1
気がつくと、私は“そこ”に立っていた。周囲には薄灰色以外何も見えない。壁や床とは違う、何かだ。私の足元にも、目の前にも、横にも、後ろにも、上にも、ただ薄灰色だけがある。
私はとりあえず、歩いてみる。歩く、その動作をすると人は普通前に進む。私も前に進んだはずだった。しかし、周りは何も変わらない。模様のない、色の着脱も一切ない、ただ薄灰色のものだけが私を囲っている。
ああ、そうか。私は唐突に、自分の置かれている状況を理解した。
これは“夢”の中だ。
試しに、頬をつねってみる。痛みはない。手を撫でてみる。何も感覚はない。やはり、夢の中で間違いはないようだった。
このような体験をするのは初めてだ。しかし、私には戸惑いなどない。不平不満もない。むしろ、日頃感じるストレスが何もない、素晴らしい空間だった。
“夢の中なら、なんでもできる?”
私はふと、そう思った。そうなってくれると、確信した。とりあえず、ペンギンを出すことにした。仕事に忙殺される中で、ペンギンの動画を見ることは数少ない癒しだった。しかし、最近の私は見るだけでは満足できていない。“実際に触れあってみたい”動画を見るたびに、そう思う。水族館に行けば、場所によっては不可能ではないだろう。しかし、私にそのような時間があるわけもなかった。
ペンギンが出てきた。とてもかわいい。かわいい。クリっとした目、意外としっかりとした足、羽ばたくことはできないような羽。よちよちと歩く。かわいい。私の方によってきた。私はペンギンを抱き上げてみた。もちろん、重さを感じるわけがない。これは夢だから。目が合っている。かわいい。抱き寄せてみる。
よし、他にも色々出してみよう!
私は調子に乗った。そのまま、ペンギンを10羽くらい出してみる。みんな、とてもかわいい。パンダも出してみた。猫。犬。リス。ウサギ。ハムスター。イルカ。ラッコ。コアラ。
薄灰色の空間は、私の楽園へと変わった。
“ずっとこのままだったらいいのに”
私がそう思った、次の瞬間だった。
可愛い動物たちは、一瞬にして私の嫌いな人々へと変貌を遂げた。
ねちっこく質問してくる、取引先の人。変な目線で私を見てくる部長。どんなに努力して資料を作っても、ほぼ見ることはなく断りを入れてくる、取引先の人。すれ違うたびに何故か舌打ちをしてくる近所の人。小学校の頃のいじめっ子達。
私は悲鳴を上げた。それと同時に、違う音が耳に届く。アラームだ。私は飛び起きた。汗だくだった。嫌な汗だ。
“そんな時は、獏さんに食べてもらうんだよ。獏さんは、みんなの悪い夢を食べてくれるの。もちろん、あなたのもね”
私の頭の中に、ふと声が蘇ってきた。それは、私が小さい頃、悪夢で目覚めて泣いていた時に母がかけてくれた言葉だった。それからというもの、私が悪夢を見た時、獏に食べてもらうようにお願いするのは当たり前のことだった。とはいえ、流石に小学校の高学年ともなるとそんな習慣は少し恥ずかしくなり、私はお願いするのをやめた。そして、悪夢もあまり見なくなった。
私は、久々に夢を獏に食べてもらうことにした。
“獏さん獏さん…私の夢を食べてください”
私は願う。
“よかろう”
頭の中に、声が響いてきた。頭から、スーと、夢の内容が消えていく感覚がした。やがて、全く思い出せなくなった。
「ありがとうございます!」
思わず、私は感謝を口に出していた。
“ほっほっほ。よいのじゃ、よいのじゃ。また悪夢を見たら願うのじゃぞ”
そんな言葉が聞こえる。
私はぺこりと頭を下げた。
とりあえずシャワーを浴びて汗を洗い流し、支度をし、朝食を食べ、私は仕事へと向かう。いつもなら憂鬱でたまらないが、今日は何故かすっきりとした感じだった。
その日、地面の色は薄灰色だった。どこまでも、薄灰色だった。濃淡も一切なかった。しかし、私は気にも留めなかった。
それが、当たり前だと思ったから。