序 壱ノ一
夢、とでも呼んでおけば、色々と都合がいい。
そんな過去、それから派生する個々の感慨というものが、ある程度生きていれば出てくる。
目を閉じて、今を遮断している間だけ、面倒由来の思考は全て夢なのだ。
突然の大きな揺れに、卯一郎は眉間に皺を寄せたまま目を開けた。
そこには見知らぬ異世界が広がり、などということもなく、認識通りのバスの中。
路傍の石ころでもバスが踏んだのだろう。
左には切り立った岸壁、右を向けば大きな湖、否、彼が事前に目を通した資料には、大規模な人工湖と書かれていた。
左手の時計は、バスに乗り込んでから二時間余りが経過している。
目的地までは、もう少し掛かりそうだ。
卯一郎は、いつの間にか椅子からずり落ち始めていた半身を緩慢に伸ばすと、眼鏡を取りながら溜まった涙を拭った。
睡眠時間は十分確保する性分の彼ではあったが、こう何もない空間で長時間拘束されていると、否が応にも意識が飛ぶというものだ。
眼鏡をかけ直し、クリアになった視界で周囲を見回すと、乗客は皆無だった。
観光地ではないとはいえ、曲りなりとも世界的認知度のある場所までの移動手段のはずが、ここまで利用者がいないことを訝んだが、そんなタイミングだったんだと再び瞼を閉じようとする。
「あ、お客さん、起きましたか。」
スピーカーのくぐもった声が、社内に響く。
顔を上げると、ミラー越しに運転手と目が合った。
「すんませんねえ。
この辺、山水を溜め池に配水する土管が埋まってて。
こっちも気にしてスピードを緩めるんですけど、ちょっと油断しましたわ。」
さっきの大きな揺れのことだろう。
大丈夫、と、手を上げて答える。
「お客さん、今日はどちらに?
って、ここいらじゃ終点まで家一つないから、聞くまでもないか。」
やけに甲高く、よく通る声に、別にマイクを使わなくても聞こえるのではないかと、卯一郎は苦笑する。
「まあ、そういうことです」
狸寝入りを決め込んでも構わないだろうが、目的地までまだ随分と掛かるだろうからと、タクシーのつもりで会話に乗ることにした。
延々と続く一本道で、運転手も注意散漫になってきているだろう。
居眠り運転でもされて、見知らぬ土地で事故に遭いでもしたらたまったものではない。
「この辺一帯も、昔は結構村が点々としていたらしいですよ。
大昔、江戸時代とか、それくらいですかね、自分もよく知らないんですけど。」
「この道ができてトンネルが掘れるようになってからって、ネットに記事が載ってましたね。
戦後になってからじゃないんですか。」
「あ、そうなんですか。
すんません、なんか適当言ってしまって。」
年のころは三十前後だろう、調子のいい運転手は、大げさにおどけながら、言葉とは裏腹に然して悪びれもせず帽子のつばに軽く手をかけた。
「とにかく、こんなでかい池を掘るくらいだ。
聖地だの……きんそく、ち……って言うんですかね。
ここに伝わっていた宗教の関係者とか、それに肖ってわざわざ移り住んできた人たちが、静かに暮らしていたとか。」
聖地と禁足地じゃ、かなり意味合いが異なるが、この一帯にかつて存在した山岳信仰のお膝元とは、卯一郎が事前に調べた資料にも書かれていた。
まるでダム湖と見紛う規模のこの貯水池は、それこそ江戸時代に手掘りされたのだそうだ。
費やされた年月と人足を考えると、なるほど、かなりの力を持った宗教だったのだろう。
完全な陸の孤島時代に、これだけの灌漑事業を成すなど可能なのか。
時間があれば、その辺りのことも、もっとよく調べてみようと、卯一郎は独り言ちる。
「しかし、凄い人工湖ですね。
よなし湖、でしたっけ。
地図でもひらがな表記でしたけど、どういう謂れの名前なんですか。」
「さあ。
自分もただ素通りするだけですから。
隣の県出身なんで、会社に就職するまでは、こんな立派なもんがあるなんて、知りもしなかったですよ。」
そんなものか。
そう鼻で笑うと、卯一郎は話題の立派な湖を、右目の端で眺めた。