序 壱ノ二
山間部のローカルバスに乗る青年卯一郎。
運転手と自分の眠気覚ましにと、他愛のない話は続く。
見た目相応でいえば、中学生くらいだろうか。
卯一郎の座席から、通路を挟んで右の席、彼の視線の先には幼い少女が腰掛けていた。
晩春の陽気を形容したような、明るい黄色のパーカーの腕を捲り、顕になった白い二の腕の横を、窓にぴったりとくっ付けながら、じっと外を見ている。
彼女は終始こんな具合だ。
卯一郎の視界に入り込んでから随分経つが、未だ彼女の顔を見たことがない。
最初は眠っているのかとも思ったが、目を離し、再び視線を戻すと常に別の格好をしている。
先ほどは気だるげに文庫本を読んでいたが、その前は何だったか。
まるで呪いの人形を相手にしているような感覚に、卯一郎も最早一々と気にしなくなっていた。
「お客さん、お身内でもいらっしゃるんですか」
胡乱にしている卯一郎に、運転手が話しかける。
「ああ、向こうにですか。
いるって話を聞いたことがありますが、今回は仕事で。
どの道完全な隔離状態とか言うし、会いたくても、ねえ」
「ああ、そっちですか……いやあ、それはそれは……」
気さくと気安さの狭間で揺れていた運転手だったが、選択を誤ったとばかりにうめき声を上げ始めた。
二の句がなかなか思い付かないのか、鯉の様に口をパクパクしている姿を見て、卯一郎は、別にそのまま黙っていてもいいのにと、苦笑いの口元を手で隠した。
「月毒、なんて大層な名前が付いていますけど、実際の所、集団ヒステリみたいなものとか言われていますから。
あれから発症者の報告もないですし、世間的にはもう終わった話題ですよ」
フォローになっているか危うい話ではあるが、気にしていないことさえ伝われば用は足りるとばかりに、卯一郎はやや大げさに口数を増やした。
「お気の毒様です」
「いやいや」
互いに話過ぎたことを自覚するには十分な空気の中、仕切り直しの沈黙が二人の間に入った。
手持ち無沙汰に左手首を見ると、こんな適当な雑談でも30分を費やしていたことに気付く。
目的地に着いてから、相棒の先輩と合流し、明日の仕事の打ち合わせ。
スマホも圏外になってから久しい山奥だが、流石に向こうに到着すれば解消されるだろう。
あそこは、そういう所、なのだから。
今後の行動を雑に整理しながら、卯一郎はシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出す。
無意識のことだったが、不意に正面を向くと、ミラー越しに運転手が片手を挙げた。
流石はローカルバスと、会釈しつつ、箱から1本取り出し口に銜えた。
右側の様子が気にならない訳ではないが、配慮するのも馬鹿らしい……と思いながらも、落とし窓の両端を持ち上げると、晩春の心地よい風が、空気の淀んだ車内に入り込んだ。
空調を多少利かせているとはいえ、入梅前の陽気で思った以上に熱が篭っていたようだ。
卯一郎は深くため息を吐いて、熱中症とはこういう風に起こるものかと、暇に飽かせて下らない思考を巡らせた。
100円ライターで銜え煙草に火を着け、チリチリと先端が音を立てる程に煙を吸い込むと、虚脱感と共に一気に紫煙を燻らせる。
喫煙者にとっては勿体なくて滅多にしない雑な喫み方ではあるが、数時間ぶりの一服、その最初の一口ともなれば深呼吸と同義とばかりに、卯一郎の体が座席に沈んだ。
一瞬、窓ガラスに、表情の見えない顔がこっちを見ている姿が映ったように見えた。
「お客さん、そろそろ見える頃ですよ」
人懐っこい運転手の声が、久しぶりに車内に響いた。
「こっちルートだと、崖を大回りしないとなんないんで、近くまで行かないと見えないんですよね。
その分、急に視界が開けるから、初めての人は結構驚くんですよ」
どうやら、漸く目的地に近付いたらしい。
慣れないバス旅も終わりかと安堵する卯一郎だが、同時に、運転手の言葉が引っかかった。
「こっちルート、とは」
「え。
いや、あっちの峠越えルートなら、比較的早い段階で分かるもんだから」
卯一郎は、慌ててスマホを手に取ると、予想通りいつの間にか電波を掴んでいたそれで、目的地の交通手段を検索した。
一番最初に視界に飛び込んできた結果は、このローカルバス3時間の旅ではなく、他県からのシャトルバス90分コースだった。
「あ、もしかして知らずにこっち使いましたか」
「行き方を一人旅マニアに聞いて、間違いないと安心していたもので……」
「ああ、マニアはいかんですよ、マニアは」
運転手も、何かしらのマニア情報で思うことがあるらしく、全てを察したとばかりに同情の色を浮かべた声を上げた。
資料を読み込むより前に、やっておくことがあることに、ここで卯一郎は代償を払って思い知る。
「……お気の毒様で」
「……いやいや」
ふと、大きなカーブを曲がりきり、茶と緑の風景に切れ間ができたことに、卯一郎は気付いた。
そこは、唐突に、余りに予兆もなく、バスの正面窓一面に現れた。
巨大な貯水池も相俟って、まるで入り江の砂浜の様な、三方を山に囲まれた平野。
丁度貯水池を半周する形になっていたが、入り組んだ崖で本当に近くまで来るまで気付かないようにできているのだろう。
そして、平野一帯には、不自然な程に白い、近代的な建物群が点在し、目で追えば、それは奥側の山肌にまで至っていた。
よく見ると、遠くでは車両が少なからずの数で建物間を往来するのも確認できる。
街だ。
一つの街が、深山の只中に出現した。
そこに至るであろう最後の下り坂を、バスが走る中、その異様な光景に、卯一郎は、事前に把握しておきながらも、言葉を失った。
「ね、驚いたでしょう。
あれぜぇんぶ病院なんですよ」
運転手の、なぜか自慢げな声がスピーカーから響いた。
「次は、終点、医療都市入口、医療都市入口。
お忘れ物など、なさいませんようご注意ください。
ご乗車、お疲れ様でした」
「いや……お互いに……」
最早そんな取って付けの言葉しか、卯一郎の口に上って来なかった。