6話
何となくで書き続けています。
窓から見える景色が徐々に赤くなる。やがて夜空の紺と混じって薄桃色が空に広がった。たなびく雲がグラデーションを帯びていて、妙に気味が悪かった。
コップが空になった頃、アオイは「またね」と言い残して去っていった。去り際に、「今日は誰かを殺すんですか」と聞くと、彼女は薄く笑った。
「明後日にはニュースになるんじゃない?」
物騒だと思ったが、今更なことだった。ひらひらと手を振る彼女の後ろ姿は、これから人を殺すのだとは思えなかった。きっと、まともな感性を持った人ではないのだろう。そう思うと、最初に殺人鬼という言葉を生み出した人は、そういった人種の内心を見事に捉えていたのかもしれない。
言い得て妙というものだろう。あの神秘的な気配。冷たい色の瞳。人を殺すのが当然とでも言うような口振り。人ではなく鬼だと言われればしっくり来る。
「でも、そっか」
今日も私ではなかった。
死の苦しみを味わわずに済んだことに安心している自分も、彼女に殺されなかったことを残念に思う自分もいた。その感情の内訳を考えそうになって、慌てて頭を振った。ぐわんぐわんと揺れる視界に、愚かな考えは紛れていった。
「っ、また……」
頭痛がした。雨が降るという予報はなかったはずだが、こめかみの辺りがきゅ、と締まるような感じがした。
錠剤を二つ、喉に押し込む。喉に溶けかけた錠剤が張り付き、異物感を覚えて身体が勝手に吐き出そうとする。
苦い麦茶は錠剤の味を押し流すのにぴったりだが、一度覚えた気持ち悪さは消えない。何度コップを空にしても喉の異物感は残ったまま。こめかみの痛みも和らぐ気配はなかった。
目を閉じると、暗い視界の内にアオイの瞳を見た。一度見れば忘れないあの瞳。薬を飲むより彼女といる方が落ち着く気がした。
「……今、何をしてるんだろう」
人を殺しているのだろうか。
それとももう殺しは終えて、帰路に着いているのだろうか。
じわ、と親指が熱を持った。彼女の真っ白なかんばせに、被害者の血が飛び散るのを幻視した。前は線を引くしかなかったその汚れを、今度は綺麗に拭ってあげたいと思った。
「会いに、行こう」
アオイはどうやって人を殺すのだろう。それらしい得物は持っていなかったが、刃物を隠し持っていたりするのだろうか。それとも、その場にあるもので突発的に殺すのだろうか。
ただ想像することはいくらでもできるが、どうも現実味がなかった。そういった殺し方は彼女には似合わないと感じた。
先程まで薄桃色が広がっていた空は、今はそのほとんどが宵に染まっていた。月は雲の隙間からちらちらと覗き、太陽の代わりを務めようとしている。
家を出る直前に、白いハンカチを丁寧に折り畳んで、ポケットに仕舞った。汚れが目立ってしまうかもしれないが、無難な色合いのものしか私は持っていなかった。仕立ての良いものだったが、だからこそ彼女のために使ってあげたかった。
彼女がどこにいるかの見当はついていなかった。ただ心が惹かれる方へ足を進めることにした。丁字路では街灯のより暗い方へ。交差点ではより海に近い方へ。足の裏に筋張っているような痛みを感じながら、少しでも暗く、静かで、潮騒のする方へ向かった。
潮風はいつもよりも落ち着いていて、衣服に染み込む冷たさも、鼻腔を埋める潮の香りも、目に入り込む痛みも、今日はほとんどなかった。
ただ、穏やかな風に乗って、僅かに錆びついた匂いが私の前にやってきた。
血の匂いだとはっきり分かった。子どもの頃によく転んだおかげで、その匂いはかなり身近なものだった。
風が強くなくとも漂ってくるくらいの匂い。それを辿ればきっと、アオイに逢える。
私は迷うことなく、その方向に足を向けた。
◇
海岸に程近い小道に入ると、血の匂いが途端に濃くなった。雲が通り過ぎたのか月の光が妙に明るく、街灯がないのにその場の様子がはっきり分かった。
女子学生だった。
確か、電車で二駅ほど行ったところにあるはずの私立の高等学校。その制服が赤黒く濡れている。
頭部はコンクリート塀に打ちつけられ、ひしゃげた骨と肉片が溝にこびりついて半ば一体と化している。砕けた頭蓋骨からはみ出した脳漿は、やや癖のある茶髪とぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
その傍に立っていたのはアオイだった。彼女はその死体に冷たい色の目線を向けているだ、そこからは何の感情も読み取れない。人を殺したことに対する罪悪感も、小説やドラマで見る猟奇殺人鬼のような悦びもない。蒼い色の無機質な瞳だけがそこにあった。
ぎょろりとその視線がこちらに向いた。血走った眼球に貫かれ、私は身震いした。
ゆら、と少女の姿がぶれる。いつの間にか彼女は目の前まで迫っていて、私のことをじぃっと見上げていた。
「ハルさん?」
驚いたように私の名前を呼ぶ彼女には、先程までの無機質さは宿っていなかった。
「……こんばんは、アオイさん」
「こんばんは。どうしたの?こんな夜更けに出歩いてたら、危ないよ」
「君よりも危ない人は、少ないと思いますが」
「あは、そんな濁さず言っちゃう?結構傷つくなぁ」
無邪気に微笑む彼女の頬は血でべっとりと汚れていた。月の明かりだけでは分かりにくいが、昼間は綺麗だったパーカーもおそらくは返り血と脳漿に染まっているのだろう。
視界の端に、彼女の右手が映った。指先は濡れており、時折その液体が音もなく滴り落ちている。
「人って、素手で殺せるものなんですか?」
「私にとっては簡単だけど。普通の人はできるのかな……」
首を傾げる姿は年相応の愛嬌があった。深夜、遺体のすぐ近くというシチュエーションでなければ、微笑ましい光景だったのかもしれない。
私に対して、アオイは何の殺意も抱いていないようだった。仮にも目撃者だというのに、口封じをする素振りもない。私のことなど簡単に殺せるからなのか、それとも、私が彼女を警察に突き出すことなどないと思っているからなのか。どちらにせよ、今の彼女は本当に無邪気な少女だった。
「……血が付いてますよ」
そっとハンカチを差し出した。彼女はそれをじっと見つめて、何かを考えるように目を閉じ、しばらくしてから、「ん」と血に濡れた頬をこちらに向けた。
まるで口を汚した赤ん坊のようで、思わず苦笑した。
「……何笑ってるの」
「あ、いや、すみません。少し、その……」
言いかけて、口を噤んだ。彼女は声を低くして「何?」と再度問うが、それでも正直に答えるのは憚られた。
慌てて弁解のための言葉を探す。けれど、上手く取り繕うことができずに、結局は思ったことをそのまま口に出すしかなかった。
「ちょっとだけ、可愛いと、思ってしまいまして」
きょとん、という擬態語がこれ以上なく似合っていた。
アオイはまばたきを繰り返して、それから「……そう」とだけ言って黙りこくってしまった。どうすればいいか分からなくて、とりあえず彼女の頬にハンカチをあてがった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
奇妙な空間だった。
人が死んでいて、殺人鬼は平然とした顔をしていて、私も、その状況をすんなりと受け入れていた。
真っ白なハンカチが赤く滲んでいく。反対に、アオイの頬から汚れが消えていく。終わる頃には妙な満足感があった。
「汚しちゃった」
「構いません。元々そのつもりで持ってきましたから」
「……あなた、気が狂ってるよ」
狂っている。
そう言われて、腑に落ちた。確かに私は狂っているのかもしれなかった。元々狂っているのか、それとも彼女に狂わされたのかは分からないが、どちらにせよ、おかしくなっていることには変わりがなかった。
「すみません」
「何?」
「もう少し、触れていてもいいですか」
「……本当に、狂ってるよ」
嫌だ、とは言われなかった。
ハンカチを仕舞い、そっとその頬に親指を滑らせた。果物のような瑞々しさがあった。ほんのりと温かさが指の腹を伝った。僅かに目を細める彼女が、とても愛おしく見えた。
どれくらいそうしていたかは分からなかったが、私も彼女も、何も話さなかった。
その光景を、遠くの月が静かに見守っていた。
来週はこちらではなく短編を1本書いて投稿するかもです。
ご容赦ください。