表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

忘却喫茶

作者: さのすけ


町の外れに、その喫茶店はひっそりと佇んでいる。

古い煉瓦造りの二階建て。窓には白いレースのカーテンがかかり、硝子越しにうっすらと中の明かりがにじんでいた。

夜の訪れが近づく午後五時、辺りはひんやりとした空気に包まれている。


看板には「忘却喫茶」の文字。かすれ、煤けて、まるで誰にも見られたくないかのようにそこにあった。

私は立ち止まり、小さく息を吐いた。足元のアスファルトには濡れた枯葉が貼りついていた。


「この店で、記憶を一つだけ、捨てられるらしいよ」


数日前、職場の同期・中原がそう言った。

冗談のように笑っていたが、その翌日、彼は遺書も残さず、線路に飛び込んだ。

部屋には何も残されていなかった。ただ一枚、コースターが机の上に置かれていた。


忘却喫茶。

裏には、ただそれだけが書かれていた。


扉を開けると、乾いた鈴の音が鳴った。


中は、予想よりもずっと静かで温かかった。

壁一面に本棚があり、棚には使い古された文学全集や洋書、分厚いアルバムのようなものまで混在していた。

カウンターの奥には、淡いオレンジの照明。

店内には誰もおらず、時折、古い柱の軋む音がするだけだった。


「いらっしゃいませ」


低く静かな声がした。

振り向くと、カウンターの奥に、年老いた男が立っていた。

白髪混じりの髪をオールバックにし、細身の体に真っ白なシャツ、漆黒のベストを身に着けていた。


彼の目は、どこか乾いていた。

熱ではなく、深い冷気をたたえたような目。まるで、全てを見透かす鏡のようだった。


私は無言でカウンターに腰掛けた。椅子は革張りで、座面にほんのりと体温が残っているような気がした。


「……何を、お忘れになりますか?」


マスターはそう尋ねた。まるで注文を取るように、自然に。


私は言葉を探したが、すぐに声が出た。


「兄が……あの橋から落ちた夜を」


自分の声が震えていた。

もう十年以上も前のこと。誰にも話したことのない、あの晩。

兄と一緒にいたことを、私は隠してきた。

“事故”とされた死の裏にある、ある種の確信を、封印してきた。


マスターは一度だけ瞬きをし、棚から茶葉を取り出した。

ガラスのポットに湯を注ぐ。

立ち昇る香りは、微かに金属の匂いが混じっていた。


「お飲みください。代償として、あなたの"今日"をいただきます」


「今日……?」


「この一日分の記憶が、丸ごと消えます。あなたは明朝、ここへ来たことすら覚えていないでしょう。代わりに、望んだ記憶は跡形もなく消えます」


私は紅茶の入ったカップを見つめた。

表面に、ほのかに自分の顔が揺れていた。

その顔は、どこか見知らぬ人間のようだった。


私は一息に飲み干した。


口の中に、重く、鉄さびのような苦味が広がる。

意識がゆっくりと遠ざかっていく。

遠くで柱時計が鳴っている。何時だったか、わからない。



闇。


――――


目が覚めると、私は見知らぬ公園のベンチに座っていた。

空は夕焼けに染まり、赤い光がビルの谷間に沈みかけていた。

手の中には、使い古されたコースターが一枚、しっかりと握られていた。


何の印字も、書き込みもない。まるで何の意味もないただの紙片。

それでも、私はなぜか、それをずっと見つめていた。

それが何かに関係している気配だけが、かすかに胸の奥に引っかかっていた。


スマホを見ると、日付だけが一日、すっぽりと抜けている。

どこか喪失感に似た痛みのようなものが湧いてくる。何を失ったのか、確かめる術はない。

けれど夢の中で、兄の声を聞いた気がした。


「……これで、いいのか?」


笑っていたのか、怒っていたのか、わからない声だった。


その夜、眠りについた私は再び、あの店の夢を見た。

マスターが立ち、無言でカップを差し出していた。


私は、次に消したい“誰か”の名を、すでに心の奥で転がしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
まさか忘れたい記憶が兄を橋から突き落としたことだったことに驚きました。最後の消したい誰かってまさか同僚の中原ですか?なぜ主人公が中原の部屋の状態を知っているのか不気味だったんですよね。もしそうだとした…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ