3話
ふわふわとした雰囲気のまま、書き続けています。
今夜の月は翳りが多かった。
薄くたなびく雲が、欠けた月を覆っていた。普段なら鋭い銀の光が今はぼやけている。朧月夜と呼んでもいいような夜だった。
かたん、という金属音。ざり、と砂を踏んだ音。それが耳朶で混ざって少し気分が悪い。アパートの外階段は便利だが、金物と土砂が擦れる音は苦手だった。鼓膜を直になぞられているようだった。
アスファルトに足を踏み出した途端、階段の砂粒が靴底にまだ付いていることが分かった。何度か靴底を地面に擦り付けるが、取れる気配はない。足の裏に伝わってくる感触に異物が挟まっている。もしかすると気のせいかもしれないと思った。
私は妙なところで神経質なきらいがあった。ふと気になって手を入念に洗ったり、身体に虫が張りついている気がして何時間もシャワーを浴びたり。そういうことが幾度もあった。大抵は私の勘違いが原因で、そうした異物感は二、三日もすれば気にならなくなるのがほとんどだった。そうした私の神経質が、今晩は靴底に現れているようだった。
「すぅ……はぁ……」
一度深呼吸。
冷たい空気が肺を満たす。潮風だからか、少し塩気があるような気がした。
少し遠くに見えるはずの海は私が知っているどんなものよりも黒かった。海が遠い昔では恐怖の象徴であったことがよく分かる。その不気味さは私の恐怖心を刺激するが、同時に、私にある種の落ち着きをくれる。水面の揺らめきや不安定さを私は好んでいた。
「……せっかくだし、行ってみようかな」
緩やかな坂道を下っていく。踏み出す度に地面が反発し、足が痛んだ。
地面は相変わらず私に優しくない。もしかすると、私が地面のことを嫌っているから地面も私に嫌がらせをするのかもしれない。
名前占いか何かで見た「地面と相性が悪い」という言葉を、私は子どもの頃から信じていた。それくらい地面にいい思い出がなかったから。
子どもの怪我は大抵が遊びの最中に転んだことによる擦り傷だ。私も例外ではなかった。ただ、人よりも怪我の経験は多かった。傷口が砂まみれだったことも、口の中が土まみれだったこともあった。目に砂粒が入ることもしょっちゅうだった。
「相性が悪いのは地面とだけじゃないけど」
人との相性も、動物との相性も。
それどころか社会との相性さえ良くはない。
まだ若輩である私が言ったって含蓄の欠片もありゃしないけれど。あるいは現代の若者特有の諦めかもしれないけれど。
相性が悪い。
なんてシンプルでどうにもならない理由だろうか。
身体的な能力、思考のロジック、性格、嗜好、生育環境。歯車の全部がマイナスの方向に噛み合って、今も回っている。気づいた時には取り返しがつかないところまで来てしまっていた。
「仕方ない」
足元を確かめる。使い古したスニーカー。大学生の時に買ってからずっと使い古している時代遅れの一品。
私の写し鏡だった。
長く親しんだものを捨てることができない。新しいものに迎合できない。けれど、仕方ない。仕方ないんだ。
ここまで進んできてしまったのだから。
進めてしまったのだから。
破綻するまではどうにか進み続けるしかないのだ。
もしかすると私はもう破綻しているのかもしれないけれど、少なくともスニーカーはまだ履くことができる。だから、私もまだ大丈夫なのだと信じるしかない。
アスファルトに砂が混じっていた。靴底の異物感が増えていく。ざり、と耳障りな音に不快感を覚える。
足元から目を背け、顔を上げる。
海はもうすぐそこだった。
◇
夜の海はどんな絵の具よりも深い色をしている。朝焼けの白とも、真昼の青とも、夕焼けの橙とも違う。深く暗い海面はどんなものでも飲み込んでしまいそうだった。
子どもの頃に読んだ絵本を思い出した。細かなストーリーは覚えていないが、綺麗な絵を真っ黒なクレヨンで塗りつぶした後、そのクレヨンを削って夜空に打ち上がる花火の絵に変えた、という話。登場人物たちの会話は覚えていないが、その場面だけは鮮明に覚えている。
目の前の海は黒く塗りつぶされたキャンバスのようだった。雲間から僅かに射す月の光が、キャンバスに儚い白色を垂らしている。ゆらゆらと揺らめく海面は反射した月をぐちゃぐちゃにして掻き消そうとする。だが、どんなに細切れになっても月の光はそこに湛えられていた。
「……しょっぱい」
海を目の前にすると、潮風の香りが鼻を突き抜け、喉まで届くようだった。
目を閉じて、ただ息を吸う。水気を吸った風は酷くべたつく。気持ち悪さを覚え、すぐに体全体を丸洗いしてしまいたい気持ちに駆られた。つくづく自分が嫌になる。潔癖で神経質なきらいがあるのに、たいして綺麗な生き方をしていない自分自身が、本当に嫌いだった。
後ろに倒れ込む。想像よりも硬い感触が背中と後頭部を打った。細かい砂粒が肌に貼りつき、尖った石粒が腰に突き刺さった。
「何やってるんだろう」
自分でも私が何をしたいのかなんて分からなかった。
目を開けると真っ黒に染まった空が見える。星もいくつか見えるが、どれがどんな名前かなんて覚えていなかった。
暗い海に身を投げ出したかった。そのまま波に揺られて、どこかへ連れて行って欲しかった。海の藻屑になったって構わなかった。息を吐く音。息を吸う音。血管が脈打つ音。それらを潮騒にすべて押し流して欲しかった。
でもそんな勇気がないから、私は今砂の上で寝そべっている。
自分では行動を起こせず、誰かが私を変えてくれるのを待っているだけ。そんなだから、今でもこうしてだらだら生き続けているんだろう。
「……いっそ、本当に誰かが殺してくれれば」
楽なのに。
「あなた、死にたいの?」
視界が覆われた。
夜空の星が消え、濡れ羽のような黒髪がこぼれていた。月の代わりに私の目を釘付けにしたのは、一組の蒼い怜悧な眼球。あのやけに明るい夜に見た、少女の瞳だった。
「こんばんは。また会ったね」
冷たい声が降ってくる。雨に打たれているような気分だった。私の気持ち悪さをすべて洗い流してくれるような雨だった。
「こん、ばんは」
辛うじて絞り出した挨拶は、自分で思うよりもか細い声だった。同じことを思ったのか、少女は眉間に皺を寄せた。
「大丈夫?」
「……すみません。人と、あまり話さないもので」
「ふーん?変な人だねぇ」
どの口が、なんて言えなかった。確かに私は普通の人だとは言えないけれど、目の前の少女も普通の人とは言えないだろうに。
「こんなところで何してたの?」
「ぼうっと、してました」
「こんな夜に?」
「そっちこそ、こんな夜に何を……」
「前も言ったでしょ?」
前に言っていたこと。
人を、殺すこと。
「……今日は、誰を」
「残念だけど、今日もあなたじゃないよ」
よく見ると、彼女の頬に赤黒いものがこびりついていた。それが何かは想像がついた。今晩は、既に人を殺した後のようだった。
思わず手が伸びる。手の甲に貼りついた砂が降ってきて、右目がずきりと痛んだ。
親指でそっと、赤黒い汚れを拭った。綺麗に拭えるわけもなく、その綺麗な顔に線を一筋引いただけになったけれど、彼女は何も言わなかった。
「顔、ちゃんと洗った方がいいですよ」
「うん。そうする」
冷たい瞳が私を映している。
なんだかそれが、とても嬉しかった。