第12話「また会おう、背景くん」
夕焼けが地平線を赤く染め上げ、校舎の影が長く、濃く伸びていた。茜色の空は、まるで物語の終幕を告げるかのように、静かにその色を深めていく。あの後、俺は一人、校門の前に立ち尽くしていた。高嶺美咲が去っていった方向には、もう誰もいない。ただ、夕暮れの淡い光だけが、ポツンとそこに残されていた。肌を撫でる風は、昼間の賑やかさとは打って変わって、どこかひんやりと、寂しさを伴っている。
「また会おうね、背景くん。次は、きっともっと、面白いことが起きるから」
彼女の言葉が、耳の奥で、まるで澄んだ泉の底から響く水音のように、何度となくこだましていた。そして、あの時の、俺をまっすぐに見つめる瞳。それは、俺がこれまでこの世界で経験してきた「存在感ゼロ」の全てを、根本から否定するような、強い力と確信を帯びていた。
(また会おうって……俺は、ただのモブだぞ?クラスメイトですらない、教科書の隅に小さく書かれるような「男子生徒A」ですらないんだ。名簿にすら名前がない、完全なる背景……)
心の中で、何度も何度も自分に問いかける。本来なら、俺は物語の本筋とは決して交わらない、ただの景色の一部でしかないはずだ。主要キャラが通り過ぎても、誰も俺に気づくことなどない。それなのに、あの物語の中心に立つヒロインは、俺の存在をはっきりと認識し、言葉を交わし、そして、まるで友達に言うかのように、なんの違和感もなく「また会おう」と言い残して去っていった。
まるで、俺と彼女の間だけ、この世界の物理法則や物語のルールがねじ曲げられているみたいだ。彼女の言葉は、俺がこれまで必死に築き上げてきた「安全な箱庭」の境界線を、静かに、しかし確実に、曖昧に溶かしていくような、そんな感覚だった。その境界線が溶けるたびに、俺の心臓は、言いようのないざわめきを覚える。
「背景くん」という呼び方も、妙に心に引っかかった。彼女は、俺が「背景モブ」であることを知っている。俺のこの「存在感ゼロ」という特性を、完璧に理解した上で、俺をそう呼んだのだ。それは、決して蔑みでもなければ、俺の境遇を揶い、皮肉を込めたものでもない。むしろ、どこか親しみと、不思議な連帯感が込められているように感じられたのだ。まるで、俺と彼女が、この物語という巨大な舞台の「裏側」を知る、数少ない共犯者であるかのような。そんな、危険で甘い錯覚さえ覚えた。
俺は、ゆっくりと歩き出した。夕暮れの商店街は、もうほとんど人通りがなく、賑やかだった昼間の面影は薄れていた。店のシャッターが次々と閉まっていく音が、遠くで規則的に聞こえる。普段なら、この静けさは俺にとって心地よいものだった。誰にも邪魔されない、俺だけの世界。思考に集中するには最高の環境だ。
だけど、今は違う。美咲の言葉が、その静寂の中に、まるで石を投げ入れたかのように波紋を広げ、俺の思考を激しく掻き乱す。
(「面白いことが起きる」って、一体なんだ?改変モブ1号との戦いが終わったばかりなのに、まだ何かあるっていうのか?俺の安全な傍観者ライフは、もう終わりってことか?)
彼女の言葉は、まるで未来を予見しているかのようだった。そして、その「面白いこと」が、俺と深く関わってくることを明確に示唆していた。俺はもう、ただの傍観者ではいられない。そう、はっきりと突きつけられた気がした。その突きつけられた事実に、不安がないわけではなかったが、それ以上に、説明しがたい好奇心が、俺の胸の奥で渦巻いていた。
家に帰り着き、自室のベッドに倒れ込んだ。硬いマットレスが、今日一日の出来事を全て受け止めるかのように、わずかに沈む。天井を見つめながら、俺は今日の出来事を何度も何度も反芻した。記憶の断片が、頭の中でパズルのピースのように組み合わさっていく。
高嶺美咲の姉の存在。原作には存在しない、新たな「異物」だ。彼女もまた、美咲と同じく「流れ着いた存在」なのだろうか。だとすれば、この世界のどこかに、他にも俺たちのような存在が潜んでいるのだろうか。彼らは、俺のようにひっそりと隠れているのか、それとも改変モブ1号のように、積極的に物語に干渉しているのか。考えるほどに、この世界の深淵が、俺の目の前に広がっていくような感覚に陥った。
「物語の外」
美咲がかつて呟いたその言葉が、今になって、これまで以上に重く響いてくる。この世界は、ただの学園ラブコメ小説の世界ではない。それは、もっと大きな、複雑なシステムの一部なのかもしれない。まるで、巨大な歯車がいくつも噛み合って動く、精密な機構のような。そして、俺たち「流れ着いた存在」は、そのシステムの歪みの中で、それぞれの思惑を抱えて生きている、文字通りのイレギュラーなのだ。
改変モブ1号の目的は、この物語を自分好みに「改変」することだった。彼の根底には、既存の物語への不満と、より刺激的な展開への飽くなき渇望があった。彼は、俺を「背景」と呼び、その存在を嘲笑った。しかし、美咲は違う。彼女は、俺の「背景」という特性を認識しつつも、それを蔑むことなく、むしろ何か特別なものとして受け入れているように見えた。その眼差しは、まるで同じ道を歩む者を見つけたかのような、深い理解と共感を宿していた。彼女は俺のスキルを「他の人には見えないものがある」と評した。それは、俺がこの世界の「裏側」に、誰よりも近く存在していることを示しているのかもしれない。
美咲は「この物語には、どうしても見届けたい結末がある」と言った。その結末とは、一体何なのだろう。藤堂翔とのラブコメのハッピーエンド?それとも、もっと根源的な、この世界の真実に関わることなのか。彼女のその言葉の奥に、俺には想像もつかない、深い理由が隠されているように思えた。
俺は、自分の「安全第一」というモットーを改めて見つめ直した。改変モブ1号の介入を阻止し、本筋を守ったことは、確かに俺のモブとしての役割を全うしたことだ。その時には、達成感と、義務を果たしたことへの満足感があった。だけど、美咲の言葉を聞いて、俺の心に新たな欲求が芽生えた。それは、ただ「物語を守る」だけではない。この世界の真実を知りたいという、止めようのない探求心だ。高嶺美咲が抱える秘密、彼女の「見届けたい結末」とは何か。そして、何よりも、俺自身がなぜこの世界に「流れ着いた」のか。その根源的な問いに対する答えを、俺は求め始めていた。
俺は、もうただの傍観者ではいられない。
そう、美咲の言葉は、俺の心に新たな目的の種を植え付けたのだ。それは、安全な箱庭に閉じこもっていた俺を、未知の領域へと誘う、甘い誘惑でもあった。その誘惑は、これまで俺が抱いていた「安全第一」という殻を、内側から少しずつ突き破っていくような感覚だった。
夜が更け、窓の外からは、規則正しい虫の声が聞こえてくる。普段は心地よいはずのその音も、今は俺の思考のざわめきを一層際立たせるだけだった。
俺は、ベッドの上で体を起こした。まだ、眠れない。頭の中は、美咲の言葉でいっぱいだ。
「次は、きっともっと、面白いことが起きるから」
その言葉は、まるで魔法の呪文のように、俺の心を躍らせる。不安がないわけじゃない。次に何が起きるか、どんな危険が待ち受けているかなんて、全く想像もつかない。だけど、それ以上に、この未知の物語への、この世界の真実への、そして俺自身のルーツへの、強烈な好奇心が、俺の胸を強く叩いていた。それは、抗いがたい引力のように、俺を未知の領域へと引き寄せようとしていた。
俺は、高嶺美咲という存在が、この物語の真実への扉なのだと、本能的に直感していた。
俺は、この世界に「流れ着いた」背景モブ。彼女は、この世界に「流れ着いた」ヒロイン。
そして、俺たちの物語は、今、静かに、しかし確実に、新たな局面を迎えようとしていた。
明日から、俺は、ただの「背景」ではなく、この世界の秘密を探る「探求者」として、新たな一歩を踏み出すことになるのだろう。その一歩が、どこへ向かうのか、今はまだ、知る由もない。
夜空の星が、まるで物語のページの輝きのように、瞬いていた。




