第3話 一世一代の大博打
――こんな家業を続けていればこそ、一寸先は闇だ。
――君も闇を恐れた方がいい。今はまだ、わからないだろうけど……
アルトスはとぼとぼと街道を歩きながら、昔組んだサムライの言葉を思い出していた。『一寸』というのは彼ら東国の単位でほんの少し、指の先から第一関節くらいの長さと聞いた。
最初は意味が分からず脳に言葉だけが残っていたが、こんな事になって初めてその意味を知った。
色とりどりの魔力灯が、うなだれるアルトスの顔を様々な色に彩る。けれども彼の心は影を落としたまま。一寸先の闇が、彼を覆い尽くしていた。
「なんでだよ。僕は一生懸命頑張っていたじゃないか」
彼の「頑張った」は褒められるべきものだ。
騎士の生まれをおくびにも出さずに、ただただ冒険者としての生を歩んでいた。
最初こそ無知と経験の浅さから、分け前をピンハネされたり騙されたりした事もある。
今でも顔が幼いと馬鹿にされることもある。
冒険者よりも女を貢がせる方が向いているのでは、なんて侮辱も受けたこともよくあった。
それでもアルトスは懸命に冒険者として成り上がろうとした。
いつかその手で伝説の宝、神の霊薬『エリクサー』を探し求める、それだけに縋って全てを我慢していた。
――しかし今は。
全てを失った彼には、もう宝を追いかける力が残っていない。
「姉さん、今度こそ僕は……ダメかもしれない」
見上げる月にそう呟くアルトス。
同じ月を見ていれば言葉が届くかも――という詩人のようなフレーズも彼には思い浮かばない。
何故なら姉は、棺の中に目を閉じて眠っているからだ。死んではいないが、生きてはいない。ただただ、奉られている。本当は騎士ーーアルトスの家、カストゥス家を継ぐべき人だったのに。今は、俗に言う『聖女』として眠りについている。
「エリクサーを。神の薬を手に入れないといけないのに。立派な冒険者になれば手がかりを掴めると思って、一生懸命やってたのに。こんなのって」
彼が騎士の家柄を捨てて飛び出したのは、不遇な事故で――家には誉と喜ばれたが――魂を抜き取られた姉のためだ。しかもその不幸はアルトスの目の前で起きた。今も彼にはその情景がありありと浮かんでくる。
気がつくと、アルトスは街出て小高い丘まで歩いていた。月の光に導かれるまま歩いたその場所は、『竜の口』の街を一望できる。
「…………」
背負った剣を置いて、その場に座る。
ギドの言葉を思い出してカッなって。
そしてパメラが目を合わせてくれなかったことを思い出して――気持ちが沈む。
初めて尊敬できると思ったリーダーのエリックは、思ったよりも冷徹だった。十中八九、彼はギドとの喧嘩を上手に利用して追放の口実にしていた。自分の手をなるべく汚さないようにするそのやり方、今考えれば思い当たる節がいくつもある。
ヴィヴィについてはよくわからない。ダークエルフの雇われ斥候。傭兵のようにパーティーを転々としている凄腕。あの視線は嘲りなのか、それとも無関心なのかはわからない。
アルトスが膝を抱えて俯く。ここには誰もいないのに――みんなに笑われているような、そんな気がする。
「う、うぅ……姉さん、姉さん……」
ボロボロと涙が溢れてくる。悔しくてたまらない。あれだけ信仰していた女神に、今は憎悪を向けてしまう。込み上げてくる感情が我慢できず、アルトスはついに大声を上げて泣いてしまった。
声が枯れるほどに叫んで、泣いて。
腹の中の黒いものを全部吐き出して。
やがて疲れ切ったアルトスはぺたりと地面に座り込む。
徐々に風の音、風に揺れる草木の音が聞こえてくる。視界もクリアになって、見上げた空が満天の星空だったことに今更気づく。一寸先の闇の中に囚われていた少年の視界に、ようやく世界の色というものが戻り始める。
からっぽになったアルトスに、ふと蘇るのはあの喧嘩のシーン。ギドの罵声や挑発はどうでも良いとして、疑問として浮かび上がるのはやはりあの炎だ。
「あの時……なんで僕の手が燃えたんだ?」
両手を顔に近づけて、まじまじと覗き込む。当然のことながら今は燃えていない。体温も普通。むしろ夜風に吹かれて冷たいくらいだ。
誓って魔法を使っていないと言える。アルトスも基本的な炎呪文を使えるが、あそこまで高熱の炎を生み出すことはできない。ましてやドワーフ印の鎧を溶解させるなど魔術師でも難しい。
だがあの炎の威力は今まで見た中で別格、いや破格の攻撃力だった。
もしアレを再現できたなら今一度冒険者として再起できるのではないだろうか?
どうせ剣は振るえない。女神の祝福は絶対だ。ねじ曲げた人間は皆無なのだから。ならばとっとと切り替えて、自分ができる最大限の事をする。それが魔剣士よりも強いものなら僥倖だ。
「そうだ。僕はまだ何か出来る。どん詰まりなんて死ぬ時まで無いはずなんだ」
カラだった心に希望が注ぎ込まれる。涙を拭いてパンパンと頬を叩き、アルトスはいつものように気合を入れた。
「グーにしたら燃える? いや、そんなことないな」
手を握ってみるも全く変わらない。シュッシュと虚空を殴りつけても、ウンともスンとも言わなかった。
「何か……あ、アレがいいかも」
剣を拾い上げて向かったのは近くにあった岩。一七〇センチに満たないアルトスより一回り大きい。モンスターの引っ掻き傷もなければ、遺跡のような彫り物も無い。至って普通な岩だった。
「確か、こう。殴った時に……」
剣を岩に立てかけて、準備運動。その間に、アルトスは喧嘩の時を思い出す。アレはスウェーで避けて、体のバネを使って放ったのは脇へと向かうフックだった。
入念に体を動かしてから、あの時のおぼろげな挙動をゆっくり再現してみる。しかし燃えることはなかった。
「や、やってみる? う、うーん」
もしかしたら、全力で殴れば発動するのかもしれない。アルトスは息を整えると、岩に思いっきりパンチを放ってみた。
ガキィィィィン、と岩と小手がぶつかる音がする。次には「痛っっっったぁああああああ!」という悲鳴が轟いた。ムキーッと怒って蹴飛ばすアルトス。そのままげしげしと物言わぬ岩に怒りをぶつけてみたが、すぐに虚しくなってその場にへたり込んでしまった。
「ああ、やっぱりダメか」
左手首に右の人差し指を伸ばして叩こうとしたが、止めた。浮かび上がる『己の窓』にはどうせ、あの忌々しいスキルの名が金の文字で輝き、黒く塗りつぶされた場所が自分を嘲笑っているはずだ。
「……いっそのこと本当に恋愛酒屋で働こうかな。女の人の愚痴聞いて、酒飲んで。時々、ベッドで喜ばせてあげて――」
意外と向いているかも、と想像しかけてアルトスはブンブンと頭を振る。
「ダメだ。捨て鉢になっちゃダメ。諦めたらそこで終わりなんだ。相棒、僕を導いてくれよ。頼むよ」
立てかけていた剣を再び拾い上げ、鞘から抜く。炎剣ファイアブランドは幅広の長剣。刃渡り七〇センチの魔法剣にしては実直かつ実用的でとても頑丈。刀身には炎の精霊が宿っているためか太陽のようなオレンジ色。その腹に手のひらを当てるとほんのり温かみを感じる。
試しに膝立ちのまま大上段に構えて、振り下ろそうとする。が、やはり剣は空中でピタリと動かない。突いてみようものなら、剣が進まない。思いっきり力を入れても、びくともしない。
「本当にダメなんだな……」
ガッカリと肩を落とすアルトス。
もう帰ろうと、鞘に剣を納めて背負った――その時だった。
一瞬、アルトスの手足にチリリと熱が走った。
「!? やっぱり何かある――」
オォォォーン……
アルトスがギョッとして、思わず身構える。今のはどう聞いても狼の遠吠え。しかも、かなり近い。
「し、しまった。今のはダイアーウルフの鳴き声だ! こんなところにいるなんて!」
急いで街に戻ろうとするが、逃がさんとばかりに草木を掻き分けて走り迫る音がする。奥の木々から飛び出してきたのは、月光を跳ねて輝く狼の群れ。獰猛で名高いダイアーウルフだった。
美しい毛皮を持ちながら、普通の狼よりも二周りも大きなダイアーウルフ。初心者パーティーならまず全滅不可避の猛獣の群れは、どうやら泣き叫ぶアルトスの声に誘われたらしい。
「う、あ。か、囲まれた!」
既に目の前には何匹か回り込んでいた。彼をぐるっと取り囲むのは全部で八匹。その中でとりわけ大きく、目元に傷が入っているのがボスなのだろう。
「来るな! こ、こっちには剣があるんだぞ!」
背中の剣の柄に手をかけるも、アルトスはハッとする。彼は今剣を振るうことができないのだ。
「誰か! 誰かいないか! 助けてくれ!」
しかし、助けは来なかった。
夜の帳が降りて久しく、街にいる冒険者たちは夜の憩いに夢中だ。どんなにアルトスが叫んだとしても、喧騒にかき消されてしまう。
絶望にまみれたアルトスの顔。対して、勝利を確信したダイアーウルフたち。ボス格の個体が再び遠吠えをする。まるで「一番最初に食うのは俺だ」と、そう言わんばかりだ。
「く、くるな。来るなああああああああ!」
アルトスが手で追い払おうとするが、当然ダイアーウルフたちは怯まない。たかだか人間の素手など脅威にもならないことを知っているらしい。ボス個体など獣ながら哀れみすら向けて――やがて、一気に飛びかかってきた。
「く、くっそおおおおおおおおおお! こんなところで! 死んでたまるかあああ!」
ここでアルトスの取った行動が、運命を分かつことになる。
絶体絶命の窮地に立たされて、アルトスの闘志が再燃した。
死んでたまるかという強い感情が火種となったようだ。
アルトスは自然と拳を作り、何を考えるでもなく突き出す。それはギドに放ったのと同じ右の拳だった。
傍から見れば愚行もいいところ。動物は人間の何倍もタフなのだ。アルトスが鋼鉄製の小手をつけているとはいえ、それでもたかだか人間のパンチである。猫騙しにすらならないだろう。
だが、もしあの酒場の喧嘩を再現できたのならばどうだろうか。
鎧を溶かした炎を生み出せれば活路を見出せるはずだ。
「頼む! 燃えろ!」
ギャンブルなどしたこともない彼が導き出したのは、一世一代の大博打。
「燃えろ!」
外れたら死ぬだけである。
だが、やらないよりはマシだ。
巨大な顎が刻一刻と迫る中、アルトスは発現するかもわからない炎に己の全てを賭けた。
「燃えろおおおおおおお!」
――そして、運命というものは彼のような『覚悟者』にこそ微笑むようだ。
ボゥ! と。
アルトスの拳が再び赤熱。
激しい熱波が頬を叩いた。
次は本日(2021年10月4日)の21:00ちょっと過ぎくらい。