序 壱ノ参
深山に位置する「医療都市」
卯一郎を乗せたバスは、長い時間の末、この街へと到着する。
バスは市街手前のロータリーで停車した。
医療施設という性質上、立ち入りにはある程度の制限があり、ここから入場門まで徒歩での移動になる。
卯一郎手早く隣席に放り投げていたボストンバッグを手繰り寄せると、実に数時間、身を預けていた座席から別れを告げ、先頭の出口へと歩を進める。
全身の筋肉はすっかり固まり、背筋を伸ばすのにも苦痛を伴う程で、知らず彼の目に波がが伝ったが、こんなくだらないことで運転手を待たせるのも気まずく、現に今こうしている間も、例のミラーで卯一郎を凝視している。
結果、情けなくも前かがみの大股で、ずんずん歩く羽目になった。
この状況は、アヒルとガチョウ、どっちが一般的な呼称だろうかと、いらぬ考えだけが頭を過った。
「いやあ、お疲れ様です。
生まれたての小鹿スタイル、よく見ます。」
哺乳類であったか。
言いようのなく、且つ、全くの無意味な敗北感が卯一郎を苛んだ。
料金箱の前で財布を懐から取り出し、1,000円を超えた場合はこのまま箱に入れても大丈夫だろうかと、運転手に訪ねようとした瞬間、
トットットッ……
軽やか歩調の足音が響いた。
瞬間、卯一郎の目は大きく見開かれ、旅疲れの倦怠感も、無様な恰好を晒す羞恥心すら根こそぎ、暴力的なまでに奪い取られた。
脈動が早鐘を打ち、空気を介さず直接鼓膜を震わせるような感覚は、確実に卯一郎から呼吸という手段を制限する。
その足音の主など、分かり切っているからだ。
更に言うなら、それが常ならざること、驚愕に値する完全な不意打ちだったからだ。
「あ、整理券取り忘れましたか。
始発から乗って来ているのは分かっているんで、大丈夫ですよ。」
察したとばかりに、運転手が声をかけた。
的外れもいいところだが、卯一郎の痺れた脳を現実に引き戻すには十分過ぎるアシストだった。
「い、いや……流石に乗り物疲れって奴が来たみたいで……」
徐に料金を箱に突っ込むと、逡巡の後、意を決して出口の真正面に立つ。
黄色の鮮やかなパーカーを白いワンピースの上から羽織った少女が、卯一郎がバスから降りるのを待ちわびるかのように佇んでいた。
その顔を見るのは、これが初めてだった。
今まで静止画のように捉えていた少女が、生気ある人間と認識したのもまた、同様だった。
卯一郎にとって、それは余りにも恐ろしく、そしてこの旅の目的を今まで漠然としか認識していなかった彼に、確信を齎すことになった。
「お気を付けて。
お客さんがいなかったら一人でドライブする羽目になったので、こっちも本当に助かりました。」
初めてスピーカーを介さない生声で挨拶して来た運転手に、軽く会釈すると、卯一郎は少女の元へと近寄ると、その幻は瞬時に霧散し、この場に彼を置いてけぼりにした。
「用が済んだら興味を失う癖、まだ治らないのかよ。」
10年もの間、卯一郎の視界にへばり付いた幻は、彼の元から消えた日以来、10年ぶりに表情を見せた。
その意味がいかなるものか、今は知る由もないが、一つだけ、ただ一つだけ分かったことに、卯一郎は苦笑いしつつも、いつの間にかしっかりと伸びた背筋で歩き出した。
「ここ、なんだな。」
少女が浮かべていたのは、卯一郎が好んだ、少し悪戯っぽい笑顔だった。