いつもの朝、いつもの夜
神崎奈緒の朝は早い。
職場である病院から徒歩20分のマンションとはいえ、朝の回診、カルテチェック、ICUの患者の体調確認etc‥‥。
朝からやらなければいけない業務はごまんとある。最近は病院に住んだ方が良いのでは?とさえ半ば本気で思ってる。
いつも通り6時に起きて、お気に入りのクラシックを流しながら、ヨガマットの上でストレッチ。これを欠かすと1日の終わりが悲惨なことになる。徹夜明けでもピンピンしていた10代とは違うのだ。
20分程ストレッチに時間を割いた後、ホットミルクを飲みながらフルーツを摘む。
少し汗ばんだ身体をシャワーで目覚めさせ、軽く化粧をして部屋を出る。仕事がある日はカジュアルな服装が多い。これから職場に向かうのにヒールなんて履く気にはなれない。
自分自身あまり女性としての意識はない方だが、親の勧めもあり、部屋は5階、セキュリティーも充分なマンションに住んでいる。そのためか、あまり住人とも接することもなく、静かな生活を送れている。
「いけない。今日は燃えるゴミの日だったわ。」
慌てて部屋に戻ってゴミをまとめた袋を取る。一人暮らしのゴミ管理は一度面倒になると大変なことになるのは学習済みだ。
一階のゴミ捨て場に行くと管理人のお爺さんが掃除をしていた。
「おはようございます。いつもありがとうございます。」
「おはようございます。いつも早いね。」
優しい笑顔の管理人と挨拶を交わし、職場に向かう。いつも通りの1日の始まり。いつも通りの朝。
職場についてからの1日は壮絶と表すのがしっくりくる。それほどにめまぐるしく、余裕のない毎日だ。午前中は外来で様々な悩みを持った患者に対応する。一体この周辺にどれだけの高齢者が住んでいるのかと思うほどに外来患者の列は止まるところを知らない。
昼休憩の時間も薬剤の調整や午前中に起こったトラブルの対応、午後からは手術の執刀に入り、手術がなければ、カンファレンスや経営会議にも入らなければならない。
まともな休憩はトイレで用を足す時と仲の良い師長が無理矢理作ってくれた時間で軽くお茶する時くらいだ。
「かーーっ!!!!今日も疲れた〜〜!!!!」
定時を2時間ほどオーバーして、やっと仕事を終えて帰路に着く頃には辺りはすでに暗くなっている。
ここから家に帰って自炊して洗濯して‥‥、なんてことができるはずがなく、行きつけの居酒屋アルトでビールを飲み干す。
「相変わらず菜緒ちゃんの飲みっぷりは気持ちいいわ!」
ガッハッハと笑いながら大好物の揚げ出し豆腐を出してくれる店長、通称ガヤさん。
1年前にフラフラになりながら帰路に着いていた時に匂いに釣られてこの店に入ってからの付き合いである。
「もう毎日が激務だから、こんな時間がないとやってられないのよ。んー、揚げ出し豆腐最高!!」
「ガッハッハ!そんなふうに美味しそうに食べられたら作りがいがあるってもんよ!ほらよ、これはサービスだ!」
目の前に出されたのはポテトサラダ、半熟の茹で卵とソースが堪らない好物の1つである。
「キャッー!!ありがとうガヤさん!」
「ガッハッハ!良いってことよ!」
こんな感じで1日を終えることが最近の楽しみである。
「聞いたかよ、例の事件。」
「ああ、例の切り裂き魔の話だろ。」
良い感じに酔いも回り、そろそろ帰ろうかと考えていた時に、後ろのテーブル席のサラリーマン2人の会話が耳に入った。
「何でも全身をズタボロに切り裂かれた死体を見つけて、慌てて通報してその場所に戻ったら血溜まりだけで死体が消えてるんだろ⁇」
「そうそう。しかもその死体の特徴で調べてみてもどこの誰かも分からないって話じゃねえか。」
「目撃者の記憶が操作されてるなんて噂もあるんだぜ。」
かなり酔っ払っている顔で話している内容だから、余計に眉唾物の雰囲気が漂う。
(よくある都市伝説かしら。)
神崎にとって、恐ろしい都市伝説より明日に疲れが残っている方がもっと恐ろしい。
「ガヤさーん。おあいそ!」
「あいよ!」
神崎が店を出ていった後もサラリーマン2人の話は続く。
「目撃者の中には切り裂き魔を見たって人もいるらしいぜ。」
「マジかよ!」
「ああ。それが黒髪ロングに白い肌の女性で、」
「美人か⁉︎」
「食いつくのそこかよ。人相はよく見えなかったらしいが、その女、」
喋っているサラリーマンがゴクッと唾を飲み込む。釣られてもう1人も唾を飲み込む。
「ケタケタと笑っていたらしい。」
サラリーマンの夜は始まったばかり。先程まで神崎にばかり構っていたガヤも今は注文に提供に走り回っている。喧騒の中で、彼らの会話を聞いている人は他には誰もいない。当然、神崎奈緒に聞こえるはずもない。
「♬♬♬♬〜〜♬♬。」
居酒屋アルトからマンションまでは徒歩で12、3分といったところか。すぐにでも寝てしまいたい自分の身体を鼓舞する歌はスピッツのロビンソン。
鼻歌を歌いながら歩く帰り道はそれはそれで乙なものだ。
街灯も明るく、女性1人で歩いていても、さほど危険な匂いはしない。
「♬♬♬〜♬♬。」
ロビンソンのラスサビを歌い終えた辺りでマンションのエントランスが見えてきた。
ふいに風が吹く。6月も半ばに入り、梅雨の湿気に夏が感じられるようになってきた。その風に乗って嗅ぎ慣れた、しかし日常生活ではほとんど嗅ぐことのない匂いが鼻をつく。
(これは‥血の匂い⁇)
エントランス周囲には何も変わったものはない。やや光沢を伴ったタイルが広がっているだけだ。
(公園の方かしら?)
エントランスからは見えにくいが、歩いてすぐの所に公園がある。休日には家族連れで賑わう大きめの公園だ。場所が場所なだけに掃除も行き届いており、野良猫も滅多に見ない。
公園に続く道を歩いていくと、心なしか血の匂いが強くなっていく気がする。
公園は周りが木に囲まれており、地元に住んでいる人間以外にはあまり知られていない。遊具も少ししか設置されておらず、神崎はだだっ広い草原としか認識していない。
(何この血の匂い‥。)
仕事上、血の匂いには慣れてはいるが、そもそも大量出血してやっと鉄の匂いを感じる程で少しの出血では人間の鼻にはあまり感じないはず。
(それがこれだけ匂うって一体⁇)
木々の間を抜けると一気に目の前が開ける。そこには綺麗に手入れされた草原もとい芝生が広がっているはずだった。
「???????」
何かが横たわっている、というか倒れている。
(酔っ払いがどこかにぶつかって出血したのかしら⁇)
公園の中はお世辞にも明るいとはいえず、恐怖もあるのだが、そこは医者魂が勝つ。
「あの〜、大丈夫ですか⁇」
恐る恐る声をかけてみる。近づいてみるとその人間は背中をこちらに向けて寝ているが、神崎より少し背の低い男性のようだ。
「ガハッ!ゴホッ、ゴボッ‥‥。」
血が地面に霧状に広がる。
明らかに吐血しているのが背中越しに見て取れた瞬間、恐怖は神崎の中から完全に消えた。
「大丈夫ですか⁉︎」
急いで反対側に回り込み意識を確認する。ここで急いで体勢を変えてはいけない。何かが刺さっているかもしれないし、仰向け、うつ伏せになると体内で出血していた場合、溺死する可能性がある。
急いで脈拍、呼吸を確認しながら119番で救急車を呼ぶ。男性は全身の衣服が何かで切られているように見えた。そこから見えるはずの肌は血によって紅一色である。
「すみません。男性が1人大量に出血して倒れています!はい!住所は‥‥、」
かれこれ3年は住んできた場所だ。住所なんて空で言える。
‥‥最初、目の前の男性は頸部から顔にかけても裂傷があり人相がわからなかった。しかし身体所見を確認するために見続けているなかで気付いてしまった。
「なんで‥‥。管理人さん⁉︎」
動揺は一瞬だった。すぐに我に帰り、電話先に現在地、簡易的な身体所見、意識レベルを伝える。
ただそんな短時間の間に目の前の老人の生命活動の終わりが見え始めた。すでに致命傷であろう頸部の傷を手圧で抑えているが、何しろ出血量が多すぎる。
「そんな‥、管理人さん、しっかり!目を閉じないで!管理人さん!」
必死に叫ぶ彼女の声は老人に届くことはなかった。




