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ナーバルは少し目を離した隙にすやすやと健やかな寝息を立てて寝てしまっていた。お皿洗いを済ませて戻ってきたら渡したタオルも服も全て床に落として寝ている姿を見て呆れてしまう。人には重箱の隅をつつくようにねちねちと小言を言うくせに自分はどうなんだと言い返してやりたい。
しかし、服を着る気力もないくらい疲れていたのかもしれないと思い直す。そう考えると、つい寝室から布団を持ってきてしまうのだから、もしかしたら自分は年少者に甘いのかもしれない。
ひとまず彼のことは起こさず寝かせておいた。今日は子守の仕事もなかったので洗濯物を干して、普段手が回らない細々としたところを掃除する。キッチンの壁の頑固な汚れと格闘しているとあっという間に時間は過ぎていった。
夕方近くになってからナーバルが起き上がってきて、2人で買い出しに出かける。この時間帯になると売れ残りが格安で売られているので狙い目だ。特に野菜や足の早い魚がタダ同然で叩き売りされている。
普通なら買ったその日に食べ切らないとすぐに腐ってしまうようなものでも、こちらにはナーバルがいる。彼が魔法で作った解けない氷の箱に入れれば長期保管ができる。なんて便利なんだ、魔法。私も使えたらどれだけ良かっただろう。しかし試してみる勇気はまだ持てなかった。
魔法というのは扱いが複雑で繊細だ。使い方を誤ると暴発して大怪我にも繋がりかねない。危ない橋は渡らぬのが吉である。
いつものように好物らしい林檎を品定めするナーバルに、トリスにも食べ物を持っていきたいとねだれば、不審がられながらも色々買い足してくれた。ふふふ、これからトリスに再会して驚くがいいわ。あなたの思い描く優雅な令嬢の暮らしなんて幻想よ。
「よっと」
唐突に彼が何かを投げる動作をしたので、反射的に身を縮めてしまう。投げた先で子どもが一人転んだ。それを特に慌てることなく街の人たちは避けていく。その光景に驚きながら、真っ直ぐに転んだ少女のところへ歩いていったナーバルを追いかけた。
助け起こしてあげるのかと思いきや、少女の髪を掴んで引きずっていく。あまりの乱暴さに制止する間もなかった。
様子がおかしいナーバルのことも、彼が暴力をふるっているところを見るのも嫌だった。気付いたら呼吸ができなり、その場に膝をついてしまう。
暴力は嫌いだ。昔から大嫌いだ。ミンネにされていたことを思い出して、無力で惨めな自分を思い出す。体が固まって動けなくなってしまう。
息が苦しい。ハッ、ハッという浅い息をしていると、こちらの異変に気付いたナーバルが手を止めてすぐさま駆け寄ってきて肩を抱く。
吸って、吐いて。それだけの簡単なことなのに、できるようになるまでに長い時間がかかった。少なくとも過呼吸になっているイジーへの対応のほうが正体不明の少女より彼にとっては優先度が高かったらしい。この間に逃げてくれればと思った。しかし彼女はじっとこちらを見つめるばかりで微動だにしなかった。それどころか、背中を擦ろうとしてくれる。
「触るな!」
ナーバルが怒鳴るので、そっと宥めるようにその腕に触れる。すると彼は不満そうにしていたが、再び擦るために伸びてきた手を叩き落とすことはしなかった。
息が整ってきたところで、存外近くにあった少女の顔を見つめた。「あなた、魔族なのね」
縦長の瞳孔と尖った耳は魔族の特徴だ。髪の毛も総じて赤いことが魔族の見分け方だ。その長い髪のせいで勘違いしていたが、おそらくこの子は男の子だろう。汚れているので赤茶のようにも見える。
だから誰も彼を助けようとはしなかったのねと得心がいく。魔族は厄災しかもたらさないからだ。そう古くから信じられている。現に瘴気というものを振りまいていて、それは人間には有害らしい。言葉を解す者が少ないことも迫害されている理由の一つだ。しかし少なくとも彼は先程のナーバルの言葉を理解したような素振りをした。魔族は冷血で無慈悲、心を持っていないと言われてきているが、今もなお心配そうに見つめてきているようにイジーには思えてならない。
相手にも敵意がないと分かると、書物でしか見たことがない魔族という生き物に俄然興味が沸いてくる。身を乗り出そうとしたところ、首根っこを掴まれて過保護なナーバルの後ろへと投げられてしまった。扱いが雑過ぎる。
「お願いだから、その子に酷いことしないで」
「それは聞けないお願いだな」
そう言ってダガーを手に持つので慌ててその腕に抱きつく。
「やめてったら!」
どうしてこう頑ななのだろう。頑固だわ、頑固ジジイと喚いていると、これまでに聞いたことがないくらい特大の舌打ちをされた。
魔族の危険性を知らないわけではない。でもこんな子どもに手をかけるなんて駄目だ。ぎゅっと抱きついたままでいると、先に折れたのはナーバルのほうだった。
「わかった。わかったよ。降参。どっかのバカがうるさいから見逃してやるよ。ほら、はやく自分の巣に帰れ」
「………」
少年は大きな瞳でこちらを見つめるばかりで動こうとしない。
「おい、おまえ。オレの言ってること分かってるか?」
「……イタイ?」
「は?」
「イタイ? アシ、イタイ?」
イジーの膝を指さすので見ると、擦りむいて血が滲んでいた。過呼吸になって倒れ込んだときにできた傷かもしれない。自分でも気付いてなかった。もしかしてこれを心配してくれたのだろうか。
「痛くないわ。ありがとう。ね、ナーバル。この子、良い子なのよ」
「おまえのその『良い子』で簡単に人を判断しようとする癖どうにかならない?」
「ヨカッタネ」
にっこりと笑って、素早く壁を這うように移動してしまう。見上げたときには既に少年は屋根の上にいた。
「バイバイ、イジー。マタ、アエテヨカッタ」
手を振る仕草が可愛らしかった。人の手にあたる部分は羽になっているようで、羽ばたいて飛んでいってしまう。壁を走るときはトカゲのようで、飛んでいく様は鳥のような子だった。
また会えて良かったというのは、どういう意味だったのだろう。話すのが得意ではないようだったから、言い間違いだろうか。
不思議だわと彼の消えた後も空を眺めていると、不貞腐れたような言い方でナーバルに呼ばれる。
「次はないからな」
「魔族退治もあなたの仕事なの?」
「……そうだよ」
それはおかしな話だ。どんどん先を行ってしまう彼の背中を追いかけながらも思い出そうとする。魔族退治は一領民の仕事でも責務でもない。領民が魔族に手出しすることは基本的には禁止されている。もし出会ってしまった場合には速やかに逃げるようにというのが、この領地の法で決められている。
ナーバルは仕事だと言っていたが、誰から依頼を受けているのだろう。わざわざ退治しようとしたということは、そこにお金を出す誰かがいるということだ。
依頼人としては領主以外に考えられないが、魔族退治に帝都の騎士や領主の私兵たちの手が回らないということもないだろう。現にイジーたちが路地から出た後すぐに様子を見に警ら隊が来ていた。あの見て見ぬ振りをした民衆の中の誰かが通報したということだ。警ら隊で一次対応をして、そこで援助が必要な場合には騎士や私兵団に連絡がいく。そういう手順になっている。
魔族の臓器を他国と売買している輩がいると貴族議会で問題になっていたが、それとは関係があるだろうか。売るにしても瘴気をどうにかしないと取り扱う商人も購入者も長期保管する場合には体を蝕まれて苦しんで死ぬだけだ、つまり利点がないと、瘴気について研究しているどこかの研究所の天才とやらが専門家として話していたのを聞いたことがある。彼の名前は何だったか。どういったタイトルの論文だったか。思い出せないことがもどかしい。
「一旦、買ったものを家に置いてから、トリスタンに会いに行こう」
先程のことがなかったかのように嬉しそうに彼は言う。少し不気味だ。「ああ、肉が好きだから、それも買っていってやろう」
「ナーバルって本当にトリスが好きなのね」
「一緒に育ってきたようなもんだからな。アイツのことトリスって呼んでるのか?」
「そうよ。トリスは私のことをイズって呼ぶわ。トリスタンの体に入ってるイジーがイズ、イジーの体に入ってるトリスタンがトリスなの」
「呼び方追加して更にややこしくなってないか? まぁいいよ。オレもそう呼ぶことにするから」
トリスタンの体にトリスタンが入ってたらトリスタンで、イジーの体にイジーが入ってたらイジーってことか……?と呟いている。すっかり混乱しているようだ。
「どうせこれ考えたのトリスだろ。問題を難しく捉えすぎるのがアイツの悪いところだ。頭でごちゃごちゃ考えるから初手で出遅れるんだ」
意外とトリスは頭でっかちなタイプらしい。以前ナーバルが魔法を叩き込んでいる最中、難しく考え過ぎて魔力の制御が不安定になったことがあるらしい。だから過剰に魔力を消費させる魔法を使うのは禁止と約束させたとのこと。難易度が高い魔法ほど、使用者は脳のリソースを取られるからだとナーバルは言う。そのため、制御魔法もかけられていると聞いて驚く。彼の魔力は想像していたよりも遥かに多いらしい。学生時代の魔法学の実践では特に目立った活躍はしていなかったのは制御魔法がその歳になってもまだ動作していたからだろうか。
「でも、寝てたら魔法で勝手に怪我が治っちゃうわ」
魔法で制限されているなら、そんなこと起こらないはずだろうとイズは言う。
「あれは魔法というより、普段ほぼ全く使わないせいで過多にあふれた魔力が軽く暴走しているだけ。その程度じゃ制御魔法は検知しないようになってる。寝てるだけで回復できるなんて便利だしな」
「その魔法をかけた人はすごいのね。そんな精密に魔法を扱える人なんて滅多にいないわ」
「まーな」
制御魔法は難しいはずだ。どの条件を許容して、どの条件の場合には拒絶するようにするのかを指定して正確にイメージしなくてはならない。魔方陣で固定して、展開する際にも細心の注意を払わなければならない。簡単な魔法に比べて魔方陣の組み立ても複雑になっていて、相反するような項目があればすぐさま動かなくなってしまうに違いない。
「何だ、詳しいじゃないか。元の体じゃ魔法は使えなかったって言ってなかったか?」
「でも好きだったの。素敵じゃない。誰もが使えるわけじゃないし、ロジックがしっかりとあってほんの些細なミスで動かなくなってしまうところが好きなのよ」
「変わってるなぁ。魔法で作られる綺麗なモノは好きだけど、いざ自分でやってみるとそういう癖があるところが苦手とかよく言われるのにな」
「所詮は魔力なしのないものねだりよ。ひがんでるのよ、魔法を使える人たちのことを」
「ふーん。そうは聞こえなかったけど」
取り留めのない話をしているうちに家に着いてしまう。ふとしたときにナーバルは見透かすようなことを言うから困る。
素早く荷物をまとめ直し、林檎を渡される。これだけ手で持っていけということだろうか。首を傾げても特に答えをくれるわけでもない。しかし、なんとなくこれは彼が自分のためにくれたものなのだと分かった。
励まし方がヘタクソ過ぎる。それに落ち込んだ時には一も二もなく林檎らしい。これでも食べて元気を出せということだろう。
「私、そんなに悲壮感出てたかしら」
貴族なのに魔法が使えないということは、死活問題なのだ。だから、イジーの居場所はあの家にはなかった。貴族を貴族たらしめる条件は魔法が使えることだ。もちろんイジーのように魔力を持たない者もいる。しかしそういった場合、跡継ぎにはまず指名されない。女だったから許された。どこかの家門に嫁ぐことができれば良し。それでなければ使用人同様に扱われる。だが、衣食住に困らないだけマシだと思っていた。男であったなら生まれたことすらなかったことにされたかもしれない。