職場2
「だからな〜先生。人生とはなー。」
時刻は11時50分。昼休みまであと10分といったところだ。
「おい、聞いとるのか先生よ。」
「はいはい、なんの話でしたっけ?山下さん。」
課したリハビリのプログラムを半分もこなさず、その3倍は回っているであろう口は弾切れを起こす気配がない。
「ちゃんと聞いてくれよ。俺が言ってんのはさー、要は君らは俺の払った金で飯食ってるわけだろ?それなのにあの看護師の態度ったらないわー。頭来ちゃってさ〜、弾みでお尻に手が当たっただけなんだよ。それなのにさー。」
(なんの弾みだよ‥。)
このままではラチがあかない。というより時間を考えるとそろそろ潮時だ。さっきから俺の腹はガス欠をしきりに訴えている。
「山下さん、そろそろ昼食の時間なので午前中のリハビリはこれくらいにしておきましょう。また午後から頑張って下さいね。」
高血圧に始まり糖尿病疑い、肝臓、心臓等の生活習慣病から派生する疾患をオンパレードで持っている、山下完二74歳。
「お、もうそんな時間かい。先生のリハビリは時間が過ぎるのが早くて困るよ。」
ガッハッハと豪快に笑った後、見事なビール腹を突き出しながら食堂に向かって行く。
「ハーッ。相変わらずだな、あのおっさんは。」
例に漏れず運動嫌い、だが愚痴だか自慢話だかを話すことは大好きで、リハビリの時間を娯楽タイムと勘違いしているよくあるパターンである。無理に運動するよう促すと途端に不機嫌になり、その後しばらくはどう伝えてもリハビリ室に来ようとしない、俺的には1番面倒なタイプの患者だ。そのうえ看護師へのセクハラが多く強制退院を勧告されること実に5回。
‥‥全く元気なおっさんである。
「誰もいねーし。俺が最後かよ。」
スタッフルームには人がおらず昼前のミーティングもそこそこに飢えた腹を満たしに食堂へ行ったのだろう。
本日何度目かのため息の後、地下にある職員用食堂へ繋がる階段を駆け下りる。最後の扉を開こうとした瞬間、力を入れていないのに開いた扉から出てきた白い影にぶつかりそうになる。
「おっっと。すみません!」
咄嗟に避けてとりあえず謝罪する。
「こちらこそすみません!ぶつかりませんでしたか?」
白衣に腰まで伸びる黒髪はケアが行き届いている。
「いえいえ、こちらこそすみません。ボーっとしていたもので。どこかぶつけてたりはしてないですか?神崎先生。」
目の前にいる女性は神崎奈緒。整形外科医で主に外来、手術を行っており、若干28歳にして多光病院に神崎あり、と医療業界で名が通っている名医だ。この病院の収入の8割はこの人が担っているとかなんとか。
そのうえ、身長は160㎝台後半、顔立ちも整っており、薄い化粧がその美しさをより際立たせている。そしてどの職種のスタッフにも謙虚な姿勢で接すると来たもんだから彼女を狙っているメンズは数限りない。
我等がリハビリ科の柴香織と合わせて多光病院の二輪の花と評されている。神崎がスミレ草とするなら柴はラフレシアかな。匂いが強すぎて何なら臭すぎて虫を引き寄せてしまう、みたいな。
‥‥絶対言わないけど。物理的に命に関わる。
「こちらこそすみません。考え事をしていたので。不注意でした。大丈夫ですか?」
本当に心配しているのだろう、その上目遣いがどれだけの男を雄にしてしまったのだろう。罪な人だ。
「大丈夫ですよ。鍛えてますから。」
見た目とは明らかに反した寒いジョークをとりあえず伝える。失笑を頂いたら、さっさとこの場から退散したいのだ。
‥‥先程から食堂で昼食をかっ喰らっているはずの男どもが立ち上がり、徐々に距離を詰めてきてるのが視界の端に映っている。それも目線を切って、また戻すと距離が縮まっているのだ。
(達磨さんが転んだかよ‥。)
ところが失笑を貰いたいはずのジョークに何が可笑しいのか、クスクスと笑っているスミレ草。
「いつも淡々としている印象だったんですが、そんなことも言うタイプなんですね。久しぶりに笑っちゃいました。」
どうやら久しぶりに女神に笑顔をもたらしてしまったらしい。今日だけは、この痩せた身体に感謝しよう。ありがとう、母。
しかし、いよいよ近づいてきた目の血走った野郎どもの限界が近いのが鬱陶しい。
「大丈夫そうなら僕はこれで。お腹も減ったんで。」
「あっ、そうでしたね。引き止めてしまってすみません。」
会釈をして食堂に入ろうとする。殺気立っていた男達は慌てて元の場所に戻っていった。
「あのっっ!!!」
「????」
よく通る声に強制的に顔が向く。
「今夜、時間空いてないですか?」
神様ありがとう。俺は今日死ぬらしい。




