3話 負の根源
明久の自宅がある斐知町から目的地の関東支部までは、有栖の足で二時間ほどかかった。
表向きは地域活性化を事業に掲げるベンチャー企業のオフィス。しかしその実態は負の感情を動力源とする〈負力〉を引き金に覚醒した者たちを集め、世界にはびこる悪魔たちを駆逐する対魔武装組織〈シャディアン〉の北関東支部である。
スモークガラスに囲われた三階建のビル。その玄関を通ると、デザイン性を重視したニューノーマルなエントランスが出迎える。西洋を思わせるアイボリー色の大理石タイルが床に敷き詰められ、窓際には艶のある観葉植物が並べられている。入り口正面にはタッチパネル式の無人受付機。そして後方の壁には、木製の切り文字で〈UCS JAPAN〉と表向きの社名がでかでかと掲げられている。
玄関から見て正面に受付機、左右にエレベーターが設けられており、従業員は基本左のエレベーターを使う。例に漏れず有栖も左側を使い、階の選択ボタンを〝負力を見る目〟で見る。すると【1】【2】【3】と書かれたボタンの下に【B5】のボタンが出現。有栖は手先にわずかの負力を宿しそのボタンに触れた。
扉が閉じられると、有栖と明久を乗せた鉄の箱は一定の速度で地下深くへと潜っていく。
特有の浮遊感とともに箱が止まり扉が開くと、フォーマルなベストに身を包んだ細身の男が有栖を出迎えた。
「遅かったですね有栖さん」
鼻にかかった声でそう告げた細身の男――井部咲は咎めるように有栖の顔をキッと睨む。
「俺が探知苦手なの井部さんも知ってるでしょ」
「ええ、それでも半日程度で見つけてくると見込んでいたのですが……。それはこちらが有栖さんを過大評価しすぎていたのかもしれません」
口があまり達者ではない有栖にとって、井部の饒舌で棘のあるもの言いはかなりの苦手分野だ。実力は上、身長も有栖より頭一つ高い。そして何より支部の中で最も頭がキレるときた。有栖の足りない部分をすべて持つ井部に対し、彼の抵抗は眉をひそめて睨み返すぐらいしかできない。
「それに覚醒者〈呼称:立花明久〉は生きて捕縛が上からの命令でしたよね。見るにもう死にかけているじゃないですか」
「これやったのは俺じゃなく不破さんなんで。文句や責任はすべてあの人が負います」
ぞんざいな口調でストレスを発散させながら、有栖は上司にその経緯を報告した。
「はぁ……またあの人ですか。分かりました。有栖さんへの責任追及は以上とします」
まるで機械のように井部の表情が情感のないものに切り替わる。
「それでは彼を医務室に運んでください。意識が戻るにはある程度肉体の治療が必要です」
そして淡々と次の指示を出していた。
言われた通り有栖は肩に担いだまま少年を運び、医務室のベッドに横たわらせる。
遅れて部屋にやってきた井部が有栖を正面に見据えて口を開いた。
「以上で覚醒者捕縛の任を完了とします。有栖さんは別任があるまで休んでいてください」
「了解っす」
わずかな疲労感を見せながら、有栖は医務室を後にし同階にある自室へと戻っていった。
***
意識が混濁する中で、明久は懐かしい光景を目にしていた。
「お兄ちゃん! こっちこっち!」
妹の葵に手を引っ張られ、公園の端から端まで連れまわされる。
「これお兄ちゃんにあげるね!」
そう言って手渡された一輪の花は、裂かれた茎の口からぽつぽつと水滴を垂らしていた。
(――花も、人も、その命は簡単にへし折られる)
突如舞台の転換のように視界がぐるっと回る。現れたのは火の海。あの日の家だった。
「あいつが、俺の家を、燃やしたっ‼」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。そこにあるのは怒りと憎しみの感情だけだった。
「いつか、絶対、俺があいつを、殺してヤルッ‼」
燃え盛る火の中、ありったけの殺意が込められた叫び。明久の顔は不気味な白い仮面におおわれていた。
「――――――っ」
目を覚ますとそこは見知らぬ天井。身体が軋むように痛い。
明久はゆっくり息を吐きながら上半身を起き上がらせる。
「どこだ……ここ。俺は何して……」
寝起きでまだ上手く頭が回らないながらも、意識が消える前の記憶を探っていく。
「俺の家に誰か来て……一階に降りたら……」
鏡に映る自分の姿に目を疑った。そして夢の最後で見た幼き明久の顔。そこに浮かび上がった白色の仮面は、鏡で目にした自分の顔と全く同じだったと気づく。
「お目覚めですか」
部屋の入り口で壁にもたれかかりながら、井部が声をかけた。
「……あなたは」
「私はシャディアン北関東支部副局長の井部咲と申します。今後あなたの上司になるやもしれませんので、どうかお見知りおきを」
井部はそう言って恭しく頭を下げた。
「シャディアン? 上司? いったい何を言って……俺はどうしてここにいるんですか」
明久の困った声に、井部はやれやれと首を左右に振った。
「あれこれ聞きたくなるのもわかりますが、まずは私が名乗ったのですから、君も名乗るのが筋というものでしょう」
無意識的に息を止めてしまう明久。
「どうしたんです? 自分の名前も忘れてしまいましたか?」
対する井部の剣幕は初対面の相手だとかお構いなしに、ぐいぐいと詰め寄って来る。
「い、いえ……立花明久、です……」
「よろしい、立花くん。では君の質問にお答えしましょう。何でも聞いてくれて結構です」
毅然とした態度に変わった井部に、目を何度かぱちくりさせてから明久は口を開いた。
「えっと、じゃあここはどこですか?」
「ここは埼玉県所沢市内にある〈シャディアン北関東支部〉です」
ロボットのように抑揚のない声音が響く。
「……どうして僕はここ」
「君は負の感情に乗っ取られ、悪の暴徒と成り果てました。それを私の部下が収め、君をここに連行した、という経緯です」
やや食い気味にまくし立てられ気持ちが一歩下がる。
(なんか、とてもやりづらい……)
明久も有栖同様、話すことがあまり得意ではない。顔に火傷ができてからというもの、人と関わること自体に苦手意識を持つようになっていた。
「終わりですか? それでは次はこちらの番です」
パッと自分のターンを奪われるも、「チョット待った!」なんて制止することもできず、明久はそのまま相手のペースに流されていく。
「暴走時のことは覚えていますか?」
「……いえ、なにも。その、さっきから出てくる〝暴走〟って何なんですか」
「…………」
問われた井部は数刻黙ってから、足早に明久が座るベッドに歩み寄る。
無表情のまま迫りくる細身の男に、
(なんかマズいこと聞いたか⁉)
ベッドの上の少年がテンパりながらたじろいでいた。
スタスタと足音を立て、寝具の側面と井部の膝が接着するほど間近な距離で立ち止まる。
ベッドの上から見上げるその体躯は、服の上から分かるほど鍛えぬかれており、隙のない身のこなしも相まって思わず気圧されてしまう。
「君はいま、自分がどんな顔をしているかご存知ですか」
「――っ!」
井部の言葉で、見るもおぞましい異形の仮面が未だ外れていないのだと明久は悟った。
反射的に顔を布団の中にうずめる。
「何をいまさら隠しているのですか」
「だって、こんな自分でも恐ろしい顔を他の人が見たら! ……誰かが夢の中で、僕のことを化け物って呼んだんです。そうだ、僕はもう化け物に、なってしまった――っ!」
少年の悲嘆な叫びにも、井部は眉一つ動かさない。
「立花さん、顔をあげてください」
冷たく放たれた男の声は、慰めというより命令に近い含意があった。
恐る恐る顔を上げていくと、明久の視界に身の毛もよだつ白色の面相が映る。
「ひぃ⁉」
「あなたのものより醜いでしょう? でも私はとても気に入っているのです」
嬉しそうに仮面の口角が吊り上がる。井部の面相は顔のパーツがすべて逆位置にあった。額に口があり、口元に目がある。鼻腔は天を向き、顔が一八〇度回転してしまっている。
「我々の仮面は我々の深層心理を表しています。本当の私は〈逆さ〉なのですよ。天が地になるように、善が悪になるのです。平常時の私が善であればあるほど仮面に宿る本物の私は悪に堕ちていく」
その言葉を聞いて明久はいよいよ転がり落ち、ベッドを挟んで井部と相対する。
「そんな警戒しなくても大丈夫ですよ。私はその悪の力をコントロールする術を持っていますから。そうでなければこの〈シャディアン〉には所属できません」
平静に語るその様子からは確かに悪の道に堕ちたとは感じ取れない。総毛立つ恐ろしい仮面を除いて、井部の立ち振る舞いは理性のある人間だった。
「君はその仮面に宿る猛虎のような本心を制御できなかった。悪を制することができない人間は、ただのケダモノに成り果てます。それが私たちの言う〝暴走〟なのです」
バチリと明久の脳内で火花が散った。その一瞬インスタントカメラで撮ったような彩度の低い光景が目に浮かぶ。
――紅い眼を獰猛に光らせ、膨張させた両腕をふるう少年の姿。それが紛れもなく自分だと明久は直感した。
「少しだけ、思い出しました。確かにあの時、俺は怒りを抑えることができなかった」
「そうです。捕縛人の到着がもう少し遅れていたら、あなたを人殺しとして処理する必要がありました。まあそれには、捕縛人の鈍間な仕事ぶりにも責任があるのですが……」
語尾に少し含みを持たせつつ、井部は話題を切り替えた。
「こほん、話が逸れてしまいました。とかく我々はこのような〝仮面の能力に目覚めた人間〟たちの集まりです。そしてそういう〝目覚めた〟人間を感知し、仲間に引き入れるのが私たちの主とする仕事の一つ。――立花くん、君にはその仮面の力を制御する力を身につけてもらい、我々〈シャディアン〉の一員になってもらいます」
「もし、断ると言ったら?」
「また暴走し人殺しなどされては我々の立場に傷がつく。もし君が私たちを拒絶したなら、即刻その場で首を落としますよ」
声音はひどく真剣みを帯びていて、少しでも逃げる素振りを見せれば何かしらの手段で明久の首が宙に飛ぶ。そんな未来図を頭に描きながら、明久は背筋を伸ばし覚悟を決めた。
「分かりました。この仮面、この力を自分一人で制御できる自信はないので。仮面の力の使い方、教えてください」
深々と頭を下げる明久。そんな彼を見て、井部は仮面を外し満足気にうなずいた。
「潔いのは良いことです。礼儀礼節を重んずれば、自ずと行くべき道も見えるでしょう」
顔を上げ、ほっと胸をなでおろすと扉の奥から軽快な足音が聞こえてきた。
唐突に井部が深いため息をつく。
「はぁ…………面倒なのが帰ってきましたね」
井部の肩にガシッと腕をまわし、子どもをめでるような顔で不破が言葉を返す。
「またまた照れちゃって~。僕がいなくて寂しかったでしょ?」
また変な人が来たと、そのやり取りを眺めていた明久に数秒遅れで不破が気づく。
「あ、起きたんだ新入りくん。おはよ~」
緊張感のないお目覚めの挨拶とともに手を振る闖入者。
明久と目が合った一瞬だけ、不破は不敵に笑ってみせた。