忘却喫茶
町の外れに、その喫茶店はひっそりと佇んでいる。
古い煉瓦造りの二階建て。窓には白いレースのカーテンがかかり、硝子越しにうっすらと中の明かりがにじんでいた。
夜の訪れが近づく午後五時、辺りはひんやりとした空気に包まれている。
看板には「忘却喫茶」の文字。かすれ、煤けて、まるで誰にも見られたくないかのようにそこにあった。
私は立ち止まり、小さく息を吐いた。足元のアスファルトには濡れた枯葉が貼りついていた。
「この店で、記憶を一つだけ、捨てられるらしいよ」
数日前、職場の同期・中原がそう言った。
冗談のように笑っていたが、その翌日、彼は遺書も残さず、線路に飛び込んだ。
部屋には何も残されていなかった。ただ一枚、コースターが机の上に置かれていた。
忘却喫茶。
裏には、ただそれだけが書かれていた。
扉を開けると、乾いた鈴の音が鳴った。
中は、予想よりもずっと静かで温かかった。
壁一面に本棚があり、棚には使い古された文学全集や洋書、分厚いアルバムのようなものまで混在していた。
カウンターの奥には、淡いオレンジの照明。
店内には誰もおらず、時折、古い柱の軋む音がするだけだった。
「いらっしゃいませ」
低く静かな声がした。
振り向くと、カウンターの奥に、年老いた男が立っていた。
白髪混じりの髪をオールバックにし、細身の体に真っ白なシャツ、漆黒のベストを身に着けていた。
彼の目は、どこか乾いていた。
熱ではなく、深い冷気をたたえたような目。まるで、全てを見透かす鏡のようだった。
私は無言でカウンターに腰掛けた。椅子は革張りで、座面にほんのりと体温が残っているような気がした。
「……何を、お忘れになりますか?」
マスターはそう尋ねた。まるで注文を取るように、自然に。
私は言葉を探したが、すぐに声が出た。
「兄が……あの橋から落ちた夜を」
自分の声が震えていた。
もう十年以上も前のこと。誰にも話したことのない、あの晩。
兄と一緒にいたことを、私は隠してきた。
“事故”とされた死の裏にある、ある種の確信を、封印してきた。
マスターは一度だけ瞬きをし、棚から茶葉を取り出した。
ガラスのポットに湯を注ぐ。
立ち昇る香りは、微かに金属の匂いが混じっていた。
「お飲みください。代償として、あなたの"今日"をいただきます」
「今日……?」
「この一日分の記憶が、丸ごと消えます。あなたは明朝、ここへ来たことすら覚えていないでしょう。代わりに、望んだ記憶は跡形もなく消えます」
私は紅茶の入ったカップを見つめた。
表面に、ほのかに自分の顔が揺れていた。
その顔は、どこか見知らぬ人間のようだった。
私は一息に飲み干した。
口の中に、重く、鉄さびのような苦味が広がる。
意識がゆっくりと遠ざかっていく。
遠くで柱時計が鳴っている。何時だったか、わからない。
闇。
――――
目が覚めると、私は見知らぬ公園のベンチに座っていた。
空は夕焼けに染まり、赤い光がビルの谷間に沈みかけていた。
手の中には、使い古されたコースターが一枚、しっかりと握られていた。
何の印字も、書き込みもない。まるで何の意味もないただの紙片。
それでも、私はなぜか、それをずっと見つめていた。
それが何かに関係している気配だけが、かすかに胸の奥に引っかかっていた。
スマホを見ると、日付だけが一日、すっぽりと抜けている。
どこか喪失感に似た痛みのようなものが湧いてくる。何を失ったのか、確かめる術はない。
けれど夢の中で、兄の声を聞いた気がした。
「……これで、いいのか?」
笑っていたのか、怒っていたのか、わからない声だった。
その夜、眠りについた私は再び、あの店の夢を見た。
マスターが立ち、無言でカップを差し出していた。
私は、次に消したい“誰か”の名を、すでに心の奥で転がしていた。