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美しき王国  作者: 無武虫
3/3

後編


じいは真剣に、耳元で囁く龍の話をうんっうんっと相槌を打ちながら聞いてくれる。上界に逢いたい人がいること、その人に逢いに行かなければならないことを伝える。やがて、龍が顔を離すと、じいは顔をほころばせて、

「そうか、そうか。それは、逢いに行くべきだな。でも、君がいなくなると寂しいなあ……」

龍は深々と頭を下げる。

「長い間、お世話になりました!」


綾香が、黒いマントの後ろまで垂れる髪をクルクルと編んでくれる。三つ編みのようにして、その先を紐で結ぶ。

「はい、できたよー。これで、女の子と会っても恥ずかしくないね」

最後まで、綾香さんは素敵だ。龍は心の底から、綾香に感謝する。

「ありがとうございます……綾香さん、本当にお世話になりました」

「……体に気をつけて。私、龍くんの事ずっと忘れないから……」

龍は後ろを振り返りたくなるのをこらえて、前を向いたまま

「俺も、綾香さんの事、ずっと忘れません」


サーと風が吹き、芝生や草がなびいている。そこへ、龍、龍之介、ゲン太は歩いてくる。先頭の龍は、小高い丘を登り、立ち止まって上を見上げる。目の前にあるのは、巨大なキノコのような形で、表面はごつごつした巨木のような、天高くそびえる支柱である。

「龍之介……これを登れば、上界に行けるんだな?」

龍之介も丘の上に来て、上を見上げる。

「ああ……何年ぶりだろうな……。間違いない、この中を通れば上界に行ける。……でも、本当に行っちゃうのか?」

龍は後ろを振り返り、笑って

「なんだよ、龍之介。らしくないじゃん」

龍之介は泣き出しそうな顔で、

「だってお前は、俺が初めて友達だと思えたやつだから……。お前がいなくなったら、なんか心にポッカリ穴が開いちまいそうだ」

龍は前を向く。龍之介がそんな風に思ってくれてたなんて……。俺は未だかつて、こんなに深い友情を持ったことがなかった。友達を作るのが苦手で、一人ぼっちだった俺を親友にしてくれた龍之介に、感謝の気持ちが溢れ出してくる。

「そうか……俺も龍之介のこと、本当の親友だと思ってる。……今まで、ありがとう」

龍は歩き出す。柱の根元に向かって。龍之介とゲン太はただ立ったまま龍の後ろ姿を見送る。龍がだいぶ離れて柱の根元近くまで来ると、

「龍ー!お前、絶対に死ぬなよなー!鬼に負けても、見栄なんか張らねえで、いつでも帰ってこいよー!」

龍之介の大声が聞こえてくる。龍は左手を上げて応える。

「分かってるよ!……俺は死なねえし、鬼にも負けない」

目の前にはごつごつした巨木の枝とその間にいくつか柱を囲むようにドアがある。龍は真正面のドアを開けて中に入る。


そこは真っ白な空間で、床はピカピカであり、人気のない不気味な程静かな場所だ。中心には、とても人間の手で作られたとは思えない、巨大で立派な螺旋階段が天高く渦巻いている。龍はそれを見上げて、

「すげえ……これを上っていくのか?」

龍は螺旋階段の根元へ歩いていき、上り始める。最初は一段一段慎重に上っていくが、一段飛ばし、二段飛ばしとだんだん速く上っていく。ふと、龍は周りを見渡す。螺旋階段の周りにはぐるりと囲むように、真っ暗な部屋が並んでいる。その部屋は、不気味な気配があり、ゾワゾワと何かが暗闇の中で動いた気がして、

「気持ち悪っ!」

龍は身震いする。また階段を上り続けて、中間地点ぐらいにたどり着いた時、

「おう、久しぶりの客か……」

と柱の中全体に響き渡る程のドス太い声が聞こえてくる。龍は上方の踊り場を見る。踊り場につながった巣窟のような暗闇からウニョッと腰をかがめて真っ赤な巨体の鬼が出てくる。踊り場に来ると、その姿の全貌が露わになる。尖った角が縦に三本、頭のてっぺんから後ろに突き出ている。ごつごつした肩に筋肉もりもりの腕、8パックに割れた腹など、筋骨隆々としている。顔の半分以上を占める程の大きな一つの目玉が飛び出ており、その周りには緑色の血管がいくつも浮き出ている。身長は6m程の高さであり、真っ赤なほとんど全裸のようで、ぼろいパンツをはいている。鬼はニヤーと笑い、二本の牙がむき出しになる。

「はっはっは!だいぶビビってるみてえだな。……まあ、あん時のチビよりはましか」

龍は鬼の姿に後ずさりしそうになるが、グッとこらえて、

「……お前が鬼か?……」

鬼は耳の中を太い指でほじりながら、

「ああそうだ。鬼のボスであり、ここの番人でもある。お前はあれか、チビの仲間か?」

龍は鬼の言葉を不愉快に思う。

「チビ?……龍之介のことか?」

鬼はほじって出てきた大きな耳くそをピンッと指で飛ばして、

「名前は知らんが、あのチビはくそ弱かったなー。一撃で虫みてえに潰れて、何回か殴ったらもう死に死にだよ。そんでもって部下たちに喰わせようとしたら、やめてーとか泣き叫びながら逃げやがってなーありゃあほんとおもしろかったぜ。今でも笑えてくるわ。ハッハハハハー」

ワッハッハワッハッハと鬼の大きな笑い声がこだまする。それを制するかのように、

「ふざけるな」

龍の声と竜の神の太い声が二重になって響く。龍の静かなる怒りが神とリンクした。鬼は笑うのをやめて、龍の方を見下ろす。

「ん?なんか言ったか?」

龍は背中の剣をシュッと抜いて前に構える。額には青い竜の紋章が現れる。

「龍之介をバカにするな!」

と跳び上がり、剣で斬りつけようとする。ふんっ!と鬼は右腕のパンチをもの凄い勢いでくりだしてくる。ガンッと龍は剣で受け止めるが、その衝撃に耐えられず、後ろに吹っ飛ばされた。後頭部を階段に打ちつけて、ゴロッゴロッと階段を転げ落ちる。下の踊り場でバンッと背中を打ってザザザーと引きずられて止まった。鬼は、

「また一撃で終わりか?ワッハハハハハー」

と大笑いする。笑い声も龍の耳にはだんだん聞こえなくなって意識が薄れていく。やがて、完全に意識を失い、視界は真っ暗になる。だがふと、夕焼け空のような温かな風景が少しずつ広がっていく。それを背に素敵な笑顔のしずくが現れる。

「ねえ、龍……私、あなたのこと……」


上界の城のしずくの部屋のベッドの中で、しずくはスヤスヤ昼寝している。しずくの夢の中。少しずつ真っ青な空が広がり、それを背にまだ短髪だった頃の龍が現れる。

「……俺さぁ、しずくのことが……」


「好き!」

二人の声が重なる。二人の夢が交錯した。


龍はカッと目を見開く。目の前にはしずくではなく、階段が広がっているが、龍はおもむろに立ち上がる。

そうだ。俺は、しずくに恋して、逢いたいんだ。

龍はそう強く思い、自らを奮い立たせる。右手に持っていた剣の柄の部分を両手で強く握り締める。剣の刀身が青い炎に包まれ、やがてビューンと青い光のように縦に長く伸びる。そして、それは4m程の長さの青い光の剣になる。鬼はまだ笑っていて、その異変に気付かない。龍は走り出し、階段を何段飛ばしもした後、

「はぁ!」

と鬼の顔めがけて跳び上がり、巨大な剣を縦に振る。

「ん?」

鬼が気づいた時はもう遅く、鬼の顔の真ん中に切れ込みが入り、真っ二つに割れて、左半分の顔が落ちる。切り取った左半分の顔は階段を転げ落ち、本体の傷口からは、緑色の血が噴き出す。

「あぁぁぁぁぁぁ!」

鬼は叫んで両手で顔を押さえる。龍は、今度は鬼の胴体めがけて光の剣を斜め横に振る。鬼の左の胸から右の腰にかけて大きな切れ込みが入り、上半身がずり落ちる。胴体の傷口からも緑色の血が噴き出して、

「うわぁぁぁぁ!俺の自慢の体がぁぁぁ!」

ドスンッと鬼の上半身が落ちると、龍の振る剣は青い光が消えて元に戻る。龍の額の紋章も消え、ふうっと龍は一息ついて剣を背中の鞘に納める。そして、また階段を上っていく。鬼の横を通り過ぎようとすると、

「待ってくれよぉ。俺様がこんな目に遭って、ただで済むと思ってんのか?」

龍は一瞬立ち止まるが、こんな奴相手にしている暇はないと思って無視し、鬼の方を見もせず、また階段を上る。鬼はスーッと大きく息を吸い、

「お前らぁぁぁ!出てこーい!こいつを捕まえろ!骨まで喰らい尽くせ!」

大声で喚いた。踊り場につながった真っ暗な巣窟から一匹、二匹と4足歩行の赤鬼の子分達が出てくる。4足歩行の鬼は角が一本頭のてっぺんに生えていて、三つの黄色い目が三角形を作るようにある。ゾロゾロと4足歩行の鬼たちが増えてくるが、龍は動じない。龍は目を閉じて左手の握り拳を胸に当てる。4足歩行の鬼たちがよだれを垂らしながら迫ってくる寸前、龍の背中のマントを突き破って、青く照り輝く竜の翼が生える。龍の目の周りには黒い太い線の文様ができて、龍はカッと目を見開き、背中の両翼をバタつかせ、上空へと飛び立つ。グルグルと螺旋階段に沿って飛んでいき、龍を追いかけてたくさんの鬼たちが階段を上る。龍はどんどん鬼たちをつき離して、やがて頂上にたどり着く。そこには真っ白で巨大な門があり、龍は迷わず右手の拳を強く握り締める。右手から青い光が溢れ出し、その手で門の真ん中をぶん殴る。ピキピキッと門がひび割れてボンッと穴ができ、そのままの勢いで門を破りながら外に出る。


バラバラッと門の破片を散らしながら、龍は地面に着地する。

ウゥ~と警報が鳴り始めて、街中の赤いランプが光る。龍は周りをブンブンと首を振って見渡す。目の前には道を挟んで向こう側に住宅街があり、手前の左側には交番がある。

ここは、上界だ。間違いない。おぼろげな意識の中で龍はそう思う。

交番から警察官が一人、二人出てきて、

「うわぁ!化け物だ!」

と拳銃を出して発砲してきた。弾が龍の左腕に当たり、

「痛っ!」

龍は左腕を押さえる。血がたらーと垂れてくるが、ゾロゾロと拳銃を持った警察官が出てきたため、龍は力を振り絞ってダンッと空へと飛び立つ。


龍はフワッと空中でバランスを取って住宅街の家の屋根に着地し、またフワッと飛んで道を挟んで向こう側の家の屋根に着地する。それを何度も繰り返し、交番からはだいぶ離れた所に来る。家の屋根に着地し、また飛び立つが、ふと力が抜けてきて、フラフラ~と横にそれていき、不安定な飛行になる。

「もう、……だめだ……」

だんだん意識が薄れていく。


夜の住宅街。赤いランプを灯したパトカーが家々の前をゆっくりと通っていく。


家の玄関の前で龍は倒れている。もう竜の翼は消えた。玄関の横には犬小屋があり、そこから小さな犬が龍を見て、

「ワンッワンッ」

と吠えている。家のドアがガランガランと開いて若い女の子が出てくる。女の子は髪を後ろで一つに縛ってある。玄関の灯りがついて、倒れている龍の姿が露わになる。

「キャッ!人が倒れている!」


玄関から入って目の前には左斜め上に続く階段がある。女の子はその階段を、龍を背負ってよいしょっと上る。


女の子は龍をベッドに寝かせる。龍の左腕から出血していることに気づき、

「あっこの人けがしている……」

女の子は奥のタンスから包帯とはさみを持ってきて、

「あのー……ちょっと服を脱いでもらってもいい?」

と訊く。だが龍は気絶していて全く反応しない。

「……仕方ないね。脱がしちゃおっと!」

上半身が裸になった龍。女の子は龍の左腕の傷口を包帯で巻く。はさみで包帯を切って、

「よし、これでOKだね」

だがふと、窓からの月明かりで、龍の腹の青く照り輝く竜の鱗の部分が露わになる。女の子はヒッと悲鳴を上げて、

「何これ⁉ かさぶた?……」

そーっと指で鱗の部分に触れる。

「んあ!」

龍は腹に激痛が走って目を覚ます。真上に女の子の顔があり、

「……君は誰?ここはどこ?……」

龍が見つめると女の子は頬を赤らめる。

「わっ私は、萩原里子はぎわらりこ。……ここはね、私の部屋だよ」

龍は里子から目をそらし、周りを見渡す。部屋の中はガランとしていて、飾り気がなく、勉強机と窓があるだけだ。

ー上界の家の中か……

龍は少し安堵し、全身の力が抜ける。里子は龍の横顔を見つめて、

「あなたの名前は?どうして私の家の前で倒れてたの?」

俺は今、たぶん指名手配中の身柄だ。誰であろうと自分のことは言ってはならない。

龍は里子の方を見ないで、

「俺は……ちょっと名前は事情があって言えないんだ。倒れてた理由も……秘密だ」

里子は少し不満げに、

「ふ~ん……じゃあ、あなたの年齢は?高校生?」

龍はもうスースー寝息を立てて寝ている。

「あら?寝ちゃった?……まあいいっか」


ジリジリッと目覚ましが鳴って里子の手が時計をバンッと叩く。里子は床に布団を敷いて寝ており、髪はほどいて下ろしている。起き上がり、時計の横に置いたゴムで髪を後ろで一つに縛る。ベッドで寝ている龍を見て、

「名無しさん!起きてー。朝だよー」


ダイニングテーブルでは里子の父、萩原勇はぎわらいさむがイスに座って新聞を読んでいる。ダイニングにつながったキッチンで里子の母、萩原麗子が朝食の支度をしている。勇は、新聞から目を離して、

「なあ麗子、昨晩の事件知ってるか?下界から一名侵入者がいて今も逃走中だって」

麗子はお皿の上に目玉焼きを載せながら

「最近物騒わねえ……ほら、ついこの前下界に行った上界の人が大けがを負ったり、下界の男が監獄に入れられたり……」

そこへ廊下をバタバタと制服(夏服)姿の里子がピンク色のTシャツを着せられた龍の手を引っ張って来る。

「父さん、母さん、おはよう!」

勇は新聞から顔を上げて、

「おう里子、おはよう。……そいつは誰だ?」

紫色のズボンにピンクのTシャツというおかしな恰好の龍を、勇はいぶかしげな顔で見てくる。

「え~と、こちらは私の彼氏の……涼くん!左腕のけがで今は高校をお休み中ってことで、私の家に遊びに来たの!」

龍を指し示して、おどおどしながら里子が説明する。

彼氏?それって嘘にも無理がないか?

龍は少し違和感があるような気がしたが、麗子がキッチンから顔を出して、

「あんたに彼氏なんかおったの?……あらまあ!イケメンじゃない!」

なんとか面食いらしいお母さんは騙せたようだ。


上界のお城の中。二階へと右斜めに続く階段をケイリュウが慌てて上る。二階に上がると右側のドアをノックし、

「王子様!大変なご報告がございます!」

パジャマ姿の龍人がドアを開けて現れる。龍人は目をこすりながら、

「どうされたんですか?また何か事件でも……」

「そうです!事件です!」

ケイリュウは周りを注意深く見渡した後、声のトーンをおさえて

「昨晩、下界と上界をつなぐゲートが破られました。下界から何者かが侵入したようです。さらにその者は今、行方をくらましているという状況です」

龍人は口をポカーンと開けて

「あ、あのゲートが?……もしかして、神谷龍くんが……」

ケイリュウは黒ぶち眼鏡をひょいっと上げた。

「その可能性は高いですねえ……。今、警察が調査中ですが、警察からの情報によると、目撃した時、若い男で背中から翼のようなものが生えていたようです」

「それって……竜の力が開眼した?」

やばい。かなりやばい。龍くんに眠る力は膨大だった。それが本当に開眼し、この上界まで来たのならば……恐ろしいことが起こるかもしれない。

龍人はかなり焦る。


里子は学生鞄を肩にかけて靴を履く。

「行ってきまーす」

と元気に玄関のドアを開けて出ていく。


郵便ポストの隣に置いてある自転車に里子は寄り、かごの中に鞄を入れて、ハンドルを引っ張り、道に自転車を出す。サドルにまたがってゆっくり漕いでいく。


しずくは眠くて、朝食をゆっくり食べており、

「はあ」

とため息ばかりついている。龍に逢えなくなって半年も経った。もう、私は忘れられてしまっただろうか、龍は二度と上界に来れないんじゃないか。そんな不安ばかりが強くなり、食欲も何もする気もなくて、ただ茫然と毎日を過ごしているだけ。

「トントン」とドアがノックされる。しずくはまたため息をついて

「龍人なら入らないで……私、気分悪いの……」

侍女が興奮気味の声で、

「いいえ、わたくしです。お姫様にお知らせしたい大ニュースがございます」

ん?としずくは首を傾げて

「大ニュース?」

珍しい。平凡な日常に大ニュースなんてめったにない。しずくは淡い期待を持つ。

侍女はドアを開けて中に入ってくる。そ~とドアを閉めたかと思うと、サササーと早歩きでしずくの元へやってくる。

「ちょっとわたくし、盗み聞きしちゃったんですけど、今、上界の街中が大騒ぎになってるんですって」

侍女は声を少しおさえる。

「あのですね、下界と上界は実はつながっている所がありまして、でもそこは大変危険で厳重に警備されてますの。今まで誰一人そこからは下界の者を侵入させなかったのですが、ついに昨晩、そこを突破した者が現れたそうなんです。そして、その者は未だに捕まってないとか……」

しずくはポロッと箸を落とす。驚きと喜びが心の中で入り交じって

「エッそれって、もしかして、もしかして」

(龍が来たってことー⁉ )

しずくの心に一条の光が射す。

侍女は首を傾げて、

「もしかして何ですか?」

だがしずくはお構いなしに喜びを発散するように立ち上がり、両手を上げ、

「やったあー!やっと逢えるかも!」


麗子はキッチンで夕食の調理をしていて、龍はテーブルのイスに座ってまったりしている。麗子は調理する手を止めて、

「涼くんは何かおやつでも召し上がりませんか?」

龍はテーブルの上に頬づえをついて寝そうになっており、はっと目が覚めて、

「あっはい、いいえ……おやつはいいです」

麗子はクルッと後ろを向いて上の食器棚を開け、

「コーヒーとかはいかが?」

龍はテーブルに載せていた腕を後ろに引いて

「あっコーヒーは……苦くなければ大丈夫ですけど……」

龍はまだ死後の世界に来て間もない頃のことを思い出す。コーヒーが苦くて、しずくは紅茶が甘くて、二人で笑い合ったな……。

麗子は食器棚からコーヒーカップ取り出し、

「うちのコーヒーは苦くなくてすごくおいしいですよ」

それから数分後。龍の前に熱々のコーヒーが出される。

「よくふーふーして冷ましてから飲んで下さいね」

どうだろう?麗子の言葉通り、苦くないのだろうか?

龍は左手でコーヒーカップを持とうとする。だが拳銃で撃たれた所に激痛が走り、

「痛っ」

と小さいうめき声を上げた。麗子は気づいてないようで、龍はそ~と左手を引いて右手でコーヒーカップを回し、右手に持ち替える。口元に近づけて、一口飲む。

「あっ!おいしい!」

麗子はキッチンでその様子を満足げに眺めて、

「よかった……そのコーヒーはね、ちょっと特別なのよ」

龍が二口目を口に入れた所で、

「実は、天使のウンコがちょっぴり入ってるの」

龍はブッーと口の中のコーヒーを噴き出す。

「え!あのおっさん天使の?」

想像しただけで口の中が嫌な味に包まれる。

ガランガランと玄関のドアが開き、

「ただいま!」

と里子が帰ってくる。


パジャマ姿の里子は布団の上で体育座りしている。龍はベッドに腰かけている。

里子はちらちら龍の方を見てきて、

「あのね、今日学校でね、皆大騒ぎだったの。……下界から化け物が来たって……。もしかして、それってあなたの事?」

龍はう~んと考え込んで頭をポリポリかく。

この子に本当の事を言ったら、追い出されるだろうか?怖がられて警察に通報されるだろうか?

龍はちらっと里子を見ると、ジーッと見つめてくる、里子の強い視線を感じる。

どうせいつかはばれる。だから、この子に受け入れてもらうしかない。

そう決心した龍は、ふうっと一呼吸おいて、

「そうだ……。俺は昨日、下界からやってきた。でも別に、君たちの生活を脅かそうとして来たわけじゃないんだ」

里子は龍をジーッと見つめたまま、

「ふ~ん……。通報したりはしないけど。……本当の名前を、教えてくれる?」

龍は里子の方を見ない。強い視線に耐えられないから。

でも、通報しないっていうのは嘘じゃない気がする。そう信じたい。

龍は、里子を信じて、

「俺は、神谷龍だ……。君の家族とかにも内緒にしてくれる?……涼くんのままでいいから」

里子は笑って、

「私のつけた名前、意外と近かったじゃん……。いいよ、誰にも言わない」

龍はほっと一安心する。急に眠気が襲ってきて後ろにゆっくり倒れる。そのまま寝る。自分の膝に視線を落としていて、それに気づいてない里子は、

「でも、どうしてこんな危険を冒してまで上界に来たの?」

龍の返事はない。里子は顔を上げる。

「あら?……もう寝ちゃったの?」

ベッドの上。横向きに寝ている龍の体を里子がよいしょっとずらして縦向きに直す。里子は龍の体に布団をかけて、一息つく。ふと奥のタンスの上の龍の服が目に入る。龍の服を手に取り、広げて、

「よくできた服ねえ……あっここ破けてる!」

里子の布団の上。球型のライトをつけて龍の服を広げる。マントの所に二箇所、翼の生えた跡が破けている。里子は裁縫箱を開け、針と黒い糸を取り出す。針に糸を通し、マントの破けた所を縫い始めた。


ジリジリッジリジリッと目覚ましが鳴っているが、里子は

「ん、う~ん」

と寝返りを打っただけで、起きる様子はない。時計の横には裁縫箱と畳まれた龍の服が置かれている。龍の服はマントの破れていた所が綺麗に縫われている。


ガランガランと玄関のドアを開けて、

「行ってきまーす!」

と制服姿の里子は外に飛び出す。自転車の所まで小走りして、

「やばい!遅刻する!」

慌てて自転車に乗って立ち漕ぎしていく。


しずくはダイニングテーブルに頬杖をついてイスに座っており、足をブラーンブラーンとさせてまったりしている。今日はすごく機嫌がいい。

「トントン」とドアがノックされる。

しずくは後ろを振り向き、

「おばさんかな?それとも龍人かな?」

楽しみながらきく。

「いいえ、執事のケイリュウです」

上機嫌だったしずくはガクーンと気分が下がる。

「ケイリュウさん?……珍しいですね」

ドアが開いてケイリュウが現れる。ケイリュウは一歩、二歩、中に入ってきて、

「え~とですねえ、王さまからの命令がございまして……王子様とお姫様は今すぐに王室へ来いとのことです」

しずくは不満に思い、

「え~またあの子供の所に行くの?」


雲の上を歩く龍人、しずく、ケイリュウ。王室では中心の王座に王が座っており、王室の左端にはレッドが銅像のように直立不動で立っている。龍人としずくは王の前で正座し、ケイリュウもその横で正座する。王は遠くの空をホケーと眺め、尻の下に敷かれた竜の尾が、龍人としずくの目の前でうねっている。

「王子、姫、今、世が乱れちぇることは知っちょるな?」

龍人は一礼して、

「存じております」

しずくはポカーンと口を開けて奇妙な王の姿を見ている。肩を龍人に肘でつつかれ、はっとなり、

「あっ……ぞ、ぞんじております」

王は満足そうにうなずく。

「そこじぇだ……わしは、今こそ、王政の力を示す時じゃと思っちょる」

王はいきなりプイッとケイリュウを見て、

「ケイリュウ!王子と姫はまじゃしぇいしきに式を挙げちぇないようじゃな」

ケイリュウはひょいっと黒ぶち眼鏡を上げて、

「はい、その通りでございます。王子様とお姫様はまだ正式に結婚式を挙げてはおられないのです。そのためか、お姫様の存在は多くの国民に知られてないようで……」

王はまたホケーと遠くの空を眺める。

「うん、そうじゃそうじゃ。じゃから、わしは、式を挙げチェ、王政の強さを民衆に見せつけ、この混乱をしじゅめる」

ちょっと待って……結婚式を挙げるってことは、私は永遠にここの姫でい続けるの??しずくは強い不安に駆られる。

龍人はバッと右手を天に向けて真っすぐに上げた。

「王さま、一言、申し上げてもよろしいでしょうか?」

「なんじゃ?」

龍人は右手を下ろし、

「下界から侵入した者はしずく、いや姫を狙ってきている可能性が高いです。なので、今、姫を外に出すのは危険ではないかと僕は思います」

あっそうか!結婚式は外に出られるチャンスで、龍に逢える可能性が高くなる!

でも、結婚式が成立したら……私は永遠に姫になり、龍に逢える可能性は低くなる。

しずくは大きく迷う。だがその思案をかき消すように、

ヒャッヒャッヒャッと王は不気味な笑い声をあげた。

「ならば警備を厳重にすればよいことじゃ」

ケイリュウも不気味な笑みを浮かべて

「それは、絶好のチャンスではございませんか。犯人をこの機会に捕まえてしまいましょう」

龍人は大きく目を見開き、

「しずくをおとりにする気か!」

と声を荒げた。しずくは龍人のそんな声を聴くのは初めてで、思わず龍人の顔を覗き込む。龍人は疲れ切った顔で、大きく開かれた目の下にくまがある。王は竜の尾をバチンッ!と床に叩きつけて、

「もうよい!わしが決めたことは絶対じゃ!……今週末に式をやる。皆の者、準備をしちぇおけ!」

しずくはすごく複雑な心境で、この結果をどう思えばいいか分からなかった。


龍はイスに座ってテーブルの上に突っ伏して寝ている。麗子はキッチンで夕食の調理をしており、少し手が空くと

「涼くん、大丈夫?もう何時間もそうやって寝てるけど……」

龍はピクッと手が動いて目を覚ます。

「あっ……すびません」

顔を上げると、よだれがだら~んと垂れる。

ガランガランと玄関のドアが開いて、

「ただいま!」

里子が帰ってきた。


龍はベッドに腰かけて里子に直してもらった服を広げて眺める。

「本当にきれいに縫ってくれたんだね……ありがとう」

里子は布団の上に体育座りをして不愛想に

「別に大したことしてないよ……。それより、その後ろについているのは剣?」

里子は素直じゃないな、と思いながら龍は服を下ろす。

「あっうん、そうだけど……」

里子は龍の服をジーッと見てきて、

「それじゃあ、あなた、人を斬ったことあるの?」

不思議な質問をしてきたな、と龍は思う。首を横に振って、

「いや、人は斬ってないよ。人でない、もっと恐ろしい者なら斬ったことあるけど」

かすかに覚えている。朦朧とした意識の中で戦ってたから鮮明ではないが、確かにあの時、鬼を斬った感触があった。

しかし里子があまりにも長くジーッと龍の服を見つめてくるので、耐えられず、

「でも、あの……これを凶器とか思ってほしくないんだ。俺の宝物だし、じいの宝でもあるから……」

里子はやっと服から龍の顔に視線を移す。

「じい?……じいって下界の人?」

龍はほっと一安心する。話題を少し明るく変えられた。

「そうだよ。俺のバイト先のボロいパン屋の店長。ちょっと強面でおっかないんだけどね、意外と優しい所もあって……思いやりのある人だったなあ」

じいのことを思い出すと心がじんわり温かくなる。

「へ~そんな人もいるんだ……私、下界って悪い人ばかりって教わったから意外」

龍は驚いて目を丸くする。

「え?そんな風に言われちゃってるの?俺の周りの人は全然、いい人ばかりだったけどなあ……」

綾香さんも、龍之介、ゲン太も、皆いい人だった。皆の事を思い出すと、心がじ~んとしてきた。

里子は何かを考え込むように、顔を下に向ける。少しの間黙り込む。

「私ね、前から下界に行ってみたいって思ってたの。行ける機会はあったんだけどね、うちの父さんと母さんが許可してくれなくて……」

龍は不思議に思って首を傾げる。

「それは、どうして?下界が危険だから?」

里子は脚を押さえる手の人差し指をもじもじさせる。

「実は、私は生まれが下界で、本当の両親は下界にいるの……。三歳までは下界にいたらしくて、それから今の両親に養子として引き取られたんだって。だから、本当の両親に会ってみたくて……」

話題が暗くなってきたな、と龍は思うが、

「……でも、会わしてくれないってこと?」

うんっと里子は強くうなずく。

「父さんと母さんは、私が本当の両親に会ったらそのまま下界に残って帰ってこないんじゃないかって心配してるの。私は絶対に帰るって言ってるんだけどね」

龍は考え込み、おでこに指を当てる。

「そうだなあ……それは難しい問題だな」

下界に行った方がいいとも言えないし、行かない方がいいとも言えない。

だが、共感できる部分はあると思い、顔を上げて、

「でも、まあ……逢いたい大切な人がいて、でもなかなか逢えないつらさは俺にもよく分かるな」

里子にとっての実の両親と、俺にとってのしずくが少し重なった。


勇はテーブルのイスに座って新聞を読んでいる。麗子はキッチンで朝食の支度をしている。

「なあ、麗子、王子と姫が今週末に結婚式を挙げる予定だってよ!」

麗子は手を止めた。

「姫?姫なんかいたかしら?」

勇はパラッパラッと新聞をめくり、

「おお、二人の写真まで載ってるぞ。麗子も見てみるか?」

麗子は朝食を運びながら

「どれどれ……」

とキッチンを出て、テーブルの上におかずを置き、勇の方に回り込む。

「えー!これが姫?……うちの里子の方がかわいいじゃない?」

勇は笑って、

「それにさあ、この王子って里子の彼氏にそっくりじゃないか?」

ドタドタ廊下を里子と龍が歩いてきて、

「おはよう」

「おはようございます」

勇と麗子は二人をまじまじと見てクスクス笑う。


チャリンチャリンとベルを鳴らしながら、制服姿の里子が自転車を漕いでいく。


しずくはイスに座ってテーブルの上に突っ伏して寝ている。顔を横に向けると、よだれがだら~んと垂れる。

「龍……」

ポツリとつぶやく。夢の中でも龍の事ばかり考えている。

「トントン」とドアがノックされる。

しずくはまったく起きる様子がない。

「入りますよー」

ドアが開いて侍女が現れた。中へ入ると侍女はドアを閉めて、サササーとしずくの元へ歩いてくる。寝ているしずくの肩を叩き、

「お姫様、起きて下さい」

「ん?」

しずくは目を覚まし、顔を上げた。よだれがだら~んと垂れて、

「あら!いけない!」

侍女はササッとハンカチを出してしずくに渡す。

「あっすみません……」

しずくはハンカチでよだれを拭く。侍女はベッドの横に歩いていき、壁に掛けられた朱色のドレスをしわを伸ばすようにお直しする。

「お姫様、今週末に結婚式を挙げられるそうですね。おめでとうございます」

しずくはテーブルにまで垂れたよだれを拭きながら、

「あっ……ありがとうございます」

あんまり嬉しくないけどなあとしずくは思ったが、一応そういうことにしておく。侍女は朱色のドレスを手に取ってしずくの元へ持ってくる。

「久しぶりに、ドレスを着てみましょう!」

とはりきった声で言った。

数分後、朱色のドレスに着替えたしずくは、

「なんかお腹の所がきつ~い。もしかして、私、太ったぁ~?」

ガーンとショックを受けた。これじゃあ龍に合わせる顔がない。恥ずかしい!

侍女は嬉しそうにしずくの晴れ着姿を眺めて、

「大丈夫ですよ~。ウエスト周りなら、わたくしが調整します。それにしても、よくお似合いですね~」

侍女の慰めもしずくには皮肉にしか聞こえなかった。


麗子はキッチンで夕食を調理している。龍はテーブルのイスに座ってまったりしている。麗子は手を止めて、

「ねえ、涼くんて、なんでそんなに王子様にそっくりなの?もしかして、王子様の親戚とか兄弟?」

龍は王子と聞いてはっとなる。

「いや全然そんな者ではないです」

(神垣龍人って俺に似ているのか?……)

龍はう~んと首をひねって考え込む。

「そうよね、王子様の親戚だったら、結婚式に呼ばれるはずだもんね」

龍は麗子をガン見して、ダンッと立ち上がり、

「結婚式⁉ 」

思わず大声を上げてしまった。

ガランガランと玄関のドアが開いて

「ただいまー」

と里子が帰ってきた。


あの後、落ち着くまでしばらく時間がかかった。しずくの結婚式だなんて、あまりにも突然すぎる。

龍はベッドに腰かけている。今日は珍しく、隣に里子が腰かけている。里子は窓の方を見ながら、

「ねえ、聞いて。今日ね、学校がまた大騒ぎだったの。……イケメンな王子とブスな姫が結婚するって」

龍はむきになって、

「しずくはブスじゃないよ」

え?と里子は驚いた顔で見てきた。龍は心の中で

(しまった……)

と後悔する。里子は探るように

「どうしてあなたが姫のこと知ってるの?」

龍はうつむく。言おうか言わまいか迷う。

「……そうか……君に、俺が上界に来た本当の理由をまだ話してなかったね」

里子は興味津々に近づいてきて、

「なになに?それ、聞かせて」

龍は悩んだ末、里子を信じようと思い、顔を上げた。

「この話は、他の人には内緒にしてほしい」

里子は強くうなずく。

「うん、内緒にする」

龍は少しの間里子を見つめた後、窓の方に視線を移す。

「実は、この世界に来る前に、俺と姫、梅山しずくは出会った。その後、色々あって、俺は下界に落とされ、しずくは上界に連れてかれた。俺はしずくにもう一度逢いたい、その一心でここまで来た。もう一度逢って、できれば王子との結婚を阻止して、二人で現世に戻りたい」

あっけらかんとした顔で、里子は龍の横顔を見つめてくる。

「あなたにそんな事情があったなんて……。でも、私が、男の子にそんな風に思ってもらえたら、どんなに幸せだろう?」

里子は少し上目遣いで見てくる。

「ねえ……龍くんは、私のことはどう思ってるの?……女の子として見ている?」

龍は少し頬を赤らめる。急に発情したのか?と思いながらも、

「美人だなぁとは思ってるよ……」

率直に思っていることを言った。

里子も頬を少し赤らめた。

「……それじゃあ、私が今、あなたと……寝たいって言ったらどうする?」

龍はちらりと里子を見る。里子はゆるめのパジャマを着ていて、少し胸元が見えている。エロイなあと思うが、すぐに目をそらし、

「ごめん……俺は一途なんだ。絶対に、浮気はしない」

里子はごまかすように笑いだした。

「な~んてね。嘘だよー。真剣に考えちゃった?」

ずるい女だ、と思った。俺の性欲で遊んできたのだろうか?

でも、こんな経験も悪くはないなと思う。もしかしたら、これも青春なのかもしれない。

龍はそんなことを考えながらも、二人でのひと時を大事に過ごした。


里子は制服姿で鞄を肩にかけ、靴を履く。

「行ってきまーす」

とドアを開けて外に出た。


里子は自転車の元へ小走りしていく。

「すいませ~ん」

隣の家から男の呼び止める声が聞こえてきた。何だろう?と里子は声のした方を見る。二人の警察官がこちらに向かって歩いてきている。年配の警察官の方が里子の前に来て、手元の住民票を見ながら、

「え~と、萩原里子さんでよろしかったかな?」

里子は少しおびえて顔が引きつる。

「はい、そうですけど……」

年配の警察官は警察手帳を見せてきて、

「私は警察の者です」

若い警察官の方も警察手帳を出して、

「同じく、警察の者です」

年配の警察官は手に持ったファイルを見ながら、

「ご存知のことと思いますが、先日、下界から侵入してきた者が行方不明となっています。ここら辺で目撃情報が出ているのですが、あなたはこの男を知りませんか?」

警察はファイルの中から一枚の写真を取り出し、里子に見せてきた。その写真は、背中から大きな翼を生やした神谷龍を横から撮った姿を映しており、龍の左腕からは流血している。里子はヒッと小さく悲鳴を上げて、

「し、しりません……」

里子は写真をまじまじと見る。

(これが……龍くんなの?)


龍は二階の窓から外を見ている。二人の警察官と里子が見えていて、

「あいつら……ついに調べに来たか」

ふと、若い警察官がこちらを見たような気がした。

「やべえ!」

慌てて壁に隠れる。


警察は写真をファイルにしまいながら、

「本当に知らないんだね?」

と念を押してきた。里子は強くうなずき、

「はい、知りません」

警察はやっと、顔をほころばせてくれた。

「悪かったね……君は高校生だろう?もう学校に行っていいぞ」

「あっはい……」

里子は逃げるようにして自転車を漕いでいく。里子が去ると、若い警察官が、

「先輩、この家ちょっと怪しいですよ。さっき二階の窓からこっちを伺う者が見えました」

年配の警察官は二階の方を見上げる。

「いや、気のせいだろう。あの女の子があんなに怖がってたんだ、犯人を家に入れるはずがない」


龍は壁に背をもたれて座りながら、そ~と窓の方に顔を出す。外を見ると、二人の警察官がちょうど去っていくところだ。龍はすぐに顔を引っ込めて、ほっと胸を撫でおろす。

「危なかったー。でも、俺が見つかるのも時間の問題かも……」

里子を信じてよかった。だがいずれ、警察に見つかり、戦うことになるだろう。

仕方ない。ここは、現世以上に監視社会だ。死んだ時からこの王国には個人情報が洩れている。

それでも、夢は諦めない。たとえ警察が敵だろうと、王が敵だろうと、戦い続ける。しずくを救い出すまでは。


龍はテーブルのイスに座って、左腕の包帯の巻かれた怪我の具合を見ている。包帯の隙間から中を覗いてみると、もう血は止まっているのが確認できた。龍はさらに指で包帯の隙間を広げて、傷口を見る。傷口の表面は青い竜の鱗のようなもので覆われているのが見えて、

「うえ!気持ち悪!」

龍は目を離す。その様子をキッチンからチラチラ見ていた麗子が、

「あなた、いつになったらその怪我治るの?いくら里子の彼氏だといっても怪我が治ったらあなたの家に帰ってもらいますからね!……それと、里子に何かあったら訴えることだってできるんだから」

珍しく苛立っている麗子に龍は驚き、

「あっはい!すみません!」

と頭を下げた。


里子は、ベッドに腰かけている龍に背を向けて布団の上で体育座りしている。二人の間には微妙な雰囲気と沈黙が流れている。

「あのね……今朝、警察があなたを捜しに来たの」

「うん、知ってるよ……そこの窓から見た」

里子は警察に何と言って逃れたのだろう?龍は興味を持つ。

里子はふぅと一呼吸おいて、

「警察から見せられた写真にね、あなたが写ってたの。でもそれが、ちょっと怖いというか不気味というか……。あなたの本来の姿って人間じゃないの?」

龍はおでこを指でおさえる。たぶん、里子にごまかしは効かない。

「う~ん……あっそうか、あの時……俺が銃で撃たれた時に撮られてたのか。俺も、その、よく分からないんだ。なんか、あの時、背中に違和感があって空を飛べたんだけど……自分がどんな姿だったかは分からない」

正直に告白した。ふ~んと里子は少し納得したのか、体勢を崩して後ろに手をつく。

「確かに、空を飛べなきゃこんな所まで逃げられないもんね。……でもやっぱり、あなた、普通の人間じゃないわ」

普通の人間になりたいわけじゃない。でも、里子の最後の言葉には少し傷ついた。



麗子、勇、里子、龍がテーブルを囲んで朝食を食べている。勇は食べ終わり、新聞を読み始めた。

「おお、今日が結婚式か。生放送でやってるみたいだぞ」

龍は箸をポロッと落とし、

「え⁉ 今日?」

勇はリモコンのボタンを押してテレビをつけた。

「王子様とお姫様の結婚式の模様です。生放送でお送りしています」

男性アナウンサーの声が龍の緊張を高めた。テレビには結婚式場の中が移っている。大勢の豪華な衣装を着た人々が集まっており、準備がされている様子だ。

「おーっと!王子様が現れました!」

神垣龍人が姿を現す。朱色の王子服を着ている。

龍はテレビをにらみつけ、

「……こいつが神垣龍人か」

こいつは間違いなく、敵だ。俺としずくを引き裂こうとする邪魔者だ。

龍が画面を凝視していると、龍人の後ろからしずくが現れて、

「お姫様が、この王国の新しい姫が現れました!」

しずくがアップで映された。朱色のドレスを着ており、その表情は不安げだ。

龍は大きく目を見開き、

「しずく……」

半年ぶりに、しずくを見た。一刻も早く逢いたい。龍の中で、その思いがいっそう強くなる。

テレビの画面が切り換わり、ニュースのステーションが映された。女のアナウンサーに代わって、

「次のニュースです。先日、下界から侵入した者について、新たな情報が公開されました」

画面いっぱいに龍の顔写真と名前、年齢や特徴などが表示された。

「神谷龍、16歳です。特徴は、王子に容姿がそっくりであること、凶器を持っていること、黒いマントに紫色の服を着ていることなど……」

萩原家の全員が一斉に龍を見た。龍は何を思う間もなく立ち上がり、玄関に向かって走り出した。

「この者を見つけたら、必ず、警察に通報して下さい」

里子も立ち上がり、龍を追いかけて走る。麗子は電話の受話器を取り、番号を打って通報する。


龍は玄関のドアを押し開けて外に飛び出す。里子は慌てて追いかけてきて、玄関のドアから顔を出し、

「待って!龍くん!」

龍は玄関の外の庭で立ち止まる。

「あなた、自分の服と剣忘れてるでしょ?今持ってくるから待ってて!」

里子はドアを閉めて、急いで階段を上る。


龍は周りを見渡して、

「結婚式場はどこだ?」

遠くの方から音楽やザワザワと人が騒ぐ音が聞こえてきて、龍はそちらの方を見る。龍から見て左の方には家々がずらりと並んでいるが、その奥にポコンと上に出っ張る大きな建物が見える。

「あれかな?……」

ガランガランと萩原家の玄関のドアが開いて、里子が龍の服を持って飛び出してきた。龍のもとへ走ってきて、

「はい、これ、あなたの服と剣……」

龍はピンクのTシャツを脱いでその服と交換し、すぐに着替えた。そして、道に出ようとすると、

「ねえ、龍くん、最後に一つだけ、話してもいい?」

龍は立ち止まる。突然すぎることに気持ちが急いていたが、里子とこのまま別れるのは申し訳ないし、寂しい気がする。

「……いいよ」

里子はすがすがしい顔をして、

「警察なんかに負けないで、しずくさんに絶対会ってあげて!私ね、龍くんのおかげで決心がついたの……私も必ず、本当の両親に逢いに行く!」

大切な人に逢いたい。俺たちが共有していた感情だ。里子には色々迷惑をかけたが、俺との出会いが彼女の中で変化を起こしたならば、俺の存在は無駄じゃなかった。

龍はうんっと強くうなずき

「俺も、必ずしずくに逢って、助け出すよ。……君の幸せも祈っている」

里子は頬を少し染めた。

「ありがとう……。私、あなたのこと、ちょっぴり好き」

今になって、感情が溢れ出してくる。里子ともっと話したかったし、一緒に過ごす時間もかけがえのないものだった。友達以上とは思わなかったが、里子は俺のことを特別に想ってくれていたかもしれない。胸が痛くなる。

里子に背を向けたまま、

「……里子、君のことは一生忘れない」

顔は見せられなかった。たぶん、俺の今の顔は、男として情けないものだ。

人は出会うと必ず、別れがくる。この世界に来てから、色々な出会いと別れを経験した。しずく、龍之介、じい、綾香、ゲン太、里子……。皆、俺にとって大切な人だ。でも、この別れは忘れないでおこう。今までのも忘れないが、里子から受けた恩と愛は大きかった。

龍は里子との別れを受け入れ、次なるしずくとの再会に向けて一歩踏み出した。


門の前には一人の警察官が立っている。龍は後ろから警察官の喉元に剣の刃を突き付けた。警察官の後ろにぴったりくっつき、

「銃と無線機を捨てろ」

あんまり好きなやり方じゃないが、目的のためには手段を択ばない。

警察官は命令した通り、銃と無線機を下に捨てた。

「……お前が、神谷龍か?」

こいつは勘が鋭いらしい。だが、俺は質問には答えず、

「門まで歩いて、門を開けろ」

と命じた。警察官はゆっくり歩き出して門の前で止まり、ポケットから鍵を取り出す。ガチャッと門を開けた。

「そのまま前に進め」

警察官が歩いて外壁の中の芝生に入ると、龍はサッと喉元から剣を離し、次の瞬間、思い切り警察官の後頭部を剣の柄で殴った。

「ぐはぁ!」

警察官は前のめりに倒れて気絶する。龍は剣を背中の鞘に納めて、結婚式場に向かって芝生の上を歩いていく。


様々な衣装が並ぶ中で、大きな髪飾りをつけた侍女がイスに座っている。龍人の青色の王子服を畳んでおり、

「これで、結婚式は何回目かしら?」

とつぶやく。この人はしずくの侍女の双子の妹だ。

楽屋のドアが開き、龍が中へ入る。

「あら!王子様、どうされました?あっいや、王子様ではないですね……」

龍は侍女をまじまじと見た。目をパチクリとさせる。

「あなたは……どこかでお会いしたことがあるような……」

侍女は少し首を傾げて、

「そうですねえ……会ったとすれば、飛行船の中かもしれないわ」

龍は合点がいき、ポンッと右手こぶしを左手のひらに乗せた。

「あ!あの時の!……衣装を選んでくれた人ですね」

侍女はさらに首を傾げて

「まあ、そんな気もしなくはないけど……。で?あなたは何の用事でここに?」

龍は頭をポリポリと掻く。とても〝結婚式をぶち壊しに来た〟なんて言えない。

「え~と、ちょっと事情は言えないんですけど……ここを通してもらえませんか?」

こんな言い方で通用するのか、自信が持てない。侍女はギロッと見てきた。

「いいですよ。ただし、私が入れたとは誰にも言わないで下さいね」


豪華な衣装を着た男女が社交ダンスを踊っており、クラッシックの音楽が流れている。龍人としずくは横に並んで新郎新婦席に立っており、しずくは今にも泣き出しそうな顔をしている。その新郎新婦席の横の廊下で龍は壁から半分顔を出してその様子を伺っている。

あと少しでしずくまで手が届くのに……龍人が邪魔だ。龍が歯がゆい気持ちでいると、龍人が動いて、横にいるケイリュウに、

「ちょっとトイレに行ってきます」

と言って席を外す。龍人は反対側の通路に出ていく。

絶好のチャンスだ。そう思った龍は顔を引っ込め、廊下を小走りしていく。


龍人は壁が青色の男子トイレに入る。手前の個室の中に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。朱色の王子服のズボンを下ろして、洋式の便座の上に座る。おでこを指で押さえて、

「しずくは、僕が嫌なのか?僕と結婚しても幸せにはできないってこと?……そうか、龍くんのことが忘れられないのか」

龍はそ~とトイレの中に入る。個室の閉まっている所を確認すると、周りをキョロキョロ見渡す。

龍人と俺以外、トイレの中には誰もいないみたいだ。

ふと、手前に大きな棚があることに気づく。

(これで閉じ込められるかも……)

いい案だ、と思った龍はその大きな棚を持ち上げた。

(意外と重いな。これならいける)

大きな棚を持って個室の前に行き、ガタンッと降ろして個室のドアにぴったりくっつけた。

龍人は顔を上げて、

「ん?何の音だ?」

うまく閉じ込められたみたいだ、と確認できた龍はサササーとトイレを出ていく。


龍は廊下を走る。社交ダンスをする男女が見えてきて、式場の表まで来ると、しゃがむ。壁から顔を出すと、新郎新婦席にしずくが立っているのが見えた。

もう少しだ。そう思うと龍は胸が高鳴り、気持ちが急いてくる。

「しずく!」

少し大きめの声で呼んだ。しずくはこちらを振り向く。あっと驚いた顔をして、

「龍⁉ 」

久しぶりにしずくの声を聴いた。龍はうんっと強くうなずき、

「しずく、こっち来て」

小声で言って手招きする。しずくは顔がパッと晴れて、

「龍、本当に龍なのね」

と駆け寄ってくる。しずくが近くまで来ると、龍は思い切って壁から飛び出して、しずくの手を掴む。

「しずく!逃げるよ!」

「うん!」

龍はしずくの手を引っ張って真正面に見えるガラス張りの窓やドアに向かって走り出す。ダンスをしている男女の間を走り抜けていく。

ケイリュウは後ろの通路を見ており、

「王子様は遅いですねえ……」

顔を戻すと、

「あら!お姫様がいない!」

そして前方に目を移し、しずくを発見する。

「お姫様!お戻り下さい!……神谷龍⁉ 」

龍に気づくとすぐに足元にいる魔法犬に向かって、

「ベルガー!今すぐ王子様を呼んできなさい!」

魔法犬ベルガーは

「ワンッ!」

と返事して通路を走っていく。


ズボンを履いた龍人はガンッガンッと個室のドアを押している。

「くそお!誰のしわざだ?」

ベルガーがトイレの入り口にやってきた。魔法犬ベルガーは耳がピンッと立っていて、体は黒と白のまだら模様で引き締まっている。

「ワンッそこに王子様はいらっしゃいますか?」

と犬はしゃべりだした。

「ベルガーか?」

龍人は右腕の袖をまくる。

「はい、そうです。王子様、大変です!神谷龍が姫を連れて逃げました!」

龍人は右手の手首を左手で掴み、

「やっぱり奴だったか……」

その手を前にかざし、ふんっと力を入れた。銀色の光が丸く大きく広がり、

「はあっ!」

と右手から銀色のビームを放つ。バンッ!バリバリッ!と個室のドアと大きな棚をいっぺんに破壊し、龍人は個室の外に出た。ベルガーの元へ行き、

「ベルガー、神谷龍を捕まえるんだ!」

「了解です!ワンッ」

ベルガーは走っていく。


結婚式場から少し離れた、人の少ない道を龍はしずくの手を引いて走る。しずくはとびきりの笑顔で、

「やっと、逢えたね!ずっと、逢いたかった!」

龍はしずくの方を振り返り、

「俺も、ずっと逢いたかったよ……」

こんなしずくの笑顔が見たかった。しずくの温かい手を握りたかった。しずくと話したかった。ずっと溜まってきた想いが、やっと、はき出される。

しずくはふふふっと笑って、

「あなた、ずいぶん髪が伸びたのね……龍人にそっくりだから、最初、分かんなかったよ」

龍は苦笑いする。

「恋敵にそっくりっていうのは……ちょっと嫌だな」

しずくは首を横に振って

「全然、恋敵なんかじゃないよ。私、龍人のことなんかちっとも好きじゃない」

本音だろうか?龍は一瞬疑ってしまうが、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。しずくの初恋相手は、間違いなく俺だ。そして、今も俺たちは想い合っている。

龍はそう強く感じながら、走り続ける。


ダンスを踊っていた人々は皆、会場の両サイドに寄ってざわついている。真ん中はガランとしていて、そこへ、魔法犬ベルガーが走ってくる。

「ワンッワーンッ」

と吠えてピョーンと高く跳び上がる。その瞬間、全身からピカーとまぶしい白い光が放たれる。


龍としずくが走る道にもう人は誰もいない。しずくは龍の背に向かって、

「ねえ、龍。私たち、これからどうする?」

それは、深刻な問題だ。俺たちの未来にはもう、一つの道しかない。

龍は前を向いたまま、

「もう、この王国には逃げ場はない……。だから、現世に戻る」

しずくは、え?と驚いて、

「現世に?……でも、どうやって?」

ボカーン!バリバリン!と結婚式場の窓ガラスや天井が破られる大きな音がする。

「なんだ?」

龍は振り返って後ろを見る。結婚式場から、巨大な生物が飛び出しているのを発見した。その巨大生物は巨大なちくわのような形で、いくつも羽が生えている。身体は黒と白のまだら模様で、犬のような耳が不釣り合いについている。丸く大きく開いた口の中には百本以上ある鋭く尖った歯がずらりと見える。

恐ろしいものを見るのにはもう慣れた。だが、しずくを助けるために、あの巨大な生物から逃げなければ。

龍は決心して立ち止まり、

「しずく、聞いて。俺は、空が飛べるんだ。俺が今からしずくを抱くから、そのまま飛んで、現世に逃げよう!」

しずくはうんっと強くうなずくが、後ろを見て、

「あのでかい奴、こっちに来てない?」

龍は巨大生物をにらみながら、

「大丈夫。俺がなんとかする」

しずくの後ろに回り込み、ギュッと胸の下を抱く。

「キャッ。ちょっとー、エッチ」

かまわず龍は目を閉じ、集中する。龍の目の周りに黒い太い線の文様ができ、カッと目を見開いた途端、背中からバッとマントを突き破って青く照り輝く竜の大きな翼が生えた。龍は両翼をバタつかせて空へと飛び上がる。

「わぁ、わぁっわぁっ」

地面が離れていくのを見てしずくは驚く。やがて驚きは興奮に変わり、

「すごいね!龍!こんなことができるんだぁ」

だが、龍は動揺していた。思うように飛ぶことができない。

「うん……でもちょっと重いな。あまり遠くには飛べないかも」

しずくは少し頬を膨らませて、

「えーそれって私が太ったから?……ショックー」

こんな時でも明るい、わがままな感じのしずくに龍は心が和み、笑みがこぼれた。

「確かにちょっと太ったかも……ってかしずくも髪伸びたな!」

しずくもふふふと笑う。

「そうねえ……ショートからセミロングになったって感じかな?でもね、私、元々このくらいの長さだったの」

「え?元々セミロングだったってこと?」

「うん、そうよ。私ね、中三の受験期までバレエを習ってたの。だから、髪は長めにしないといけなくて。でも、高校生になったら、バッサリ切っちゃって、憧れのショートにしたってわけー」

「へ~バレエかぁ……。見てみたいなぁ、しずくの踊りを」

きっと、素敵なんだろうと龍は頭の中でしずくが踊る姿を想像する。

二人がそんな呑気な話をしている内に、巨大生物は着々と龍の背後に迫ってきている。そして、

「ワンッ」

とその姿に似つかわしくない声で鳴いた。

「ん?」

龍は後ろを振り返ると、恐ろしい巨大な口が目の前に現れた。

「うわぁ!」

と驚いて、とっさにしずくを離してしまう。巨大生物はガブッと龍を丸のみする。

「え⁉ 龍ー!」

しずくは叫びながら落ちていく。ふと、銀色の大きな翼を背中に生やした神垣龍人がもの凄い速度で飛んできて、しずくをお姫様抱っこのように受け止める。しずくはショックで気絶しており、

「龍……」

と小さく呟いた後、龍人の腕に頭をもたれる。


鉄格子の檻が並んでおり、火の灯した柱がある。龍人は胸の高さ程ある魔法の杖を持って立っている。朱色の王子服の背には翼の生えた跡の形に破けた箇所が二つある。魔法の杖のてっぺんに紫色に光る球がついていて、その球の周りを土星の環のようなものが様々な方向に囲んでいる。龍人の左横には巨大生物が龍人の背丈よりも小さくしぼんでいる。

「ベルガー、お疲れ様。もう龍くんを出していいよ」

魔法犬ベルガーの変身した姿、巨大生物はブヘッと龍を吐いて出す。床に出された龍は唾でビチョビチョに濡れており、翼はもう生えていない。

「残念だったね、神谷龍くん……。君の作戦は大失敗だ」

と龍人は吐き捨てた。龍は完全に意識を失っていて、倒れたまま、微動だにしない。


しずくはベッドの中で半分目を覚ます。まどろみの中でふと、カーテンの開いたベッドの前を人影が通り過ぎるのが見えたような気がして、しずくは少し頭を上げる。

ガラガラと食器棚を開ける音がして、ポンッと何かを置き、またガラガラと閉める音が聞こえてきた。その後、ガチャッとドアを開ける音がして、部屋の中に少し光が射し込んでくる。

「王子様、お疲れさまでした。……例のあの人は、どうしましたか?」

ケイリュウの特徴的な声が聞こえてきた。

龍人は疲れ切った声で、

「牢屋に入れて、魔法の杖で凍らせておきました。凍らせておけば、竜の力も封じ込めておけます」

しずくは聞き耳を立てて、

(え?牢屋?……凍らせた⁉ )

どういうこと?龍は生きてる?大丈夫かな?

しずくはどんどん心配になってくる。

「そうですか。それは良かったです。……王子様、しっかりお休みになって下さい」

ケイリュウの声を最後に、バタンッとドアが閉められる音がした。部屋の中は真っ暗になる。しずくはベッドから起き上がろうとするが、全身に痛みが走り、

「いったーい」

と後ろに倒れて、そのまま眠りにつく。


朝になる。ベッドの中でしずくは目を覚ます。むくっと起き上がると、しずくの頬を涙が伝う。

「……私、泣いている……」

だが、涙を手で拭って、

「だめよ、私。泣いてなんかいられない。……龍を助けに行かなきゃ」

龍は私を助けにここまで来てくれた。今度は、私が龍を助ける番。

しずくは気を引き締めて、ベッドを出る。部屋の中をキッチンに向かって小走りする。キッチンに着くと、やかんを取り、水道の水を中にジャーと入れていく。

「凍らせられたなら……熱湯で溶かせるはず!」

しずくはこれからやろうとしていることに怖さを感じなかった。

龍を助けたい。その気持ちがしずくの中で溢れている。

水を止めて、やかんに蓋をし、コンロの上に置く。強火で火をつけて沸騰するのを待つ。しずくは後ろのベッドの奥の方を振り返って見た。丸く出っ張る柱のような壁がある。

「昨日、龍人はあそこから来たわよね……。もしかして、あの柱が牢屋に通じてるとか⁉ 」

しずくは下の棚の引き出しを開け始めた。

「柱の所にドアがあるのかも!それで、鍵をこの棚のどこかに閉まったのかな?」

謎解きをしている気分だ。やがて、棚の中に緑色のカードキーを発見する。

「あっ!これかな?」

カードキーを手に取って眺めていると、ピーとやかんのお湯が沸騰した音が鳴った。しずくは火を止めて、やかんの取っ手を持つ。


しずくは柱にカードキーをかざす。ドアの形にピーと壁に線が入って、ウィーンとスライドしてドアが開く。

「本当に開いた!」

と驚きながらも、緊張が高まってきて、カードキーをポケットにしまう。熱々の湯の入ったやかんを持って柱の中に入る。


そこは、薄暗くて見えにくいが、細い螺旋階段が下に向かって続いている。螺旋階段にはフットライトがついており、しずくは足元に注意しながら急いで下りていく。


牢獄の中は、朝だというのに薄暗い。鉄格子でできた檻が並ぶ。しずくは慎重に、周りを見ながら通路を歩いていく。やがて、通路の途中に火を灯した柱があり、その横に看守を発見した。看守は腰に鍵をぶら下げて立っている。しずくはそーと近づいていく。看守が気づかない内に、

「えい!」

とやかんの熱湯を看守の首にかけた。

「熱っ!」

看守が首を押さえて前のめりになったところに、

「やあ!」

しずくは看守の首を右手でチョップし、前に倒れさせて気絶させた。看守の腰から鍵が落ちて、しずくはそれを拾い、通路を小走りしていく。


朝日が射し込む小さな窓の横で、神崎竜也は壁に寄りかかって座っている。通路を走る音が聞こえてきて、

「なんだ⁉ 」

竜也は立ち上がる。しずくが竜也の牢屋の前を通りかかろうとして、竜也は

「待って!」

と叫び、通路側に走る。しずくは立ち止まり、

「誰?……」

竜也は鉄格子に摑まり、逸る気持ちを必死に抑えて、

「俺は神崎竜也だ。何も悪いことしてないのに、むしろ良い事をしたつもりなのに、こんな暗い所に閉じ込められたんだ。もうずっと長い間、ここに閉じ込められて気が狂いそうだ。だから、ここから出してくれないか?」

しずくは、真っすぐ竜也の瞳を見つめる。竜也の瞳は綺麗で、まだ輝きがある。

「うん、いいわよ。でも待ってて。私、他に助けたい人がいるの」

竜也はうなずく。しずくは通路を歩き出すと、竜也の牢屋の壁を挟んで隣の牢屋に神谷龍を発見する。

龍は大きな氷の中に閉じ込められて立っている。

「龍!」

しずくは慌てて牢屋の鍵を開け、龍の元へ駆け寄る。龍は眠ったように目を閉じている。しずくは涙が溢れ出してきて、

「龍、死なないで……」

上からやかんの中のお湯を全部かけた。ジュワーと氷が解けて行き、龍の頭だけが氷の外に出た。龍はゆっくりと目を開ける。

日の光に照らされてキラキラ氷の粒が舞う中、しずくの泣き顔が見えて龍は思わず微笑む。

「ありがとう、しずく……助けに来てくれたんだね」

しずくは大泣きして、

「うわ~んよがっだぁ生きてて……。でも、どうしよう?氷が少ししか解けてない」

しずくの泣き顔も、密かに見たいと思ってた。俺はしずくを安心させるように、

「大丈夫。意識が戻ったから、あの力が使える」

目を閉じる。意識を集中させる。

バッと背中から青く照り輝く大きな竜の翼が生え、バリンッバリバリッと氷の塊が割れていく。氷が砕け、破片が飛び散る。しずくは両腕で顔を覆うが、やがて腕を離し、龍の姿を見ると、

「すごい!龍!」

と龍に抱きつく。龍の胸に顔をうずめてくる。

「よし、しずく、このまま飛んで逃げよう!」

しずくは顔を上げて、

「いや、待って!ここの隣の竜也っていう人も助けてあげなきゃなの。……約束したから」

龍は横の壁を見る。

「隣かぁ……。ならば、助けられなくもない。……だけど、その人、悪い人じゃない?」

しずくは真剣な表情で首を横に振る。

「悪くないのに閉じ込められたんだって。すっごく真っすぐな感じで、綺麗な瞳をしている人なの」

龍は少し考えるが、しずくの純粋さを信じて、

「そうか……しずくがそう言うなら、やってみるよ」

龍は「ちょっと離れてて」と言い、しずくは龍から離れて鉄格子の所へ行く。龍は右手の拳を強く握り締める。ピカーと青い光が右手から四方八方に溢れ出す。壁に向かって走り、

「はぁ!」

と思いっ切り壁を殴る。ピキピキッと壁がひび割れて、ボンッ!バラバラと大半が砕け散る。


鉄格子に摑まって立っていた竜也は急に壁がぶち壊されて、

「わぁ!」

と腰を抜かして床に尻もちをつく。埃が舞う中、青い翼を生やした龍が現れる。

少しおびえた様子の竜也に、龍は近づき、手をさしのべる。

「君、名前は?あっ竜也だったっけ?」

竜也は龍の手を掴んで、龍は手を引っ張る。竜也は立ち上がり、

「ありがとう。俺は、神崎竜也。あなたの名前は?」

「俺は、神谷龍だ」

龍はなんだか、竜也に自分と同じものを感じた。似た者同士かもしれない。

しずくも壁の穴から入ってきて、

「そして私が梅山しずく」

竜也はパッと顔が晴れて、

「あ、さっきの!……しずくさん、ありがとうございます」

和やかな雰囲気なのはいいが、龍は現実的なことを考え始める。

「君は俺より背が高いから、しずくを抱えて、さらに君も持って飛ぶのはきついかも」

竜也は龍の背の翼を見て指さし、

「あ、それ……もしかして、空を飛べるとか?」

龍は自分の翼を見つめて、

「うん、そうだよ。初めて見る人には不気味かな?」

俺も初めてこの竜の鱗を見た時はびっくりしたもんなーと龍は思い出す。

が、竜也は首を横に振った。

「いや、初めてじゃないんだ。実は、俺、捕まる前に背中に何かが生えた感覚があって、気づいたら飛んでいた。それと、戦ってた時に左半身に違和感があって、左腕を見たら、そういう鱗で覆われていた」

龍は驚いて目を大きく見開き、

「それは、竜の力だ!君にもたぶん、竜の力があるんだよ!」

似たものだと感じたのはそれだったか。龍は納得すると共に興奮した。

竜也は首を傾げて、

「竜の力?」

だが、少し離れた通路の方から、

「奴らはどこだ!」

怒声と何人かが走る音が聞こえてきた。

龍は少し焦り、

「もう、時間がない。君にも竜の力を使ってもらわなきゃだ」

「でもどうやって?あの状態にどうやったらなれるんですか?」

竜也の率直な疑問に対して、龍は一つの答えが浮かんでくる。今までの経験からそうとしか考えられないことだ。

龍は、ふぅと一呼吸置き、

「心の中で、竜の神を呼ぶんだ」

「竜の神……」

竜也はとっさに右手の拳を胸に当て、目を閉じる。


真っ暗闇にスーと竜の顔が現れる。立派な角が生えている。

「竜也……」

ドス太い声で竜の顔がしゃべりだした。

「あなたが竜の神様ですか?」

竜也は心で念じて問う。

「そうだ。君がやったことは素晴らしいと思う。……下界の子供達とその親を救ったのだから」

やっぱり俺は良い事をしたんだ。竜也は自信がついてくる。

「光栄です。もう一度、あの時の力を与えてくれませんか?」

「もちろん」

竜の顔がスーと消えて暗闇に戻る。


竜也はカッと目を開く。背中から金色の光り輝く大きな竜の翼が生えた。

「おい、お前ら!手を上げろ!」

通路側に警察官たちが集まってきて、龍、竜也、しずくの三人に銃を向けた。

「キャ!」

としずくは龍の胸元に抱きつく。

「竜也!飛ぶぞ!」

「はい!」

龍と竜也がダンッと飛び立つと同時に、

「撃てえ!」

一斉に発砲された。


天井を突き破ってしずくを抱えた龍と竜也は牢獄から飛び出す。外は真っ青な空で、両翼をバタつかせながら三人はぐんぐん牢獄から離れていく。ふと、下を見た竜也は、はっと息をのみ、

「ここが……上界か?」

「たぶん、上界の中心かな?しずく」

しずくは龍の胸にうずめていた顔を離して、

「うん、そうだよ。ここが、上界の中心。とてもきれいな眺めね……」

塔の上の方から、もの凄い勢いで急降下してくる者が現れる。朱色の王子服の背中に銀色の大きな竜の翼を生やした神垣龍人だ。両手に二つ剣を持ち、もの凄い形相で、

「神谷龍ー!」

と剣を突き刺すように突進してきた。

「!」

龍は身をひるがえして攻撃をかわす。次の攻撃を仕掛けようと空中で体勢を整える龍人から離れるように、龍は飛ぶスピードを上げる。だがふと、また塔の上方から、もの凄い勢いで急降下してくる者が現れる。赤色の巨大な紙飛行機のような形をしたグライダーにぶら下がるケイリュウだ。ケイリュウは魔法の杖を持ち、龍としずくの前に下りてきて、

「ゲブラビダ、ドーザー!」

と呪文を唱えた。魔法の杖の球から、紫色の光が溢れ出し、ケイリュウが二人の前を通り過ぎると、

「わぁっわぁ!」

しずくの体が龍の腕を離れて浮き上がり、どんどん上へ上昇していく。

「しずくー!」

と龍は追いかけようとするが、龍人に追いつかれ、龍人は剣を縦に振る。龍は横に飛んでかわす。龍は背中の剣の柄を握って抜き出そうとする。だが、龍人の動きが、止まった。龍人の首根っこが竜也の金色に光る左手で掴まれている。竜也の左半身は人型の金色の竜と化しており、竜の鉤爪が龍人の首に食い込んで血がたらーと垂れた。

「お前、……俺と戦え」

竜也は闘争心にみなぎっている。

その三人の下で、グライダーにぶら下がって降下するケイリュウは手や顔がしわくちゃになって急に老人化し、

「王子様……あとは任せました」

としゃがれた声で言って目を閉じた。


「わぁっわぁ!」

しずくはついに塔のてっぺんの雲の上まで上昇させられた。魔法が解けて雲の上にストンッと落ちる。しずくは尻もちをつくが、後ろを振り向いて下を見下ろし、

「龍ー!大丈夫?」

と大声で言った。だが、レッドのゲンコツがしずくの頭をガンッと殴り、しずくは倒れて気絶する。

「おいお前ら!こいつ運べ!」

レッドは怒鳴った。

「へい!了解です!」

チビデブで赤鼻の兵士とのっぽで痩せ細った兵士の二人組が、えっさ、ほいさ、と担架を運んでくる。


青空の下。神垣龍人と左半身が金色の竜と化した竜也は空中で止まって対面する。

「君は何者だ?」

龍人は怪訝そうな顔で問う。

「俺は奴隷だ。でも、ただの奴隷じゃない」

竜也の答えに、龍人は苦笑する。

「確かに、君のその姿は普通じゃない。……竜の力を極限まで高めるとはね……。まあ、やろうと思えば僕もできるんだけど」

龍人の右半身が顔から足まで青い炎に包まれる。そして、右半身が銀色の竜の姿になった。

「……お前こそ何者だ?」

竜也は少しだけ、胸がざわついた。自分の姿を鏡のように映したものが、目の前にあるような感覚だ。

龍人は両手の二つの剣を前に構えて、

「僕はこの国の王子だ。王国の秩序を守るために、僕は戦う!」

龍人は竜也に向かって突進する。

「王子か……なおさらムカつくなぁ!」

竜也が捕まったのは王国の秩序のせいだ。それを守るとは、胸がむかむかしてくる。竜也も突進し、ガンッ!と剣と竜の鉤爪がぶつかる。


「しずくー!」

龍は塔のてっぺんの雲の上まで飛んでくる。

「この雲、乗れるのか?」

と疑いながらも、躊躇する暇はなく、雲の上に着地した。

「しずくはどこだ⁉ 」

首を振って周りを見渡すが、近くに人は見当たらない。ふと、奥の方の王室に気が付く。

「なんだ?」

そこに何かがあるような気がして、王室に向かって歩く。王室の中央の王座に子供が座っており、右の端には、銅像が直立不動で立っている。龍が近づくと、ホケーと遠くを眺めていた子供は、

「おや?誰じゃ?……」

と龍を見る。龍はぐんぐん近づき、

「お前こそ誰だ?子供がこんな所で何をしている?」

子供はバチンッ!と尻の下に敷いた竜の尾を床に叩きつけ、顔を真っ赤にして

「無礼者め!わしは王じゃぞ!正座しゅろ!」

龍は立ち止まり、

「王?……ならば、しずくはどこへやった?」

王はペッと唾を吐く。

「姫のこときゃ?あやつなら、地獄に落としてやっちゃわい!」

龍は右腕の袖をまくって、

「地獄⁉ てめえしずくに何しやがった!」

怒りが沸々と湧いてきて王に近づく。王は、

「レッド!こやつをちゅかまえろ!」

銅像だと思ってたレッドと呼ばれた奴が槍を持って走ってくる。槍を突き出してきた。龍は右手の拳を強く握り締める。青い光が右手から溢れ出し、その拳でレッドの腹を殴った。上半身が裸のレッドは、

「ぐはぁ!」

と腹がえぐれて、後ろに吹っ飛ぶ。雲の上に倒れて、雲がクッションのように受け止めたが、レッドは完全に気絶する。

「レッド!レッジョー!うえ、うえ~ん」

王は泣き叫びながら立ち上がり、よちよち歩きでレッドに近づく。龍は両翼をバタつかせてダンッと飛び去る。


龍は上界の街に向かって降下していく。

「地獄ってどこだ?」

ふと、住宅街の方の、自分が破壊した門が目に留まった。その門には黄色いテープが✕印に貼ってある。

「もしや、あそこか?……鬼がいた所?」

直感的に地獄と言えば鬼が思いついた。龍はその門に向かって急降下していく。


ブンッと竜也は鉤爪で殴り、ガンッ!と龍人の左手に持った剣に当たる。

「あっ!」

殴られた勢いで剣が吹っ飛び、シュリンシュリンと下に落ちていく。

竜也は龍人の目を見て、

「お前、心に迷いがあるな……」

龍人はビクッとして後ろに少し下がった。

「さっきからお前の攻撃に気迫がないぞ。本当は戦いたくないけど、戦わされてるのか?例えば王さまに命令されているとか」

龍人はあっと何かに気づいたようで、

「王さま⁉ もしかして、しずくに罰を与えてるかもしれない!」

竜也は突進しながら

「それがお前の迷いか。しずくさんのことだな?」

竜の鉤爪を龍人は右手に持った剣で受け止めた。

「もう、無駄な戦いはやめよう。君も、しずくを助けるために協力してくれないか?」

竜也は少し離れて、

「うんっ……しずくさんは俺の命の恩人だからね。あの人のためなら協力するよ」


上界と下界をつなぐ柱の中。龍は螺旋階段をグルグルと回りながら急降下していく。やがて、鬼のボスと戦った踊り場にドスンッと着地し、

「おい!鬼ども、そこにいるのか?」

龍の声が柱の中に響き渡る。だが返事はない。周りを見渡すと、踊り場につながる鬼の巣窟には生き物の気配が感じられない。龍は巣窟に向かって歩いていく。


巣窟の一室の中は薄暗く、ベッドも何もなく、ドロドロした液体が床や壁についている。龍はビチャビチャッとその床を歩いて

「鬼どもはどこへ行ったんだ?」

一匹もいないのはおかしい。何かが起こっている。

奥に窓があるのを発見し、

「……この外は下界か?」

窓に近づき、右手の拳でバリンッと割る。そして、外に飛び出す。


窓から飛び出した龍は空中で止まる。目の前には下界の懐かしい街並みが広がっている。龍は急に、じいや綾香、龍之介、ゲン太のことが思い出され、逢いたくなる。が、真下からの声で現実問題に戻される。

「えっさ、ほいさ」

という掛け声だ。龍は真下の柱の根元の方を見る。

二人の兵士が運ぶ担架の上にしずくが横たわっているのが見えた。

「しずく!」

龍は大声で呼び、急降下する。二人の兵士はしずくを運んで地下への階段を下りる。

「待てー!」

龍は必死に、飛ぶ速度を上げて迫っていく。地下への入り口にたどり着く寸前で、ザザザーと大きな石によって入り口が閉ざされた。


地獄の中。二人の兵士は

「えっさ、ほいさ」

と斜めの階段を下りる。冷たい床に降り立つと、巨大なぶっとい鉄格子でできた檻が見えてくる。二人の兵士はその檻の前で止まり、しずくを乗せた担架を下ろす。

チビデブで赤鼻の兵士が檻の鍵を開けた。檻のドアが開くと、二人の兵士は

「よいしょっこらしょっ」

担架からしずくを持ち上げて檻の中に入り、しずくを檻の真ん中に下ろして、サササーと出ていく。檻のドアを閉めて、鍵をガチャンとかけた。

「よし、これで俺たちの仕事は完了だ」


龍は両腕に力を込めて大きな石を持ち上げようとする。

「くそぉ!……重てえ」

焦ってくる。しずくはこの地下、おそらく地獄に入れられてしまった。一刻も早く中に入らないと……

だがふと、柱を挟んで向こうの方から声が聞こえてくる。

「姫が来るんだべ。楽しみだな」

「そいつ、かわいいのかな?うめえのかな?」

龍は、はっと顔を上げ、石から手を離し、

「奴らか?鬼どもか?」

声のした方に走っていく。


しずくは気絶したまま檻の真ん中に横たわっている。ふと、檻の周りにワサワサと4足歩行の鬼たちが集まってくる。鬼たちは鉄格子に摑まり、

「あれが、お姫様か?」

「かわいいなぁ」

しずくは目を覚ます。ゆっくり上半身を起こすと、ズキッと頭に痛みが走り、

「痛っい……」

と後頭部を押さえる。

「声もかわいいなぁ」

「え?」

しずくは周りを見渡す。何匹もの鬼たちが鉄格子に摑まって、三つある黄色い目でしずくを見てニヤーと笑った口からはよだれが垂れている。

「キャ!気持ち悪っ!」

しずくは後ずさりする。鬼たちは口々に

「うまそうだなぁ」

「食べたいなぁ」

「襲いたい……」

「キャぁぁぁ!龍、助けて!」

しずくは叫び、耳を塞ぎ、目を閉じた。


巨木のようなぶっとい柱をグルリと龍は走って回り、反対側まで来た。4足歩行の鬼たちが地下への階段を下りるのが見えて、

「閉じるな!」

と駆け寄る。地下への入り口が閉まり始めたところで、龍は滑り込んで中に入る。


4足歩行の鬼たちは階段から飛び降りて、下にうじゃうじゃいる鬼の集団に紛れる。龍は翼を大きく開いて、上から

「てめえらどけえー!」

ドス太い声と二重になって轟かせた。鬼の大群はワサワサよけて、そのど真ん中に龍は着地した。周りを見渡すと、鬼たちの後ろの右の壁や左の壁には火の灯した柱が何本もあり、前方の奥には巨大な檻の上の部分が見える。

「しずくは⁉ あの檻ん中か?」

4足歩行の鬼たちがよだれを垂らしながら黄色い目をぎらつかせて近寄ってきた。

「邪魔すんな!」

龍の額に青い紋章が現れる。両腕が肩からもりもりと盛り上がって太くなり、表面は青く照り輝く竜の鱗に変わる。シュルシュルシュルと太い腕が伸びていき、大蛇のようになる。

「おらぁぁぁ!」

その両腕を振り回してバチンッバチンッと鬼たちを叩いて蹴散らす。さらに、ダダンッ!と両腕を地面に埋め込むと、ウニョンウニョンと噴水のように地面から出ては鬼を吹っ飛ばし、また地面に入っては鬼を叩きつけてを繰り返す。鬼たちはギャーギャー喚いて逃げていき、龍の前方に一本の道が開く。

龍は、はっと前を見て、奥の巨大な檻の中で耳を塞いでうずくまっているしずくを発見する。

「しずくー!」

声が普通に戻って、太い大蛇のような両腕も抜け殻になって脱皮し、普通に戻った。腕の部分の服が破けて半袖になる。龍は走り出し、少し空中に浮いて、

「しずく、しずくー!」

と何度も叫ぶ。


しずくの耳に龍の声が届く。しずくは耳から手を離し、目を開けて顔を上げ、

「龍⁉ 」

鉄格子の向こうにこちらへと飛んでくる龍を発見した。

「龍ー!来てくれたのね!」

よろよろと立ち上がる。


龍は檻に真正面から突撃し、バリバリッと鉄格子を破壊して中に入った。しずくを抱きかかえて、真上に向かって飛び立ち、檻の天井を突き破って檻の外に出る。


龍はバサッバサッと両翼をゆっくりバタつかせて、檻の上の空中で止まる。お姫様抱っこしたしずくを見つめて、

「しずく……無事でよかった」

様々な想いが、こうしてしずくを見ていると溢れ出してきた。

しずくは微笑み、

「龍、けがはない?」

と消え入りそうな声で訊く。

「うん、大丈夫だよ。でもちょっと疲れてきたな……」

さすがに無茶をしたかな……

体力を消耗した龍はふらふらーと横に飛んでいく。


龍は檻の横の地面に降り立ち、しずくを下ろす。しずくはそのまま力が抜けたように横たわって、龍はその前でしゃがむ。

「しずく……動けるか?」

しずくはゆっくりと上半身を起こした。

「うん、なんとか……。でも、逃げられないかも」

しずくも俺も、体力は限界に達していた。でもしずくを安心させられるのは俺しかいない。

龍は微笑んで、

「大丈夫。俺が、飛んで……」

今度こそ俺がしずくを抱えて逃げるんだ。そう思った時。

額の紋章が消え、パッと両翼が青い光の粉に変わった。龍は自分の背を振り返り、

「翼が、消えた?」

そんな……翼がなければ飛べない……

青い光の粉が消えると、上方から、

「はっはっは!お前の力もそこまでか!」

異様な程太い、一番聞きたくなかった声。忌々しい者の声が聞こえてきた。

龍は上方を見上げる。無数の棘のある黒紫色の巨大なタコの足のようなものが7本うねっているのが見える。それは、ゆっくりと下りてきて、檻の前にドスンッと着地した。その姿は、巨大な竜の顔と立派な二本の角、ぶっとい首とごっつい肩があり、その下には巨大なタコの足のような太い竜の腕が7本生えている。その腕には無数の棘があり、腕の先の竜の鉤爪に持つのは7本の剣だ。黒紫色の竜の化け物の左肩の上に、忌々しい声の主、鬼のボスが立っている。鬼のボスの顔と上半身には縫ってくっつけたような醜い跡がある。

「この間はひどい目に遭わせてくれたな!俺様が死にそうになるなんてよ!……だが、残念だったな、俺は生き延びた。そして、こいつは俺の最強の部下だ!」

最悪の事態だ。竜の力が使えないとなった今、剣で戦う以外に方法はない。

今まで戦った中で最も凶暴に見える敵を前にして、龍はよろよろと立ち上がった。鬼のボスは竜の化け物に向かって、

「おい、攻撃しろ」

と命令した。一本の腕がビュンッと動いてその先の剣が龍の前に迫ってくる。龍は背中の剣の柄を握るが、

(間に合わない!)

と目をつぶる。ガンッ!と剣と剣がぶつかる音が響いた。

え?なに?

龍は目を開くと、目の前に立つのは右半身が人型の銀色の竜と化し、銀色の両翼の生えた神垣龍人だ。

「間一髪だったね。龍くん、しずく、あとは僕たちに任せて」

敵だったはずの龍人がなぜ?

龍は唖然として口をポカーンと開け、

「龍人か⁉ その姿は……」

龍人の姿に目を見張り、感嘆する。

龍人の左横に、左半身が金色の竜と化し、金色の両翼を生やした竜也が飛んできて着地した。

「遅くなって悪かったな」

「竜也!」

援軍が来てくれた。龍はとりあえずホッとするが、

「説明する暇も、喜ぶ暇もないよ。竜也くん、この剣を受け取って」

龍人はあくまでも冷静だ。左手に持つ、刀身と柄の間が赤い炎のように横に広がる剣を竜也に渡す。竜也が右手で柄を握ると、赤い炎のような部分の中心の透明な球が金色に変わった。鬼のボスは少しビビったように、

「お、お前ら何者だ……。と、とりあえず攻撃しろ!」

竜の化け物の二本の腕が竜也と龍人をめがけて飛んでくる。二人とも剣を構えて、ガンッと剣を剣で受け止め、二人同時にダンッと飛び立つ。


竜の化け物が何本もの腕を高速で動かして攻撃してくるのに対し、竜也と龍人は、飛び回りながら、かわしたり、腕に剣を斬りつけたりしており、壮絶な戦いを繰り広げている。龍はしばらく目を見張って観戦していたが、ふと、しずくの方を振り返り、

「あっ……しずく、今の内に逃げるか」

竜也と龍人のおかげで地獄の外までは逃げられそうだ。龍はそう思ったが、しずくは首を横に振った。

「私、逃げない!ここで、竜也くんと龍人を見守る!」

しずくをもう危険な目に遭わせたくない。龍の思いは強かったが、しずくの方が勝っていた。しずくは目を大きく開き、唇を強く噛み締めている。その顔は、強い意志がある。龍は諦めて、

「分かったよ……。でもここは危ないから、少し下がろう」

「うんっ」

しずくと龍は少し後ろに座り、二人で並んで戦況を見守る。


シュッと龍人が竜の化け物の一本の腕を剣で斬り落とす。切り口からビュッと血が噴き出し、

「んがぁぁぁぁ!」

と竜の化け物は大きな咆哮を上げた。竜也はガンッガンッと化け物の持つ二本の剣を自分の剣や鉤爪で化け物の手から振り落とす。


戦いの最終局面。龍人は右から、竜也は左から、クルックルッと空中で縦に回転しながら、シュッシュッと竜の化け物の腕を斬り落としていく。どんどん竜の化け物の顔に近づき、やがて、二人同時に竜の化け物の大きな目をめがけて、

「はぁ!」

剣を突き刺す。ズボッと剣が深く入った途端、ピカーとまぶしい真っ白な光が両目から四方八方に放たれて、

「バンッバリン!バリン!」

と顔から首にかけて砕け散り、その破片がもの凄い勢いではじけ飛ぶ。鬼のボスに破片が直撃し、

「うわぁぁぁ!」

と肩から吹っ飛ばされた。竜也と龍人にはもの凄い風圧がかかり、弾き飛ばされるが、ザザザーと地面に着地してなんとか持ちこたえた。龍人は、

「……やった!……勝った……」

よろよろしながら、しずくと龍の元へ歩いてくる。パッと右半身が銀色の光の粉になり、元の龍人の姿に戻る。両翼もパッと銀色の光の粉になって消え、しずくの前でよろけて倒れた。

「龍人!」

しずくは龍人の横に回り込み、顔を寄せて

「……ありがとね、龍人。私のために、こんなにまでしてくれて……」

竜也も歩いてきて、龍は立ち上がり、駆け寄る。

「竜也、よくやった!」

本当によく頑張ってくれた。龍は竜也をねぎらう。

竜也も左半身が元に戻り、背中の両翼も消えた。フラッと前のめりに倒れて、

「おっと」

龍は腰をかがめて竜也を受け止めた。竜也は龍の肩に顔を預けて、

「これで……あん時の恩が、返せたかな」

だが竜也の背後。首の一部と両肩、数本の腕だけのボロボロの姿の竜の化け物がいる。その残った腕の内、一本が動き出す。その腕は目で追うことすらできない程速く、竜也の横を一瞬で通り過ぎたことは分かり、龍はあまりの速さに動くこともできない。目でやっと追えた時には、すでに腕の先の剣がしずくの背中に迫っていた。そして、ズボッとしずくの背中に剣が刺さり、お腹まで貫かれる。

「え?」

しずくの背中とお腹から血が噴き出す。

声が出なかった。龍はこの世の終わりが来たかのように、全身が小刻みに震えて、視界が真っ白になったように意識が遠のく。

「しずく!」

「しずくさん!」

声を出せたのは龍人と竜也だ。ようやく視界がはっきりした時には、化け物の腕が動いて剣が抜かれ、しずくは前のめりに倒れた。龍人は勢いよく起き上がり、

「しずく!しずく!」

必死に叫んでしずくの体を仰向けにする。

龍はやっと体が動いた。声は出ないが、竜也をそのままに、一目散にしずくの元へ駆け寄る。

「しずく!死ぬな!」

龍人は両手をしずくの腹の傷口に当て、銀色の光を放つ。龍はしずくの横でしゃがみ、しずくの手を握る。

「龍人!傷の具合は?治せるのか?」

声が出た。頭も徐々に働き始めている。だが龍の胸は激しくざわついていた。

龍人は額に汗をかきながら、

「分からない……僕の魔法の力と竜の力でなんとかする!」

竜也も駆け寄ってきて、しずくの足元でしゃがみ、両手を前で組んで祈りのポーズをとる。

ー数分後。龍人の両手から銀色の光が消え、龍人は両手をしずくの腹から離す。手で額を拭い、

「これで、たぶん傷は治せた。出血も止まったけど……意識が戻るかどうか……」

龍はしずくの手を強く握り締めて、

「しずく!起きてくれ!」

必死に懇願する。だが返事はない。龍は恐る恐る、しずくの胸に耳を当てた。

「嘘だろ……心臓が、動いてない!」

全てを、疑いたくなった。今目の前にある現実が、どんどん冷たくなるしずくの手が、すべて嘘であることをただひたすら願う。

竜也はたまらず、身を乗り出し、

「俺に、何かできることはないか⁉ 」

それは龍も同じ思いだった。龍人はふぅと一呼吸置き、

「一つ……。一つだけ、方法はある」

龍と竜也は一斉に龍人を見た。龍人は真剣な表情で、

「僕たち竜の力を持つ者は、体の中に、膨大な生命エネルギーを宿す石があるんだ。ここにいる三人の内、誰かが、その竜の石をしずくに移植すれば……」

龍は息をのむ。

「そうすれば、しずくは助かるのか?」

龍人は強くうなずいた。

「その方法なら、おそらく、しずくは助かる。だけど、竜の石を体から失った者は、死んでしまうかもしれない……」

ドックンドックンと龍の心臓が高鳴る。

俺の命としずくの命。どちらも等価値で大事だが、しずくへの想いは、とめどなく溢れてくる。しずくが生きてさえすれば俺はどうなってもいい。そう思えるくらいだ。

龍はしずくの顔を見つめ、それから龍人の目を真っすぐ見る。

「分かった……俺が、やる」

龍は胸の真ん中に両手を当てる。目を閉じて、全エネルギーを一点に集中させる。両手の中に、一つの青く光り輝く石が現れた。龍は目を開けて、

「これが、……竜の石……」

温かく、心地の良い感触だ。竜の石をしずくのお腹の上に両手で押さえつける。

青い光が両手から漏れ出し、やがて、その光も消える。

プクーと急にしずくの腹が膨らみ、妊婦さんのようになった。龍の体は光に包まれて薄くなっていく。

「んんあ!」

しずくは目を覚ます。龍の体はほとんど消えかかっていて、それを見たしずくは

「龍!……どうしたの?」

龍は光の中で微笑む。

「ごめん、しずく……さようなら……」

龍はパッと青い光の粉に変わって消えた。

「え⁉ 龍!龍!」

しずくは光を手で掴むように必死で上半身を起こす。

「龍……死んじゃったの?……」

私はずっと暗闇の中にいた。もう自分は死ぬと思ったのに龍が死んだ?

しずくが困惑していると、龍人はしずくの膨らんだお腹を見て、

「いや、龍くんは死んでない……君のお腹の中で、生きている」


10


病院の最上階の一室。しずくはベッドの上で寝ていて、数人の助産婦が周りを取り囲んでいる。

「いったーい!」

としずくは叫び、額に汗ばむ。

「はい、息を吸ってー。はいてー」

掛け声と共にしずくは踏ん張る。

その一室の出口付近に数人の兵士が槍を構えてしゃがんでいる。

「恐ろしいものが産まれてくるらしいぜ」

「出てきたらすぐに仕留めるぞ」

しずくは思いっ切り腹に力を入れて、

「ふんっ!んん……はぁ!」

キーキーと奇妙な鳴き声が聞こえ、ピョーンとしずくの尻の方から小さな青い竜が飛び出す。バタバタッと翼で羽ばたいて飛び上がり、小さな手でしずくの手を掴む。

「龍⁉ ……龍なのね!」

しずくは小さな竜の手に引っ張られて、ベッドから起き上がり、出口のドアに向かって走り出す。待ち構えていた兵士たちが、

「仕留めろー!」

と一斉に槍を突き出す。小さな青い竜はブハァーと赤い炎を吐いて、槍を弾き飛ばし、しずくを連れて、出口のドアを押し開けて外に出た。


屋上に出て、病室からだいぶ離れると、小さな青い竜はしずくの手を離す。

ぐんっぐんっぐんっと青い竜は、どんどん大きくなり、やがて、立派で巨大な青い竜に変わる。ドスンッとしずくの前に着地し、巨大な尾をしずくの目の前に垂らした。しずくは巨大な尾から登っていき、青い竜の背の上に座る。

青い竜はバサッバサッと巨大な両翼をバタつかせて夜空へと飛び立つ。


巨大な青い竜は背にしずくを乗せて、もの凄いスピードで夜空を飛んでいく。そのはるか下の方はだだっ広い草原が広がっている。しずくは大はしゃぎで、

「わぁー!すごーい。はやーい!」


左斜め下にはあの電車で通ったトンネルが見える。ウニョンと泡の中から膜を突き破って出るように、あの世とこの世の境目を出て、現世にやってくる。

学ラン姿に戻った龍とその背に摑まる制服姿に戻ったしずくが現世の夜空を飛ぶ。龍の髪は短髪に、しずくはショートに戻った。唯一、龍の背中に生えた大きな青い翼だけが残っているが、

「やったぁ!全て、元に戻った!龍も、元の普通の高校生に戻ったじゃない!」

しずくは大喜びだ。龍は喜びをかみしめて微笑み、

「まだ、翼だけは残っているけど……現世に戻れて、しずくと一緒にいられて、俺は幸せだよ」

幸せになりたい。その願望は、高校に入ってからずっと心の奥底にあったものだ。しずく。俺が初めて恋をして、初めて心の底から好きになれた人。しずくと共にいるこの時間が、二人きりになれる時間が、どれほど愛おしく、大切なものなのだろうか。

「私も……幸せ……」

しずくはぴったりと龍にくっついて、二人は幸せに包まれながら夜の街の上を滑空する。

「あれ……俺たちが乗ってた電車じゃない?」

レールのないはずの所を電車が走っている。

「そうねえ……またあの世に向かっているのかな?」

龍は、しずくに初めて出会った頃のことを思い出す。初めはパニックで恋心を抱くとは思ってもみなかった。

しばらく飛んでいると、下に大きな公園が見えてきた。

「もう、秋だね」

「うんっ……風が気持ちいいわ……それに見て、紅葉がきれい」

公園の木々が紅色に染まっている。

秋の夜景は美しい。夜空は気持ちがよく、ほんのりしずくの温もりを感じる。

「ほんとだ」


しずくをしょった龍は住宅街にフワッと下りていく。しずくは龍の肩に顎を乗せて、両腕を龍の首の前に垂らしている。龍は道に静かに着地して、しずくを降ろす。

「家、ここら辺なんだね」

しずくはこちらから三軒目ぐらいにある立派な一軒家を指さす。

「あそこー。龍の家はどこ?」

「わりとここに近いよ」

しずくはとびきりの笑顔で、

「それじゃあ、遊びに行けるね!」

龍はしずくを見つめる。しずくのきれいな瞳、麗しい唇、かわいらしい仕草。

すべてが愛おしく感じられる。

しずくも上目づかいで見つめ返してくる。

「ねえ……また龍に逢いたいな。……というかー」

頬を赤らめて、

「私と、付き合って!」

思い切ってそう言ってくれた。龍は笑顔でうなずき、

「うんっいいよ……」

だが、少しうつむく。疑問が浮かんできた。このまま俺だけ幸せになっていいのだろうか?やり残したことが、幸せになる前にやるべきことがあるかもしれない。

「でも、ちょっと待ってて……まだ、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「え?……何?」

心に引っかかっていたことがようやく分かった。

龍は真っ直ぐしずくを見て、

「竜也と龍人を助けなきゃ……あいつら、このままだと王に罰せられちゃう」

今、こうして現世に戻ってしずくといられるのは、竜也と龍人のおかげだ。二人を見捨てて自分だけ幸せになるわけにはいかない。

しずくは龍の手を握って、

「だめ!行かないで……せっかく元に戻れたんだから」

必死に止めようとした。龍の心が揺れ動く。だが、しずくへの愛がこみ上げてきて、龍はしずくを抱き寄せる。唇にやさしく接吻する。

初めてのキス。少々強引だが、しずくの唇は感触がよかった。

そっと顔を離して、

「大丈夫。必ず、戻ってくる」

しずくは耳まで赤くなって、

「……絶対にだよー」

龍はうなずき、少し離れて、夜空へと飛び立つ。


竜也と龍人は手錠をかけられ、雲の上を紐で引っ張られて歩かされている。

「竜也ー!龍人ー!」

学ラン姿で青い翼を生やした短髪の龍は二人の元へ飛んできた。


11


数か月後。

しずくはクラスの一番後ろの廊下側の席に座って歴史の授業を受けている。教壇の上では、眼鏡をかけたおじさん教師、中島が話している。

「皆は、死んだらどこへ行くと思う?」

しずくは一気に引き込まれた。強い関心を持って耳を傾ける。

「天国!」

「地獄!」

クラスメイトが口々に言った。

「そうやな、今の人は大体そう考えとる。だがな、昔の人はちょっと違ってたんだ」

中島先生は黒板にチョークで大きく『極楽浄土』と書く。

「昔の人は、極楽浄土ーっていう所に生まれ変わると信じてたんや」


昼休み。しずくは鞄からお弁当を出して机の上に置く。サササーとしずくの女友達が二人近寄ってきた。

「しずく、あんた、一年間も、どこで何をしてたの?」

しずくは魂が抜けたようにボーッとする。

「さあ……」

心がどこかに行ってしまっている。

二人目の友達が、

「さあ、じゃないでしょ!あんたが消えた時、皆、大騒ぎだったんだからね!家出したとか、自殺したとか……」

「ねー。そうそう、警察も来たりしたんだよ!」

しずくは無関心に

「へ~そうなんだぁ……」

私があっちの世界に行ってた時に現実がどうなっていたかなんてどうでもよかった。龍がいなくなってから私は、現実を生きている心地がしなかった。フワフワと浮いているような、無気力な感じ。今、見えているものが本当じゃなくて、あの時見ていたものが本当だったように思えてくる。


学校帰りの電車。しずくは座席に座ってボーッと前の窓の景色を見ている。

「次は、竹浦ー」

電車運転士の声ではっとする。反射的に周りを見渡す。反対側の座席の、右端の前に、片手で吊り皮を持ち、こちらに背を向けて立っている高校生を発見する。学ラン姿で短髪の、龍によく似た高校生だ。

「龍?……」

しずくは急に立ち上がり、その高校生に向かってそろりそろりと歩いていく。近づいて見ると、イヤホンをつけて、スマホを見ていることが分かった。

あの時に似ている。しずくの胸はドックンドックンと高鳴る。

やがて、その高校生の真後ろに来ると、

「あのー」

高校生の横に思い切って顔を出した。

「ん?」

としずくを見たその顔は、外国人風だが少しゲスである。龍ではない。

「ひっ」

しずくは顔を引っ込める。高校生はイヤホンを片方はずし、

「なに?」

と後ろを振り返って見てきた。

龍じゃなかった……。しずくは失望する。

電車が竹浦駅で停車し、ドアを開けて人々が降車していく。

しずくは頭を下げて、

「すみません、間違えました……」

逃げるように電車を降りていく。


しずくは緩い坂道を上って歩く。雪が降り始めて、

「あっ雪だ……」

立ち止まって夜空を見上げる。しずくの吐く息は白く、

「もう、冬か……」

初めて出会った時から、一年が経った。あの日見た雪を忘れられない。

雪の落ちる速度でうつむく。涙が、雪よりも速い速度で零れ落ちる。

「龍、なんで戻ってこないの!……死んじゃったの?」

涙と同じように感情が溢れ出してくる。必ず戻ってくるって約束だったのに。もう待ちきれないよ。

雪ではない、キラキラ光る粉が上から降ってきた。

「ごめん、しずく……」

ずっと、聞きたかった声がした。しずくは上を見上げる。

キラキラした光の粉が舞う中、真っ白な服を着て、大きな天使の羽を背中に生やした龍が浮いている。しずくは大粒の涙を流して、

「龍ー逢いだがっだー」

我慢してきた想いが、溜めていた気持ちが、一気に吐き出される。

龍は空中で止まったまま、

「悪かったよーしずく。ちょっと色々あって……」

しずくは涙でぼやけた視界をはっきりとさせ、龍の姿を見る。はっとして、

「龍、ほんとに戻ってきたの?なんでずっと浮いてるの?」

龍は険しい顔をして、ふぅと一息つく。

「複雑な事情なんだけど……俺は現世に戻ってきたわけじゃないんだ」

「え?どういうこと?」

龍は話しにくそうに、だが意を決して

「実は、俺はあの後、竜也と龍人を助けた。そして、現世に戻ろうとしたら、龍人に、二度目は現世に戻れないって告げられた」

しずくは自分の耳が、今聞いたことが信じられなかった。信じたくなかった。

「……そ、それじゃあ、龍は一生、こっちに戻らないってこと⁉ 」

龍に否定してもらいたくて、訊いた。でも、龍は目を伏せがちにうなずいた。

「うん、仕方ないけど、そうだ……。でも、俺と竜也と龍人で、天国みたいなところを見つけたんだ。今は、そこに住んでいる」

「天国?……それって、極楽浄土?」

しずくの意外な言葉に龍は目を丸くし、

「いや、極楽ってわけじゃないけど……いい所だよ」

現実よりもそっちの方が本当だ。しずくは夢中になって、

「私も行く!そっちに、私を連れていって!」

「だめだ!」

龍は声を荒げた。しずくの目を真っすぐ、しっかり見て、

「それは、できない……。せっかく助かった命なんだから、大切にしてよ。別の人と恋愛したり、結婚したりしても嫉妬しないからさぁ……。自分の人生をしっかり生きて」

しずくは泣きながら首を強く横に振る。

「いやっ!龍がいない世界なんて生きていたってしょうがない!」

龍がいない日々は生きている心地がしなかった。まるで世界のすべてが色あせたかのように感じられた。

龍は微笑んで、

「……そこまで想ってもらえれば、俺は十分、幸せだよ。……でも、俺もそれくらい、しずくのことを想ってる。だって、上の人に何度も頼み込んで、やっと面会できたんだもん」

龍も、涙を流す。

「でも、もう面会の時間も終わる。俺のことを好きになってくれて、だめだった俺を変えてくれて、本当に、ありがとう……」

龍は大きな羽をバタつかせて、空へと飛び立つ。

「待って!行かないで!」

しずくは必死に空に向かって叫ぶ。龍はキラキラ光る粉を残しながら、空に開いた天国への穴に吸い込まれ、消えた。

「龍ー!」

しずくは空に向かって右手を伸ばす。何も掴めないが、ギュッと握り締める。

雪が顔に当たる。その冷たさも感じない程に、胸が痛くなる。膝から崩れ落ちる。もう言葉が出ない。雪の降る中、道のど真ん中でたった一人。雪が止まっているように感じられる。嗚咽がこみ上げてきた。とめどなく涙があふれ、何度も嗚咽しながら泣きじゃくる。

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