5話
短めです。
次週は投稿お休みかもしれません。まあ元々のんびり書く予定なので、のびのびお待ちください。
「何もないお部屋」
開口一番、アオイはそう言った。
物がない訳ではない。小さい部屋ながらインテリアは置いてあるし、それなりに趣味のものも多い。本棚はいっぱいだし、ベッドの上にもぬいぐるみが並んでいる。
でも、多分そういうことじゃないんだろうなと思った。そういう目で見て分かることじゃなくて、もっと別のところ。私の心の奥の方。それを彼女に見透かされた気がした。
「座って待っててください。飲み物を取ってきます」
誤魔化したくて、テーブルの傍の椅子を指差しながら言った。彼女は微妙な笑みを浮かべながら、「ご親切にどうも」とだけ言った。
冷蔵庫から麦茶を取って、コップに注ぐ。自分の分も用意してテーブルに持っていくと、アオイは私が指した椅子には座っていなかった。
「ねえ、このぬいぐるみって、名前あるの?」
私のベッドに寝そべって、彼女はいくつかのぬいぐるみを抱きすくめていた。熊と、犬と、イルカと、ペンギン。子どもの頃からの長い付き合いだったそれらが彼女と共にいるのは、何だか不思議だった。
ローテーブルのコースターにコップを載せる。クッションの上に腰を下ろすと、アオイは寝そべったまま私に尋ねた。
「どうなの?」
「昔はつけていた気がします。もう、覚えていませんが」
「ふーん」
記憶を探る。名前のことは全く思い出せなかったが、私には昔からネーミングセンスがなかったから、きっと安直に「くまさん」とか「いるかさん」みたいな名前で呼んでいたのだろう。
麦茶を口に含む。濃い苦味が口内を満たし、喉を潤していく。
不意に、彼女が思わずといった感じで言葉を漏らした。
「ぬいぐるみ、好きなんだ」
「……おかしい、ですか?」
「そんなことないけどさ。あんまりこういうの持ってないから」
アオイの視線は熊に向けられていた。小さな傷がいくつもついた黒い目は、静かに彼女のことを見つめ返していた。私にはいつも責めるような視線を向けるのに、今彼女に向けられている視線にはそういうものはないように思えた。ただじっと、何かを待つようにアオイを見ているだけだ。
沈黙が続いた。身じろぎと、呼吸と、喉の鳴る音が部屋に居座っていた。
「赤ん坊の頃、何かを抱いていないと中々寝付けなかったらしくて」
「へぇ。それが今も?」
「寝付けないという訳では。ただ、あった方が落ち着くのは確かです」
「そっか」
気恥ずかしくなって、視線をコップに落とす。濃い茶色に見飽きた顔が写っている。顔色はいつもと比べて落ち着いている。
我ながらおかしいとは思う。何度か出会っただけで、名前すら今日初めて聞いた相手だというのに、まるで昔からの友人のように、あるいは気の置けない家族のように、心がとても落ち着いていた。
「ハルさんはさ」
一瞬、呼吸が止まった。名前で呼ばれるのが久々だからということも勿論あるが、その声音が言い様のない冷たさを孕んでいたからだ。
アオイはこちらを見ていた。既にぬいぐるみはその手にはなく、ベッドの上に座らされていた。彼女はゆっくりと身体を起こして、私のことを見下ろした。
蒼い目からは感情は読み取れない。ただ綺麗だった。
「最近のニュースとか、見てる?」
「あまり興味はありませんが、見てはいます」
「なら、この近くで人が死んでるのとか、知ってるんだ」
「はい」
「あれ、わたしがやってるんだ」
あっけらかんと言いのけた彼女を見て私がまず抱いたのは「やっぱり」という感想だった。
ずっと気になっていた。次に会えたら聞こうと思っていて、いざこうして話すタイミングになっても一向に聞けずにいた。その答えを向こうから提示してくれたことに、答え合わせができた安心感を覚えた。
それが表情に出ていたのか、アオイは怪訝そうな顔をした。
「怖くないの?」
真っ直ぐにこちらを見据える眼球は、少しの嘘も許さないような独特な圧力があった。元よりそんなつもりはなかったけれど、それでも逃げ道が塞がれるような感じがした。
「わたし、人殺しなの」
「そうですね」
「今日は、まだ誰も殺してない」
「そうみたいですね」
「今日はあなたかもしれないよ?怖くないの?」
空気がすうっと冷えていく。
視線が冷たく、鋭くなる。それが重く私の身体を貫いて、根を張って、押さえつけてくる。右目がずきずきと痛んで、息が苦しくなる。これが殺気というものなのかもしれないと思った。
「死ぬのは、怖い、と思います」
正直な感想だった。嘘をつくなんてことは考えもしなかった。
死ぬのは怖い。当然だった。痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だ。死んだら私はどこへ行くのか。意識はどうなるのか。そういうことを考えて、思考がずっと空転してしまう。大抵は途中で考えるのを止めるが、それでもふとした時にその考えは鎌首をもたげる。
「でも、君は怖くありません」
「どうして?」
「それは……」
言葉に詰まる。
理由は探そうとすればいくらでも思いつく。でも、理由を明確にしたくなかった。アオイに対して抱いている感情を、一つに決めたくなかったのだと思う。
「なんとなく、落ち着くからだと、思います」
だから、そんな言葉で濁した。
私のその返答に何を思ったのか、アオイは「ふぅん」とだけ言って、ローテーブルの上のコップを手に取った。
「……このお茶、濃すぎない?」
「苦いお茶が好きなので」
「そっか」
冷たくなった空気はいつの間にか緩みを帯びていて、彼女の目にも鋭さは失くなっていた。
アオイは私が誤魔化したことに気づいていたはずだ。それでも追及することはなかった。
「……次は薄めのちょうだいね」
「用意しておきます」
彼女も、私といるこの空間を好んでいるのかもしれないと、そう思った。