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赤き竜のデューベイ

作者: XI

*****


 何十年ぶりだろうか、ニンゲンの女が、赤き竜が住まう洞窟を訪れたのは。決まって流行り病が起きたときに寄越される。界隈で神と称される、千年ものときを生きる赤き竜に若い女を贄として差し出せば、病がおさまると信じられているらしい。実際、これまで必ず収束した。俺はただの赤き竜で、だから特別な力なんて持ちようがないのに、事実としてそうあるのであれば、そこには何か因果関係があるのだろうか……などと考える日々もあったりした。ああ、無駄でしかなかったな、そんな時間は。そもそも考えるという行為自体が(せい)においては無意味に等しい――なんて悟ったようなことをのたまうつもりはないが。



*****


 今回寄越されたのは、ひどく痩せた、そして黒髪の、例によって若い女だった。なにせ村人からすればなかば神格化している赤き竜への貢ぎ物だ。綺麗な着物を着ていた――着せられていたと表すほうが正しいか。赤き竜は表で出迎えたわけではなかった。洞窟の中で面会した。深い洞窟ではない、どちらかと言えば浅くて狭い。天井も高くない。若い女はしずしずと三つ指での挨拶を示すと、「アカリでございます」と言った。女は声変わりしないのか、澄んだ声はただただ美しかった。少女のそれだと聞かされても疑う余地などあろうはずない。正直言って、赤き竜はヒトにあまり興味がないのだ。それでも「この女」に限って言うと、あまりに美しいものだから、赤き竜は思わず、喉の奥を唾液で濡らした。実際、「食ってやろうか?」などと口にした。すると女は「どうぞお好きになさってください」と言った。言って、微笑んだのだ。「村の病がやむのであれば、私はなんでもいたします」ということらしい。けなげな心意気だな。悲しい決意とも言う。


 どれだけ好ましかろうが、覚悟を決めたニンゲンは食らいたくない。

 ずっと前から、そう決めている。


 赤き竜は猫のように、あるいは蛇のように身を丸くして、目を閉じた。「帰っていいぞ」と告げたのだ。もはや興は削がれたと断言していい。骨までしゃぶることは簡単だがやはり肉の部分が多いほうが具合が良く、だったらその基準から女はだいぶん逸れている――ということにしておこうと赤き竜は割り切るように考える。あまり難しいことは考えたくない。本能を欠いた生き物らのこざかしさにはとうに飽いている。他者についていたずらに思考を巡らしたくはない。それは無駄でしかないから。――欺瞞は高尚だ。素敵だなとも思う。


 女が言った、「困ります。帰れだなんておっしゃらないでください」と。

 やはり赤き竜に奉仕しないと流行り病はなくならないと信じ込んでいるらしい。


「女ぁ」野太いがらがら声で、赤き竜は呼びかけた。「俺には病を吹き飛ばす力なんてない。確かに千年ものときを生きていて、おまえたちよりはずっと賢く、知識もあるだろうが、それでもできないことはたくさんあるんだよ」

「そんなことはありません」当該の女は言う。「お会いして、私は確信しています。あなたは神様に近しい存在です」

「だからなぁ、女ぁ」

「病が落ち着けば、また考えます」

「ほんとうだな?」

「ここにお約束いたします」

「そうしてもらいたものだ」


 仮に毎日ここを訪れるにしたって、村から通えばいい。

 赤き竜はそう提案した


「いえ。ここでご一緒させてください」


 女は背負っていた荷物をよいしょと下ろした、「お布団、持ってきました」と言って微笑んでみせた。


「風呂もないんだぞ。そうでなくたって、ここは夏でも夜になると冷えるんだ」

「都度、いろいろ考えて、決めます。まずはおそばにいさせてください。お願いします」


 ぺこりと(こうべ)を垂れられたものだから、なんとも調子が狂うな、と――。



*****


 女――アカリは朝から出かけたらしい。赤き竜が目覚めると、すでに姿がなかったのだ。代わりにというかなんというか、すぐそこに黒猫がいた。身体は小さいが子どもではない。あばらが浮いていてもけっして不健康ではない。――本人はそうだと謳っている。だったら信じよう。疑うのは手間だ、苦手だ、面倒だ。


 黒猫は右の前足を使って顔を洗っていて、それから赤き竜の目に気づくと、「おっす、おっさん」などと軽口を叩くように言った。千年も生きているが俺はまだまだ若いつもりなんだがな、と思う。そうでなくとも、黒猫ごときに「おっさん」などと偉そうな口を利かれたくはない――そうでもないか。


 赤き竜はさっぱりした性格の黒猫に、「ふもとの、村の病はどうなんだ?」と訊いた。「まだ流行ってるみたいだぜ」との答えがあった。


「ばたばたヒトが死んでいるのか?」

「死に至る病ってわけでもないみたいだ。おおむね、症状としては軽い部類に入るらしいぜ。じきにおさまるだろうってさ」


 だったら、女は早々に帰していいな。

 赤き竜はそんなふうに考えて。


「おっさんはドラゴンで、しかも千年も生きてるってのに、どうにも人間臭いよな」


 たしかに、そんなところはあるかもしれない。

 が、そのへん猫に指摘されるとなんとも居心地が悪い。


 赤き竜の腹の虫が、派手にぐぅぅぅと鳴いた。

 眉などないのに黒猫が眉を寄せ、彼は難しい顔をしたように見えた。


「もう何年食べてないんだよ。ヒトしか食べられないってんなら食べるしかないだろ? じゃないとおっさんが死んじまうぜ?」


 身を横たえたままの赤き竜はグリーンアイをぎょろりと動かして、きちんとおすわりしている黒猫を見た。


「ヒトを食っても、むなしいだけだ」

「長生きに意味はないっていうんだろ?」


 まったくもって、そのとおりだ。

 赤き竜は未来など望んでいないのだから。



「俺はただの黒猫だけどさ、おっさんの友だちだぜ?」

「そうあっても、おまえは得をしない」

「人付き合いは損得勘定だけで数えるもんじゃねーよ」


 人付き合い、か。

 竜と猫の話でしかないんだがな。


 ――アカリが帰ってきた。


「赤き竜さま、ただいまです」


 アカリはにこりと微笑んだ。

 黒猫のほうに目を向けると「こんにちはぁ」とますます優しい顔をした。


「アカリ、話があるんだ。そこに座って聞きなさい」

「待ってください。山菜を調理してきたんです。一緒に食べましょう」

「いいんだ、そんなことは。俺の話を聞きなさい」

「ダメですよ、赤き竜さま、お肉が好きなのはわかりますけれど、山菜は山菜で栄養があるんですからね」


 だから、そういうことはどうだっていいのに。


「ですけど、そのうち、猪や鹿をお持ちしますから。狩りの練習中なのです」


 ほんとうに、そんなことはどうだっていいのにな。


 また、赤き竜の腹の虫が()を立てた。


 暗い表情を浮かべたのは、やはりアカリだ。

 苦しげに顔を歪めたりもした。


「わかっています。ヒトしか食べられないとおっしゃるのであれば、どうか私を食らってくださいまし」

「できないよ」と赤き竜は苦笑い。

「どうしてでございますか?」


 アカリにならいいか。

 話してやることにした。


「昔、好きになった女がいた。交わることなんてできるはずもないのに、俺の子が欲しいとまで言ってくれた。だが、三十を手前に突然亡くなってしまった。ヒトの脆さを知った。ヒトの命の儚さを思い知った。そんな弱いヒトは食えないなと思った。食わないと誓った」


 何か言いたそうにしたのち、アカリは顎を引いて目線を落とした。


「それでは赤き竜さまが死んでしまいます」

「この薄暗い洞窟から、あと幾度、青空を眺めることができるのか……。そんなふうに考えるだけで、俺は楽しいんだよ」

「以前は空を飛んでおられたのでしょう?」

「もはや、遠い昔の記憶だ」


 今、赤き竜は、とても幸せだった。

 静かなる毎日が、とても愛おしかった。



*****


 赤き竜は急速に弱りはじめた。丸くなった状態から起き上がるのがひどくきつくなり、身体中に重石がついているような感覚に苛まれ……。ヒトの言う肩こりとはこんなものかもしれないなと気楽に気軽に考えるとなんとなく楽しくなって、同時に苦笑したくもなった。動きがナメクジのごとくのろまになってしまったことを黒猫に指摘された。「ホント、食えよ。ヒトなんて腐るほどいるだろ?」――それは知ってる。だが、食わないと決めたんだ。その決め事を反故にすれば、竜としての矜持を失うのと同義だ。


「おっさんはイイ奴すぎるよ。真面目さも度を過ぎれば毒にしかならないぜ?」


 その毒とやらを好んで食らっているものだから、きっと近い将来、赤き竜は――。



*****


 外がすっかり暗くなった頃になって、アカリが帰ってきた。赤き竜は嗅覚が優れているので、アカリが血の匂いをまとっていることにすぐに気づいた。背負っていた荷を下ろす。藁の中から出てきたのは何かの肉だった。――人肉だとすぐにわかった。


 赤き竜の表情が険しくなるのは当然と言えた。


「アカリよ、これは誰の肉だ?」

「私の娘の肉です」


 ……は?

 なんだと……?


「おまえ、子があったのか?」

「十五で生みました。(おさ)の息子に犯され、生みました」


 どういうことだ?


「言葉どおりの意味です。流産を図る……なんていう真似は考えもしませんでした」

「なぜだ?」

「生まれてくる権利があると考えたからです。愛する自信もありました」


 言い切るあたりにアカリの強さを感じた。

 ――が、大切にしていたに違いない自らの子をどうして殺したのか。

 どうして、食用の肉として加工したのか。


「赤き竜さまのことのほうが、ずっと大切だからです」


 その考えに至る理屈と理由がわからない。


「私は何よりも、誰よりも赤き竜さまを優先します」


 だから、それはどうして……。


「好きだからです」


 自らの娘のどこのぞの部位の肉に刃を入れながら、アカリは言った。


 もちろん赤き竜は、食わなかった。

 彼が「食べないよ」と言うとアカリは両手で顔を覆って泣きだしたが、食えないものは食えなかった。



*****


 赤き竜はいよいよ起き上がることすらできなくなった。腹がへった。それこそ死にそうなくらい。だが、何も後悔していない。空腹を満たすことは簡単だが、だからこそ、そこに価値を感じない。ヒトを愛した以上、ヒトは食わない。その誓いには何も間違いなどなかったと確信していた。


 アカリとはすっかり、ここ最近、会っていない。病はやんだらしいから、いよいよ村に帰ったというのであればそれでいいし――否、そうあるほうが望ましかった。――死期が近いように感じられた。弱ってしまうと目が衰えるらしい。空の青さはわかっても、それ以上のことは認識できなかった。千年にも及んだ命もそろそろ終わりか……。そう考えると感慨深くはある。悪い道のりではなかった。悪い結末でもないと思う。俺は俺らしく、俺として、俺の一生を謳歌した――赤き竜は前向きに、そんなふうに解釈している。


 いっそう身を丸め、目を閉じてしばらく経ったところで、「赤き竜さま……」と女の小さな声がした。


「アカリか? 悪いが、もう目がほとんど見えないんだ」


 すると、あかりが「わーん!」と大きな泣き声をあげた。

 まるで小さな子供のようだった。


「赤き竜さまが死んじゃう。死んじゃうよぅっ!!」


 アカリが駆け寄ってくるのがわかった。

 身を寄せてきたのが、わかった――。


 赤き竜は少々慌てた。


「こら、アカリ、離れなさい。危ないから」


 赤き竜の身体は尖った鱗で覆われているのだ。

 触れれば触れた分だけ身体を傷つけることになってしまう。


 そんなのわかりきっているはずなのに、アカリは赤き竜の身体に身を乗り上げ、身体の全部を預けてきて。


 感動とは違う。

 そんな大げさな感情ではない。

 ただ、ひとりぼっちではないのだとだけ強く感じた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。ずっとおそばにいると誓ったのに……」口惜しそうに、アカリは言う。「村の人たちはもう見捨てろって。もう……もう必要がないからって。だから、ほうっておけ、って……」

「いいんだよ、アカリ。それでいいんだ。ああ、そうだ。ニンゲンは馬鹿ではないようだな」

「私はもう離れません。ずっとずっと、ここにおりますから」


 赤き竜の左の目尻から、ひとすじの涙が伝う。

 優しい女もいたものだな、馬鹿馬鹿しい――。



*****


 残りカスのような力を振り絞って、赤き竜は洞窟の外に出た。神様の野郎は最後の最後に贈り物を寄越してくれた。うっすらとではあるものの、目が見えるようになったのだ。青空のもとで見るアカリはほんとうに愛らしく、また、綺麗だった。着ている物は粗末でも、心の清らかさが映す彼女の美しさには微塵の嘘もなかった。


「幸せでした……違いますね。幸せです。大好きな方に愛していただけたのですから」


 赤き竜は弱々しく笑うしかない。


「ニンゲンが嫌な奴ばかりなら、俺は何も呪わず死ねたのになぁ……」

「優しすぎるから苦労をする。赤き竜さまは、その典型です」


 太陽がまぶしい。

 橙色の光は、全身を覆う竜の赤い鱗を、じりじり焼く。


「あまりうまくは生きられなかった」アカリと呼びかけた。「健やかに生きてほしい。それだけが、俺の願いだ」

「無理ですよぅ」アカリは笑った。「言ってみれば、私は未亡人なんですから」


 なんとも言えない穏やかな表情で近づいてきた、アカリ。

 赤き竜はなんとか身体を縦にして、短い前足――右の前足で、その小さな頭を撫でた。


「ほんとうに、ほんとうに、おまえが生きる世界に祝福を」


 添い遂げてやりたかった。

 最期の瞬間まで、守ってやりたかった。

 そうすることが叶わなかったのは、幾分、悲しい。


 赤き竜はふらりと傾き、痩せ細った身体をどっと地面に横たえた。


 ヒトと出会えてよかった。

 ヒトとの恋を、得ることができてよかった。


 わーん、わーん、わーん!!

 

 アカリの大きな泣き声が耳に届きつづけた。

 やかましいながらも肌触りのいい子守歌に、赤き竜はそっとそっと、目を閉じた。


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こんにちは。ウバ クロネ様の「ウロコ」企画から参りました。 この赤い竜さんは気骨が太いところがよいですね。何万年も生きて、生きて、生きることに飽きていたのでしょうか。  アカリさんが、最後、大きな泣き…
アカリの深い愛情は傍から見れば異常なのかも知れません。 それでも彼女をそこまで駆り立てたのは、彼女自身が愛情に飢えていたからなのかも知れないなと思いました。 種族が違ったとしても互いに愛情を寄せ合える…
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