いつもの居酒屋
俺は今、浮かれている。
それも仕方がないことだ。
誕生日なのに彼女もおらず、当然プレゼントなんて貰えることもなく、仕事終わりにスマホをチェックしたら母からお祝いLINEが入っていただけ。
‥‥ありがとう、母。
そんなどうしようもない誕生日に我が多光病院のスミレ草、神崎奈緒から食事のお誘いがあったのだ。浮かれない男がいるのなら、俺の前に連れて来い。2時間の説教をくれてやる。
兎にも角にも定時が来るないなやダッシュで電車に飛び乗って自宅に帰り、シャワーを浴びた後、持っている中でも一軍に位置するシャツに着替え、全く使っていなかったワックスで髪をセットして、また多光病院前のバス停に立っている。
時刻は18時35分。
集合時間は19時なので、気が早いことは否めない。
しかし何もしない時間があると、人間の脳は色々なことを考え始める。
そもそも何故俺が誘われたのか。まさか誕生日だから、わざわざお祝いに誘ってくれたのか。いくら何でもそんな都合の良い妄想はできない。
職場が同じとはいえ、医者と理学療法士の接点は思ったより少ない。病棟ですれ違いざまに挨拶をする程度だ。あれだけの有名人が理学療法士の若手をいちいち覚えているだろうか。謎は深まる。
「すみません‼︎お待たせしました!」
振り向いて声の先に目を向けると、そんな謎はどうでも良くなった。白シャツにサラッとした質感のネイビーのボトムス、白のスニーカーといった想像してたより幾分かカジュアルな出で立ちの神崎が立っていた。
急いで来たのか、若干息切れしている。
「外科の窓から見えたもので、走っちゃいました。」
テヘッと笑う彼女の可愛さといったらあなた。
(そうだ、結婚しよう。)
阿呆な妄想もそこそこに彼女は歩き出す。
「行きつけの居酒屋があるんです。そこで良いですか?」
断る理由は何もない。
居酒屋アルト。
バス停から歩いて8分程のところにその居酒屋はあった。カフェのような小洒落た外観だが、中に入るとメニューが紙でこれでもかと壁に貼ってある。
この辺りの居酒屋はほとんど制覇したと思っていたが、灯台下暗しといったところか。
神崎と店主のやり取りから彼女が常連であることが窺えた。
「それでは、お疲れ様でーす!」
「お疲れ様です。」
そこまで酒に強い訳ではないが、一口目のビールの旨さにはいつも感動を覚える。神崎も病院より少しばかりテンションが高い。
「結構この店には通われてるんですね?」
お通しの枝豆をかじりながら尋ねてみる。
「そうなんです。いつもは仕事が終わるのが遅いので、近場でご飯を済ませようと思ったらこの店が最適なんです。」
彼女の中ジョッキの中身はほぼ空になっている。なかなかの飲兵衛とみた。
「夜中に帰って自炊をする気力はないので平日はほとんどここで済ませてますね。」
休日は自炊してますよ、とニヤッと笑いながら俺に念押ししながらビールを頼んでいる彼女は美しい。異論は認めない。
「それにここの揚げ出し豆腐が美味しくって!それを食べないと1日が終わらないんです!」
幸せを身体全体で表現する彼女に店全体が癒されている。先程から出てくる料理の量がどう考えても多いのも、店主から度々メンチを切られるのもご愛嬌だ。
一通りの料理を腹に収め、神崎がミルクティー、俺がコーヒーを頼んだ辺りで本題に入ることにした。この素晴らしい時間をもっと味わっていたいが、彼女の言動の端々からただ食事に行くことが目的ではないことが伝わってきたからだ。
「神崎先生、今日はなんで僕を食事に誘ってくれたんですか⁇何か悩み事でもあるんですか?」
単刀直入に聞くと、途端に彼女の顔が曇る。
「そうなんです。他の男性に相談しようともしたんですが、何故か皆さん鼻息が荒い方ばかりで‥。先生はあまり私にも興味がない感じだったので、客観的な意見が欲しくて。」
断じて下心がない訳ではないが、最初から俺とは違う世界の人だと思って接してきたことが良かったらしい。
ザマーミロ、肉食男子ども。
「僕で良ければ相談に乗りますよ。何でも言ってください。」
「ありがとうございます。あれは1週間前のことです‥‥。」
1ヶ月後の俺が、この場面に立ち会っていたら自分を殴ってでもこの場所から退散させていただろう。
何故ならここが日常に引き返す最初で最後の分岐点だったから。
しかし生憎、美女からの相談を聞かないなんて選択肢をこの時の俺が持っているはずもないのだ。
恨むぜ、神様。




