第3話「もう一人のモブ」
次の日になっても、俺の頭の中は昨日のことでいっぱいだった。
「俺は、この物語を救うんだ」
机の隅にチョークで走り書きされた、あの厨二病全開のメッセージ。そして、メイン主人公の藤堂翔と普通に会話を成立させていた、あの見慣れない転校生。通称「改変モブ1号」。
「いや、マジでなんなんだあいつ……」
朝礼の空気椅子に座りながら、俺は脳内で唸った。俺の安全な傍観者ライフは、誰にも気づかれないという「存在感ゼロ」の特性の上に成り立っている。つまり、誰かに認識されちゃマズいのだ。もしあいつが、俺と同じ“こっち側”の人間だとして、俺を認識してるだなんてことがあったら……。
いやいや、考えすぎだろ。昨日のはきっと、俺の幻覚か、もしくはヒロインAがたまたま俺がいた方向を見ただけだ。そうに決まってる。俺は、この物語における最強のデバッグモードなんだから!
そう自分に言い聞かせながら、俺は今日も完璧なモブとして、教室の隅で息を潜めた。
授業が始まり、教師の声がBGMのように流れる。俺は相変わらず、ひっそりと周囲の人間関係をモニタリングしていた。ふと、高嶺美咲が席を立ち、ゴミ箱に何かを捨てに行くのが見えた。その瞬間、通路で、改変モブ1号と「偶然」すれ違う。
「あ、ごめん」
1号がわざとらしいほど自然な動作で、高嶺美咲の肩に触れる。美咲は「いえ、こちらこそ」と微笑んで通り過ぎる。
(おいおいおい、ベタかよ!そんな古典的な接触方法、ラブコメでもさすがにもう使わねーだろ!)
俺は心の中で盛大にツッコミを入れた。しかし、1号はまるで何事もなかったかのように、涼しい顔で自分の席に戻っていく。その顔には、小さく、しかし確かな「計画通り」という文字が書いてあるように見えたのは、きっと俺の気のせいじゃない。
休み時間。俺は今日も廊下の隅で、人知れず情報を収集していた。すると、改変モブ1号がまた動き出した。今度は、高嶺美咲が友達と話しているグループに、なぜか不自然なほど近づいていく。そして、友達の一人が落とした消しゴムを、サッと拾い上げた。
「これ、君のじゃない?」
「あ、ありがとう!」
彼は、拾った消しゴムを美咲の友達に差し出す。その時、彼の視線が、一瞬だけ高嶺美咲に吸い寄せられたのが見えた。そして、美咲は、拾われた消しゴムを見つめながら、なぜか物憂げな表情を浮かべる。
(うわ、あいつ、間接的に絡もうとしてやがる!しかも、消しゴムを落とさせるタイミングとか、完全に狙ってやがるな!こっそりアイテム移動スキルでも持ってんのか?)
俺はモブの観察眼を駆使して、彼の行動の裏側を読んでいた。どう考えても、偶然を装った接触だ。彼は、まるで舞台役者が立ち位置を計算するように、絶妙なタイミングで高嶺美咲の動線に割り込んでいる。
そして、授業中。俺はいつものように、黒板の隅に視線を向けた。すると、そこに、昨日のものとは違う、新しいチョークの落書きを見つけた。
『物語を救うため、俺は介入する。お前もそうだろう?』
これは、明らかに俺へのメッセージだ。俺の「存在感ゼロ」スキルは、他の人間には認識されない。だからこそ、こんなふうに、誰にも見つからない場所にメッセージを残すことでしか、彼とコミュニケーションを取れないのだろう。
(救うって……何からだよ。物語は別に病気じゃねーんだぞ。勝手に治療始めんなっつーの!)
俺は、すぐさまその落書きの隣に、小さく、しかし確実に、チョークで返事を書いた。
『余計なことすんな。安全第一だろ。』
モブ同士の、地味すぎるメッセージ戦。まるで、透明な糸電話で会話しているみたいで、なんだかシュールだ。俺は自分の書いた文字が、誰にも気づかれずにそこに存在していることに、妙な満足感を覚えた。
その日の放課後。俺は今日も、教室の隅で居残り、改変モブ1号の動向を観察しようとしていた。すると、不意に、高嶺美咲が俺の近くにやってきた。
「あの、ここに、忘れ物をしたんですけど……」
美咲は、少しだけ俯き加減で、俺の隣の空いている机を指さした。その机は、誰のものでもない、ただの物置と化している場所だ。そこに忘れ物?しかも、俺に話しかけてる?
俺は思わず、心臓が跳ね上がるのを感じた。
(まさか、俺に話しかけてる……のか?いや、そんなはずは……俺は背景モブだぞ?空気だぞ?)
俺は慌てて目をそらし、存在感をさらに消そうと試みる。だが、美咲は、俺の顔をまっすぐに見上げてきた。その大きな瞳には、確かな光が宿っている。
「あの……もしかして、あなたも、まだ残ってたんですか?」
柔らかな声が、俺の鼓膜を震わせた。完全に、俺に話しかけている。しかも、俺の存在を認識している。
「あ、いや……えっと、その……」
俺は、しどろもどろになってしまった。この状況をどう説明すればいいのか、全くわからない。存在感ゼロの俺に、ヒロインが話しかけてるなんて、物語のバグか何かか?
美咲は、俺の狼狽ぶりに、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、まるで春の陽光のように温かい。
「私、あなたのこと、時々見かける気がするんです。なんていうか……いつも、そこにいるような気がして」
「いつも……そこに……?」
俺は頭が真っ白になった。彼女は、俺が「存在感ゼロ」であるにもかかわらず、俺の存在を認識しているというのか?しかも、「いつもそこにいる」って……ストーカーか?いや違う、俺は背景だ。いつでもいるのは当たり前だろ!
彼女の言葉は、俺の最強スキルである「存在感ゼロ」の根幹を揺るがすものだった。誰にも認識されないからこそ、安全に物語を観察できる。それが俺の強みだったのに。
「あの、私、高嶺美咲と言います。あなたのお名前は?」
美咲が、さらに踏み込んできた。流れるような所作で、彼女は右手を出してきた。握手?ヒロインと?俺が?
俺は固まったまま、どうすることもできない。だって、俺は「男子生徒A」ですらない、名無しのモブなのだ。名乗る名前なんてない。
その時、教室の扉が静かに開いた。視線だけを向けると、そこに立っていたのは、改変モブ1号だった。彼は、一瞬だけ、美咲と俺の間に向けられた美咲の手を見て、小さく目を細めた。そして、すぐにその表情を消し、平然とした顔で教室に入ってきた。
「高嶺さん、まだ残ってたんですか?忘れ物ですか?」
1号は、美咲に声をかけた。美咲はハッとしたように、俺に向けていた手を下ろした。
「あ、はい。ちょっと……でも、もう見つかりましたから」
美咲はそう言って、くるりと身を翻した。俺の方をもう一度チラリと見たかと思うと、今度は口元に小さく笑みを浮かべ、本当に「また会ったね」と、はっきりと呟いた。それは、前回よりもずっと、俺の耳に響く言葉だった。
そして、美咲は1号に会釈をして、教室を出て行った。
その場に残されたのは、俺と改変モブ1号だけ。1号は、俺の様子を窺うように、じっとこちらを見つめていた。その瞳の奥には、どこか挑戦的な光が宿っている。
俺は、心臓の鼓動が、トクン、トクン、と大きく鳴っているのを感じた。
ヒロインが俺を認識している。そして、改変モブ1号も、俺にメッセージを残してきた。俺の「安全な箱庭」は、もう完璧な安全地帯ではなくなってしまったのかもしれない。
物語は、俺の知らないところで、確実に、そして大きく、動き始めていた。