7話
白い月は帰り道を緩く照らしていた。
アオイは私の真横に並び、笑みを浮かべながら独特のペースで歩みを進めている。私もそれを見て、少し微笑んでいたかもしれない。
あの遺体は放置した。私には彼女の殺人を手伝う狂気まではなかった。
黙っているだけでも殺人幇助をしていることに変わりはない。結局、私は狂気に身を任せることも、正気に戻ることもしたくなかったのだ。
曖昧でどっち付かずな私の悪癖が出てしまっていた。
ちくちくと足の裏に痛みが走る。歩き疲れの所為だろうが、その痛みが私の狡猾さを責めているような気さえした。
「ハルさん、これで共犯だねぇ」
「……ですね」
彼女が口にしたその響きが、不思議と耳触りの良いものに思えた。
世間でいうところの殺人鬼と共に罪を犯すということ。それを、他ならぬ彼女自身が口にしてくれた。そのことが、私の心を揺さぶっていた。
「一つ、いいですか?」
「思うんだけど、そんな感じの切り口で話す人って、駄目って言われたらどうするのかな」
「……すみません。忘れてください」
「あは、冗談、冗談だよ。ハルさんは面白いなぁ」
彼女が何歩か先へ進んで、こちらへ振り返った。悪戯っぽく細められた瞳は――多分瞳に映る光の加減もあるのだろうが――普段とは蒼さとは違う色を含んでいた。
「それで、なあに?」
ひゅる、と微かな潮風が私たちを通り過ぎていった。
風に遊んだ黒髪と、それでも私をじぃっと見つめるアオイの瞳に、私は言いかけた言葉を止めた。
「……よく、今まで捕まりませんでしたね」
口から滑り出たのは、そんな言葉。
当たり障りのない、とまでは言うことはできないが、聞いてもおかしくないようなことだった。
「指紋とか、靴の痕とか、防犯カメラとか。色々残ってもおかしくなさそうですが」
「この辺はカメラあんまりないしねぇ。指紋とか靴とかは残るかもだけど」
彼女は少しだけ考える仕草を見せたが、あまり間を置かずに言った。
「心配いらないよ。どうせ捕まらないし」
「それは、どういう……?」
くるり、と彼女は向こうを向いた。その所為で表情は窺い知れなかったが、その声音には幾分かの冷たさが含まれているような気がした。
「まだナイショ」
「分かりました」
「……気にならないの?」
「少しだけですが……」
言いたくないことなら言わなくてもいい、と言おうとした。けれど、ふと、その何気なく口にしようとしたものが恐ろしいものではないのかと疑問が芽生えた。
言いたくないことを無理に聞かないのは優しさだ。ただ、ありふれたフレーズでもある。だからこそ場合によっては相手を突き放すこともあるだろう。
慎重に考えないと取り返しがつかなくなりそうな気がした。取り敢えずで口を滑らしてしまう訳にはいかなかった。
「……すみません、少しではなく、とても気になります」
「あは、やっぱり?」
「ただ、内緒だというなら、今はやめておきます」
「そっか」
また風が吹いた。少し温い風だった。
黙って前を進む彼女に、もう一つ言葉を投げ掛けた。
「内緒の中身。いつか聞かせてくれますか?」
「……ここで約束しても、破るかもしれないよ」
「それでも構いません」
先程アオイは、まだ、と言った。それを強引に解釈するなら、いつかは話してくれるということになるだろう。
彼女の長髪が風に絡む。それは彼女が返答に迷っているようでもあった。
「破っても、構いません」
もう一度言った。
「……それなら、いつか、ね」
視界が暗い夜に覆われた。
ぎり、と小指に痛みが走る。蒼い月が二つ、間近で私のことを覗き込んでいた。
「はい。いつか」
潮と鉄と、果物の香り。
右目が小指と同じくらいずきずきと痛む。血が出ているような気さえした。
「ね、指切りってこれであってる?」
アオイが私の右手を持ち上げた。その小指の付け根は真っ赤に腫れ上っていて、まるで赤い指輪でもはめているかのようだった。
「……ちょっと、違いますね」
「え、どうすればいい?」
「手を貸してください」
「はーい」
拭ったとはいえ、被害者の血や脳漿に塗れていた右手。その小指と私の小指を絡める。
「こうして、約束するんです」
「……あは、なんだか、不思議な感じだね」
「私も、子どもの頃以来です」
仄かな温かさと、瑞々しさ。そして若干の重たく錆びた空気。
それは、血に染まっていた彼女の指から、私の指へ纏わりつく。
紅く濡れたハンカチを思い出した。私は、今それになっていた。
「……私だけ約束してもらうのは不公平ですから、アオイさんも、私に何か約束してほしいことがあれば言ってください」
「えー、急だなぁ……」
幾度かの瞬き。迷うような視線の揺らぎ。少しして、アオイは口を開いた。
「また血がついてたら、拭いてくれる?」
「約束します」
「やった」
絡んだ指を、きゅ、と握る。
その温もりに暫くの間だけ、浸っていた。




