1話
また新作です。
辛気臭い作品なので、続くかどうか分かりません。
のんびりご覧ください。
お大事に、という声から逃げるように自動ドアを潜った。
喉に貼り付くような空気を吸い、思わず咳き込んだ。ペットボトルの中の水を、一口だけ含み喉を潤す。水分が喉に染み込んでいるはずなのに、すぐに乾いていってしまう。
空に浮かんでいる月がやけ明るい。濃紺の空で、金色のようにも銀色のようにも見えるその明るさは、私には眩しすぎる。
視線を地面に落とす。久しぶりに歩いたアスファルトが、踏みしめる力に反発している気がした。地面にいくつも針が生えていて、それらがちくちくと足を刺している気がした。
頬に触れた潮風は悪寒を感じさせるほど冷たい。右目に何かの粒が入り、ずきずきと痛んだ。
「………!」
角を曲がると、途端におぞましさが背筋を撫でた。何度も経験した感覚だ。すぐにマスクを着け、フードを被り、背筋を丸めて顔を伏せる。
すぐ近くで足音がした。真後ろだった。この硬質な足音は、もしかすると革靴かもしれない。複数人の話し声。時々上がる笑い声。その塊が、少しずつ近づいてくる。
学生という言葉が、私の頭をよぎる。手汗が滲んだ。
私は足を速める。前に抱えた鞄に自然と力が入る。ぎゅうっという音がした気がする。路地を曲がっても後ろの騒がしさは離れない。一体いつまで着いてくるんだという非難の言葉が頭に浮かぶが、私にはそんなことを言う勇気はなかった。
このまま何事なく進めば、流石に彼ら彼女らも散り散りになって行くだろう。そうなるまでの辛抱だ、と私は私自身に言い聞かせるが、全身の震えが、その思考を邪魔した。これ以上こんなプレッシャーを感じたくないという気持ちが、私の中を占めていた。
(振り向いて、すれ違えば、すぐに終わる………)
ふと、そんな考えが浮かぶ。あたかも道を間違えたという風に周りをキョロキョロして、回れ右をし、すれ違うように通り過ぎれば、この緊張感から解放されるはずだ。
けれど、もし、あの学生達が私のことを知っていたら。
肺が萎む。視界が霞む。動悸がしている。耳から聴こえる血液の流れる音が間近だ。どん、どん、どん、どん。うるさい。
意を決し、後ろを振り向く。制服が目に入る。ブレザーの左胸ポケットについているエンブレム。花のマーク。見たことがない。
小走りで学生の集団の脇を通り抜ける。視線が刺さる。ぐさり。痛い。痛い。
とっくに学生の集団をすり抜けたはずなのに、周囲からの視線が消えない。うざったい。つらい。体の震えが止まない。
苦しい。息が出来ない。お腹が痛い。吐きそう。頭が痛い。右目がずきずきしている。目が見えない。地面にたくさんの人の靴が見える。血の音以外何も聞こえない。たくさんの人の笑い声が聞こえる。マスク独特の匂いしかしない。赤い赤い錆の匂いがする。唾液の味がしない。鉄の味がする。冷たかった風を感じられない。ただ熱い。熱い。熱い。気持ちが悪い。汗が止まらない。体が震えっぱなし。なんで私がこんな目に。なんで。なんで。なんで。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ………」
マスクをずらし、息を吸う。
気づけば、周りに人は一人もいない。私はコンクリート塀に手をついて、その場でへたり込んだ。
ペットボトルの水を飲む。同時に、処方してもらった薬を二錠飲み込んだ。
動悸が収まらない。
心臓が痛い。
呼吸をする。
一回。
二回。
三回。
四回。
体の震えが少しずつ収まる。
目尻に浮かんでいた涙が、頬を流れていった。
目線が自然と上向く。
空が目に入る。
月だ。月がある。
雲の隙間から、金色に輝く月がこちらを見ている。
「……」
人が苦手だ。
人に関わるのが苦手だ。
特に学生は、もっと苦手だ。
集団と言う名の暴力を、未成年と言う盾を携えながら振りかざす。しかも、目に見える害はないものだから、誰もそれを咎めようとしない。
それに、被害妄想が多い。身の回りであった話を拡大解釈をして平気な顔で周りに触れ回る。
そうだ。その所為で私は、今も、こんな目に。
「………っ!」
フードを強く握り締める。瞼の裏に一瞬、赤が映り込む。震える喉で呼吸をすると、ひゅー、ひゅー、と隙間風のような音が洩れる。
汗がじわりと脇腹を濡らしていく。肋骨と心臓の間に、刺すような、それでいて鈍い痛みが走る。体が軋む。眼球の奥が熱を持つ。
しんどい。
私の中を占めるのはその言葉だけだった。
「誰か………」
そんな言葉を不意に溢しそうになる。その先の言葉が何なのか、自分でさえも分からない。その先を紡いでも何の意味もないのに。ここにいるのは私だけだ。
肌に這入り込むような風が、気持ち悪い。
「………?」
月明かりが遮られる。雲でも掛かったかと思って、視線を持ち上げる。すると、息が止まった。
月には何も掛かっていない。月光を翳らせていたのは、雲じゃない。
人だ。
音もなく、じっと、座り込んでいる私を、見下ろしている。
心臓が、その音が、とても近い。頭痛がする。ぴりぴりとした痛みが、ずっとある。喉の奥が、こきゅ、と音を立てる。声が出ない。指先の感覚がしない。肌がひりひりする。
目の前で、私を見下ろしている、二つの怜悧な視線。それと、ぴたりと目が合う。私の震えている視界は、不思議にもその怜悧な瞳に吸い寄せられていく。冷たい色の眼球は、すこし血走っていて、それでいてとても綺麗だった。
よく見てみると、その顔立ちは少女のように思えた。
「大丈夫?」
声は出なかった。
目の前の人物の口が開き、声が、冷たい声が聞こえた。感情が読み取れない、そんな声だった。聞いてるだけで自然と体が震えるような、軋むような、身動きが取れなくなるような、そんな声だった。
けれど、どうしてだろう。
「動けないの?」
私にはその声が、とても心地よいと感じた。
理由は分からなかった。だが、こちらを恐怖させるようなその声が、その視線が、私にはとても、綺麗な物に思えたのだ。
だから、震える喉から、声が出た。
「すみ、ません。暫く、すれば、治、るので。だから、放っておいて、もらえ、ますか」
ペットボトルの蓋を何とか開けて、ポケットから取り出した錠剤を飲み込む。口の端から水滴が溢れ落ちたのを感じて、口元を袖で拭い、息を思い切り吸い込んで、吐いた。
けほ、けほ、と思わず咳き込む。喉の奥に錠剤が引っ掛かっているような幻覚がした。
「そっか」
冷たい眼球の人物はそれだけ言ったが、その場を離れる様子は見られない。ただ、向かい側のコンクリート塀を背後にして私を見下ろしている。
私も背中を塀に預けて、目の前の人物と目を合わせた。ぶつかった視線が、穏やかで冷たかった。
喉から直接漏れた吐息が、その空間を埋め尽くしていた。私一人分の呼吸がずっと耳に触れている。
「どうして、そこにいるんですか」
息が整ってから、声を絞り出した。目の前の人物は一切動く様子がなかった。瞬きだけが際立っていた。
「放っておいてくださいと、言いませんでしたか、私」
「だから、放っておいた」
ひんやりとした声が耳に滑り込む。言葉の意味は理解できる。確かに、私は放っておかれた。おかげで気分も落ち着いた。けれど、そういうことではなかった。
私が聞きたかったのは、どうして私を置いて去ることをしなかったのか、ということだ。
「そういうことが言いたいんじゃなくて………」
そう、困惑混じりに言葉を発しようとして、ようやく、目の前の人物の格好が目に入る。
パーカーのフードから綺麗な黒の髪がこぼれている。真っ白な肌が何かで汚れていた。綺麗な肌がもったいないと思った。パーカーのファスナーが中途半端に開いている。少し見えにくいが、パーカーにも何かの汚れがこびりついていた。中にはよれよれのシャツを着ていた。最近の若者の好みなんて、私には分からなかった。
「ここ、お気に入りなんだ」
血走っている。
怜悧な眼球が綺麗だった。
蒼い。
「ここなら、人を殺しても、静かだから」
人を殺す。
日常的に聞くことはない言葉だ。けれど、不思議と受け入れることができた。目の前の人物がそれを口にすることは自然だと思えた。
「人を、殺すんですか」
「うん」
「誰を殺すんですか」
思わずそう聞いた。気になった。目の前の綺麗な人が一体誰を殺すのか。
整った顔立ちが、微笑みで歪んだ。
「少なくとも、あなたじゃないよ」
右目の疼きが取れない。
染み込むような冷たさが私を支配していた。
やけに明るい夜だった。