「cut & delete」
誰かがいたような気がする。
名前も、顔も、話した内容も思い出せないけど。
たしかに、その人はここにいた。
夏の午後、細い通りの奥。
それはきっと――“水に濡れたから”。
外に出ると、空は曇り始めていた。
大学2回生の陽向は、夏休みの真っ只中だった。来週にはサークルの飲み会があり、後輩も先輩も来る 予定だ。ちょっとは小綺麗にしておきたいな――そんな気持ちもあって、家を出た。
その日は2025年8月20日、水曜日。大阪の街は昼下がりでも蒸し暑く、陽向はなんとなくアイスクリームが食べたくなって、コンビニに向かって歩いていた。けれど、どこで買おうか迷って、少し遠回りするように細い道へ入った。
ふと目に入ったのは、小さな理髪店だった。看板には「Awa」の文字。アイスを探していたはずなのに、彼の足は自然とそちらに向かっていた。
そういえば髪、ちょっと伸びてたかも。飲み会の前に整えておこうかな――そんな気まぐれが、彼を扉の向こうへと誘った。
カラン……。
店内に入ると、石鹸の香りがした。カウンターには、ロングヘアを後ろで結んだ若い男性が立っていた。彼が「Awa」の店主、水無月澄生だった。
「いらっしゃいませ。」
「あ、今日は飛び込みなんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
促されるままに椅子へ座る。鏡の前に自分が映る。
明るい茶色の栗毛は、少し伸びて重たく見えた。
――なんか、緊張するな。
飲み会では後輩に話しかけなきゃいけないし、少しは社交性も鍛えたい。陽向はそう思って、会話の練習のつもりで澄生に話しかけた。
「あの……このお店って、前からありました?」
「ええ。少し前に父から引き継いで……もう何年も経ちますね」
穏やかな口調で答える澄生に、陽向はどこか安心した。
「では、どのような髪型にされますか?」
「あ……えっと……。夏っぽくさわやかな感じでお願いします!」
自分で言ってちょっと照れくさくなったが、澄生はふっと笑って頷いた。
「承知しました。髪質、いいですね。栗毛……似合ってますね」
「あー、ありがとうございます。自分で染めたんですよ」
少しずつ緊張がほぐれていく。陽向は、話しかける練習のつもりで、話題を投げてみた。
「夏休みって、あっという間ですよね。去年も、気づいたら終わってて」
「そうですね。うちにも、夏休みだけ来るお客さん、いますよ。ふと、来て、ふと消えるように」
「それ、わかります……。去年、よく挨拶してた友達、夏休み明けたらなんか急に来なくなってて……。なんでなんですかね、あれ」
澄生はハサミを動かしながら、静かに答えた。
「なんかそれって、“泡”ぽいですね」
「……泡、ですか?」
「泡って、不思議ですよね。ふわっと現れて、すぐに弾けて消える。まるで、最初からなかったみたいに」
冗談とも本気ともつかない声。けれど、陽向にはそれが妙に引っかかった。
店内に漂う石鹸の香りが、いつもより強くなった気がした。
「では、シャンプーに移りますね」
澄生が奥の棚からボトルを取り出す。 その手元にはいつの間にかゴム手袋をはめていた。
(へぇ、手袋するんだ)
(あれ、この店……洗面台、ないよな?)
陽向の中に、微かに不安が芽生える。だが、それもすぐに消えていった。
澄生が静かに泡立てたシャンプーで髪を洗い始める。
「気になるとこ、ありますか?」
「いえ、大丈夫です……あ、最近天気変ですよね。いきなり雨とか」
「ですね。夏の雨は、急に来ますから。濡れると困りますよね」
澄生の手が優しく、しかしどこか冷たく、頭皮を撫でていく。
泡がひとつ、ぷつんと弾けた。
手袋をしたまま反対側の手袋の手首の部分をつまみ、裏返すように外した。もう一方の手袋を外すのは泡が付いた外側を触らないよう袖口の内側に指を突っ込んで、やはり裏返すように外す。
そしてゴミ箱に捨てていた。
ボトォ・・。
「あの……これ、流さないんですか?」
「ええ。このままで大丈夫です」
「……このままで出ろってことですか?!」「そうですよ」
澄生は、最初に接客したときとまったく同じ顔で、にっこりと微笑んでいた。 陽向がふと視線を泳がせて髪に触れたその瞬間
パッチン………意識が揺れる。
「お会計、3,500円です。
水には気を付けて。
またのご利用を…………。」
淡々とした声が、薄いガラス越しに聞こえるように遠かった。
カラン、コロン……。
なんとなく、陽向はよくいくBlur & Brewでカウンター席に座っていた。Blur & Brewはカウンター席と四人掛けが1つと二人掛けが2つある小さな喫茶店である。外では雨が降り始めていた。
スマホを確認すると、もう12時を回っている。
「……お腹減ったな」
昔ながらの店内で、制服姿の女性店員が対応しに来てくれた。
「何になさいますか?」
「ナポリタンと……ミックスサンド、あとコーヒーで」
「かしこまりました」
その店員は、少しその場に留まって陽向を見つめていた。
陽向は何となく気づいていた。 いいつもと違う店員の反応。
なんかうれしい。
料理が届くまでのあいだ、陽向はスマホを取り出して、「大学生 飲み会 服装」などと検索しながら、なんとなくスクロールしていた。
(やっぱシャツかな……いや、ジャケットは暑いか……)
そんなふうに考えながら画面に目を落としていると、ナポリタンとミックスサンドが木のトレイに載って運ばれてきた。
「お待たせしました。それと……よろしければ、サービスのプリンをどうぞ」
「えっ、いいんですか?」
「はい。本日雨なので……気まぐれです」
店員は微笑んだが、どこか照れているような仕草だった。
陽向は小さく礼を言って、コーヒーをひと口啜る。
(……いつもよりちょっと遅かったな、注文)
けれど、それも別に気になるほどではない。ただ、プリンの甘さが妙に印象に残った。
会計の時、レジに立ったのはさっきの女性店員だった。伝票を受け取った後、ふと陽向の髪に視線を落とす。
「……あの、今日……髪、切られたんですか?」
「あ、え……はい、……」
自分でも驚くほど、曖昧な返事が返ってきた。
(……今日、どこで髪切ったけ?)
思い出そうとしても、膜が張ったように思い出せない。
「すごく、似合ってますよ」
店員の言葉に、陽向は少し照れながら会釈した。
Blur & Brewを出ると、外はうっすらと暗く、雲の匂いが街に垂れていた。
まだ降ってはいないけれど、空気は水気を感じる。
陽向は、傘を持っていなかったが、まあいいかと歩き出した。
家は南の方角だ。だけど、彼はなぜか東の裏通りへと足を向けていた。
(なんとなく、こっちから行こうかな……)
しばらく歩くと、小さな交差点の手前で声をかけられた。
「すみません……!」
振り返ると、スマホを片手に制服姿の高校生くらいの青年が立っていた。
「“8bit Station”っていうゲームショップ、このへんにあるらしいんですけど……場所がわかりにくくて」
地図アプリの画面を見せながら陽向に話す。
「ああ……あそこな。ちょっと入り組んだとこにあるんよ。ほら、あの角を右に曲がって、まっすぐ行った先のビルの地下」
「マジすか! 助かりました!」
青年は、礼を言って軽く頭を下げると、駆け足で角の方へと向かっていった。
陽向はその後ろ姿を見送りながら、ふと懐かしさを覚えた。
(そういえば……俺も高校の頃、あそこ通ってたな。誰と行ったっけ……)
何かが浮かんだが膜に覆われていて、すぐにわからなくなる。
(……誰とだった?)
足が止まる。ふと、自分がどこに向かっているのかわからなくなった。
そのとき、泡が頬を伝った。周囲の水たまりに波紋が沢山出来ている。
……ズゥザー……
さっきよりも波紋が大きくなった。
だが、不思議と濡れた感覚がない。
肌の感覚が鈍くなっていくような、膜に覆われているような違和感。
気づけば、街の音がまるで遠ざかっていくようだった。
車の音、人の声、足音、雨の音――それらがひとつずつ消えていく。……シンー……とした静寂の奥へ沈んでいく。
耳を澄ませば、澄ますほど、何も聞こえない。
そして次第に、視界に映るものの輪郭がじわりと黒く滲んでいく。
まるで水で滲むインクのように、現実の輪郭があやふやになっていった。
カツ、カツ、と誰かの足音だけが遠くに残る。
それも、すぐに――
シン……。
音のない世界。視界に映る光景がじわじわと輪郭を失っていく。
それはまるで、画面がフェードアウトしていくときのように、ゆっくりと、静かに。
泡が髪から流れ落ちていることに、陽向は気づいていなかった。
スパッ、ッパ……。
(俺って……誰。)
8bit Stationの前に立っていたのは、黒のキャップをかぶった高校生の青年だった。
店の看板の下、雨宿りしながらスマホをいじっていたが、向こうから来る姿に気づくと顔を上げた。
歩いてくる少年が苦笑しながら手を挙げる。
「ごめんごめん。地図アプリ見ながら来たけど、マジでわかりにくかってん、ここ」
「そんなん、最初から電話してくれたらよかったのに」
「いや、いけるやろって思ってた。でも聞いたらわかったわ」
「あぁ、誰かに聞いたんや?」
「……うーん、なんか……誰かに聞いた。親切な人」
友人は小さく肩をすくめてから、ドアのほうに向き直る。
ふたりは軽口を交わしながら、地下へ続く階段を下っていった。
カラン。
レジ前に栗毛の大学生らしい男。
「あの、今日は予約してないんですけど、いけますか?」
雑誌を整えていたのは、水無月 澄生。
いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」
新たな客は椅子に腰掛ける。
「では、どのような髪型にされますか?」
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
記憶の奥にある、誰か。
名前も顔も思い出せないけれど、たしかに“そこにいた”存在。
この話が、少しでもあなたの記憶に残ればうれしいです。
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またどこかで、お目にかかれたらうれしいです。