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 トリスタンになってから数日が過ぎた。

 イジーはその日、かねてから考えていた計画を実行に移そうとしていた。

 深夜、ナーバルは毎晩どこかへ出かけているようで、イジーを寝かしつけた後こっそり屋敷を抜け出していることは調査済みだった。どこに行っているのだろうという疑問はあったが、男性の秘密、特に夜の秘め事に関しては首を突っ込むべきではないという以前侍女から言い聞かされた言葉を思い出して追及はしていない。誰にだって人に言いたくないことの一つや二つあるものだ。寛大な心を持つべきであるというのも、その侍女から教えてもらった。

「いいですか、お嬢様。男性はお嬢様が思っている以上に繊細な心を持っているのです。どんなに屈強な騎士だろうが、どんなに気障な王子様だろうが、自由気ままに見える吟遊詩人だろうが、女性に突かれたくない話題を彼らはたくさん隠し持っているのですよ」と彼女は言っていた。なかなか癖のある人物で、よくそんな入れ知恵をしては他の侍従に窘められていた。

 ああ、早く会いたいわと、頭が切れて、何でも器用にこなす大好きな彼女のことを思い出していた。彼女は友人の少なかったイジーと気軽に口を聞ける貴重な存在だった。今彼女はどうしているだろうか。

 10歳当時、その侍女はまだイジー付きではなく、母親に付いていたうちの一人だった。今からヴォルフハート家、つまりはイジーの実家に忍び込もうと計画しているわけだが、運良く会えないかしらと淡い期待をしていた。

 単純に考えれば、イジーの体にはトリスタンの人格が入っているはずだ。

 自分の体に入っているであろう彼の側からのアクションが何もないのであれば、自分から出向くしかない。そう考えての深夜の侵入計画だった。

 朝までに帰ればナーバルはイジーが外出したことには気付かないだろう。彼はいつも日が上がった後に帰宅する。

 夕食を何食わぬ顔でナーバルと共に取り、寝る前に歯を磨けだの子守歌はいるかだの冗談交じりに言ってくるのを適当に流す。その後も寝る前に便所に行っておけと今度は真面目な顔で言ってくるので、さすがに夜中にお手洗いに行けないほど子どもじゃないと反論した。

「どうだか……。大人ぶるのが子どもだからな。また夜中に漏らしただ何だと起こしてくるのだけはやめてくれよ」

 それは私じゃなくて元のトリスタンのほうだろう。私はそんなことしない。お漏らしなんて人生で一度もしたことがない。嘘じゃない。

 イジーの猛抗議を聞き流すように「はいはい、おやすみ」と言う声に「本当なんだから!」と念押ししてベッドに入った。全くもって勘弁してほしい。トリスタン本人への文句がまた一つ増えてしまった。

 内心怒りながらもベッドに横たわり、ナーバルが自室へと向かう足音を聞く。しばらくしてから再びドアが開く音が聞こえて、階段を下る足音が遠ざかっていくのを確認した。今日も無事、彼は夜遊びへと繰り出したらしい。10歳の子が夜遊びなんてとんでもないという年長者としての意見はあるが、彼の素行不良はイジーにとっては好都合だった。

 こそこそと外套を羽織り、昼間のうちに隠しておいた靴を履く。窓から外に出て、フゥと息を吐いた。緊張した。夜中に出歩くなんて初めての経験だ。

 露を含んだ雑草を踏みしめて、公爵邸を目指した。子どもの足で半刻足らずの距離にある。

 街まで到着し、石畳の上をなるべく足音を立てないように歩いた。

 幼いときは敷地内にある離れで生活していた。父母は滅多に帰らず、話し相手もろくにいなかったせいで言葉を話すのも遅かった。

 舌っ足らずで鈍くさくて、思い出したくもない嫌な記憶しかない。

 目的地に近付くごとに足が止まってしまいそうになる。どこからか時折大きな笑い声や瓶の割れるような音が響いてきて、その度にイジーの心臓は早鐘を打つ。この辺りは治安が悪いとナーバルが言っていたことを今更思い出した。

 変な人に出くわしませんようにと願った甲斐があったのか、幸いにも公爵家の敷地内に忍び込むまで順調に来ることができた。

 花々が咲き乱れる庭園をすり抜けて、離れのそばまで来る。

 今住んでいる廃墟ほどではないが、古めかしく手入れのされていない場所だった。広さは同じくらい。でも、貴族の令嬢が住むんでいるとはとても思えない。

 一か所だけ、明かりのついている窓まで近づき、中の様子を覗き見て、思わず息を呑む。

 小柄な少女が床に倒れ伏していた。少女の着ているドレスには見覚えがある。やたら豪奢で重くて、首元に当たる宝石の角が痛かったのを我慢していた。そんな記憶が蘇る。

 間違いなくあの少女は幼い頃のイジーだ。

 食い入るように見つめていると、間もなく少女の目の前に立っていたメイドがイジーの体を蹴飛ばす。容赦のない暴力はしばらく続き、その間小さなイジーも、それを外から見ていたイジーもピクリとも動かなかった。

 やがてメイドがイジーに対して吐き捨てるように怒鳴り、部屋を出て行った。

「……あー、いってー。やり過ぎなんだよクソババア」

 小さなイジーがようやく起き上がってきたと思ったら、とんでもなく口が悪い子になっていた。というか、アレの中身は何だ。誰なんだ。

 ゾッとするような光景に呼吸が浅くなっていく。

 まさかトリスタンとは別の人格が自分の体に入っているのだろうか。

 イジーの知っている彼はあのような言葉遣いはしなかった。あくまでも騎士らしく、無口ではあったが丁寧に話す人だった。

 私の中に一体誰が入っているのか。思わず前のめりになってしまい、窓枠を掴んで軋むような音を立ててしまう。

「誰だ?」

 警戒するような声に、イジーは観念して姿を見せた。ぎょっとしたような顔をして小さなイジーが固まる。しかしそれも一瞬のことだった。すぐに小さなイジーが近寄ってきて、胸倉を掴んでくる。

「イジー! イジー・ヴォルフハート! おまえだな!? 俺の中に入ってやがるのは! ったく、最悪の予想が当たっちまった!」

 見上げてくる凶悪な顔に震えあがりつつ、「トリスタン……?」と呟けば「何だよ!」と返事が返ってくる。

 最悪の予想が当たってしまったというのは、こちらのセリフだ。こんなひどいことがあるのか。額に青筋を立てて怒る自分の顔があまりに恐ろしくてつい涙がこぼれ出てしまった。

 トリスタン・レーヴェンシュタイン。一部の女生徒の間ではあの落ち着いたかんじが良いと人気だった彼がこんな大きな声を出せるなんて知りたくなかった。

 さめざめと泣き始めたイジーを無理矢理室内へと引きずり込んだ本物のトリスタンは冷めた目つきで眺めていた。

「泣くなよ、お姫様。何で俺は俺が泣いてるのを見なきゃいけないんだ」

「うう……そんなこと言うなら見なきゃいいじゃない。泣いているレディーがいたら紳士は見て見ぬフリするのがマナーよ」

「そうしたらおまえら女はそれはそれで気遣いやら心遣いがないとか言って騒ぎ立てるんだろう」

「一体誰の話をしてるのよ。私はそんなことしないわ」

「いいや、するね。イジー・ヴォルフハート、おまえはそういう女だ」

「今はあなたがイジーよ!」

 不毛なやり取りを続けて先に諦めたのは意外にもトリスタンのほうだった。クッソくだらねぇと言いつつ、ベッドの端に座る。イジーにも隣に来るように促すが、こんな汚い言葉を使う人の隣に行きたくない。全力で嫌がっていると心底面倒くさそうに手を引っ張って座らされた。

「いったん落ち着こうぜ、イジー・ヴォルフハート。いや、今は俺もイジーだからややこしいな。俺になってるおまえのことイズって呼ぶことにする。おまえは俺をトリスって呼べ」

「勝手に決めないで。愛称で呼び合ってたら私たちまるでお友だちみたいじゃない。そんなの嫌よ」

「それにしても何でこんなことになってるんだ? 意味が分からない」

 イジー、目の前の彼が言うところのイズの抗議を無視してトリスは話を続けてしまう。「それにあのクソババアは何なんだ。おまえ、公爵家の人間だろう? あいつ毎日俺を殴るぞ」

 彼の言うババアとは先程のメイドのことだろう。抗議の意味を込めて下を向いて答えないでいると顎を掴まれて強制的に目を合わせられる。

「あのババアは誰だって聞いてんだよ」

「ミンネよ。彼女がメイド長で、実質この屋敷を牛耳ってる」

「で? 何でそんな格下がまかり間違っても貴族令嬢に手を出せるんだ?」

「わ、私がお父様とお母様に愛されてないから。怪我していても興味も持たれないし、帰宅も稀だから放置されているの」

 言いながら、また涙が出そうになってしまう。それを乱暴に親指で拭われる。

「抵抗しろよ。何も考えてないのか? おまえはミンネとかいうババアに命令して膝をつかせることができる立場なんだぞ」

「でも、だって、当時は怖かったの。考えてもみてよ。私はまだ子どもだったの。大人の力になんか勝てない。誰も味方してくれないんだから我慢するしかなかった。それにさっきのあなただってやられるがままだったじゃない」

「俺は反撃の機会を窺ってただけ。おまえとは違う」

 ここで言い返したらまた無駄な言い合いになってしまうだろう。イズは息を吐いて自分の心を落ち着かせた。

 先程は久方ぶりにミンネの姿を見たこともあって動揺してしまったけれど、大丈夫。だって数年後に彼女は元婚約者の采配で解雇されるのだから。あのときの婚約者(マルクス)は素敵だった。彼が私を助けてくれたから、ずっとずっとそばにいて恩返しがしたかった。

 イズは急にズキズキと痛み始めた頭を抱える。

 ――何だっけ。何か忘れている気がする。

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