封蝋の型? そんなの見たら分かるでしょ」
柚花が覗き込む。紗里奈は見せる代わりに、もう一度、封蝋を布で擦った。
「ほら。欠けてる方は、音が短い。こっちは……長い。硬さが違う」
「耳って、そんなことまで分かるの?」
柚花が半歩下がって、紗里奈の耳元を覗こうとして叱られた。
「覗くなら、目で。耳は貸せない」
奏音は、回収済みの封蝋欠けの標本箱を取り出した。前線で割れた封蝋は、通信の雑さの証拠でもある。そこに収まる欠片と、今の封の縁を見比べると、確かに輪郭が似ているのに、角の癖が違った。
「……別の手で、封をやり直してる可能性がある」
奏音が言い終えるより早く、柚花が立ち上がった。
「じゃあ、犯人いるってこと? 図書室の手紙をいじるやつ! 許せない! 鳥に罪なすりつけるのも許せない!」
「落ち着け。声がでかい。ここは図書室だ」
「じゃあ小声で言う。許せない」
扉が開く音で、三人の言葉が止まった。
軍情報部の連絡将校、希恵が入ってくる。制服の襟元の徽章が、朝の光を受けて冷たく光った。彼女は棚の間を一直線に歩き、机の上の袋と手紙束を一瞥しただけで、椅子に腰掛けた。
「返送袋が増えたと報告があった。数は?」
奏音は台帳を押し出し、鉛筆の先で欄を示した。
「今朝分で、未開封が四十六通。前線第六壕、第五塹壕、補給駅……範囲が広い」
「飛行記録は?」
「異常なし、のはずです。柚花が鳥舎を回してます」
「はーい。鳥はいつも元気。私より元気」
柚花が胸を張る。希恵はその言葉を受け流して、封蝋の縁に視線を落とした。
「封は、触ったか」
「触りました。耳で」
紗里奈が短く答える。希恵は頷き、指先で封筒の角を押してみた。紙が鳴らない。中身が入っているのに、空気の抵抗が薄い。
「……中身は、ある。だが、何かが抜けている」
奏音は、その言い方に喉が乾いた。抜けている。手紙から抜けるものなんて、紙切れ以外にあるだろうか。
希恵は立ち上がり、机の端に置かれた小さな木札を叩いた。図書室の机に似つかわしくない、軍の命令書の箱だ。
「図書委員を臨時の伝令補助として編成する。任務は、伝書鳥便の妨害の調査。今日この時間から。拒否は?」
柚花が真っ先に手を挙げた。
「拒否はない! むしろ、今すぐやる! ……ねえ、奏音。鳥、守れるよね?」
奏音は一瞬だけ目を閉じ、台帳を閉じた。
「守る。守るために、誰が触ったか全部書く」
「書くのは得意そう。台帳くんだもん」
柚花はその言い方で笑わせようとしたが、笑いが半分だけしか出なかった。
束の底で、紙が一枚だけ、ほんの少し浮いているのが見えた。
奏音が指を差し入れて引き抜くと、封筒の表面に、見慣れない灰色の粉が薄く付いていた。光を受けても輝かない。月翡翠の粉末なら、もっと淡く光るはずだ。
宛名は、前線の兵の名前。差出人は、後方の町の母親。
封を切ると、紙はまだ新しい匂いがした。だが、文字だけが並び、そこにあるはずの体温がない。読み進めても、怒りも喜びも、焦りも、祈りも、祈りの震えも、胸に触れてこない。
柚花が覗き込んで、眉を寄せた。
「……これ、怖い。字は優しいのに、変。なんか、読んだ気がしない」
紗里奈が紙の端を軽く弾いた。紙が鳴る。乾いた音だ。
希恵が低く言った。
「感情だけを抜く禁制具の噂がある。呼び名は……『ハート泥棒』」
図書室の空気が、一段冷えた気がした。蝉の声だけが、窓の外で陽気に続いているのが、場違いで、腹立たしくさえある。
奏音は紙をそっと机に戻し、台帳の余白に、普段なら書かない太い字で記した。
――届かないのは、紙じゃない。
そして、疑問が一つだけ、頭の中で残った。
この手紙から抜けたものは、どこへ集められているのか。
希恵は未開封の束を指で二度叩き、窓の外の蝉の声へ目線を向けた。
「昼までに、鳥舎と袋の経路を洗う。夕方の便までに結論を出せ。――遅れたら、前線で誰かが壊れる」




