5-12
「何だ……何が起こった?」
今起きた事実が理解できず、アレクセイは取り乱したように辺りをきょろきょろと見渡した。おそらく、別の貴族の奇襲でも受けたと勘違いしているのだろう。僕ら以外の人間の姿を認めようとしているように、僕ら以外は誰も居ない部屋の中へ忙しなく視線を走らせていた。
「炎さえ無くなれば……!」
僕は意を決して駆け出すと、挙動不審なアレクセイの横っ腹に身体ごと突っ込んでいった。鍛えられた長身が相手だったが、注意力が散漫になっている相手であれば僕のような貧弱な人間であっても力ずくで押し倒すのは容易だった。
共にずぶ濡れの石畳の上へ倒れ込むと勢いのまま馬乗りになって、全霊を込めてその頬を殴り飛ばした。
「貴様……ッ!」
アレクセイは口の端から血を垂らしながらすぐさま反撃の拳を振るう。この距離で避けられるわけもなく、僕の右頬にそれはずっしりとめり込んだ。激しい衝撃と共に、くらりと視界が揺れる。口の中にじんわりと鉄の味が広がった。
「平貴族に組み敷かれる気分はどうだ!? 僕は今、確かにお前の優位に立っているぞッ!!」
「黙れぇぇぇぇ!」
それからは拳と拳の応酬だった。僕の拳はアレクセイの顔を捕らえ、彼の拳は僕の頬を捕らえた。殴るたびに口元から血が伝い、それがお互いの拳を濡らしていく。
「分からない! 何故貴様は、自らの望むべき世界を手放そうとする!? それ程までにあの小娘が大事か……!」
「そうだ……! お前にとって復讐がそうであるように、彼女こそが僕の『愛』だからだ……ッ!!」
「絶望を知らぬ者が、『愛』を語るな……ッ!!」
アレクセイの手が僕の首を絞めようと伸びたが、逆に僕の手がそれを遮る。必然的に、手と手を握り合うような形で僕らは拮抗した。
「離れろ……今度こそ灰にしてくれるッ!」
「この距離でできるならやってみろッ!」
売り言葉に買い言葉で咄嗟に返したが、実際に炎が飛んでくることは無かった。流石にこの距離で僕だけを燃やすのは、彼でも不可能なのだろう。
腕力にモノを言わせた純粋な力と力のせめぎ合い。本来なら上から攻める僕の方が圧倒的に有利なのだろうが、歴然とした腕力の差が露呈して次第に押し返され始める。僕は体重を乗せて応戦するも、それよりも彼の上半身のバネの方が何倍も優秀だった。
「退けと……言っているッ!」
上半身の力と身体を捻る勢いだけを使って、僕の身体は軽々真横に投げ飛ばされた。
床を滑るように転がって、その勢いのまま壁に思いっきり背中を強打する。
その衝撃に息が詰まって、目の前が真っ白に燃え上がった。
「最終的には無策の突貫とは……自暴自棄にもほどがある。そんなに死にたいのなら、望み通り消し炭にしてやろう……!」
起き上がった彼は、ゆっくりとした足取りで歩きながら倒れ伏した僕の元へとやって来る。そして咳き込む僕の胸倉を掴むと、吊り上げるようにして無理やり立たせ、自らの目と鼻の先まで引き寄せる。
「ここまで私に手を煩わせた褒美に、苦しむ事無く消してやる。神に感謝し、天で愛しの姫君を待つが良い」
脅し文句を添えてから僕の身体を放り捨てると、左手を高々と天へ向けて掲げた。
「ルーフェェェェェェン!」
充足の笑みを浮かべるアレクセイ。
泣き叫ぶリアの声。
そして鳴り響く終焉の汽笛――しかし乾いた音を響かせたそれは天に虚しく反響するのみで、炎が僕を包み込む事は無かった。
「……え?」
ぽかんとした表情でリアが呟く。
「――馬鹿な……何故っ!?」
想定外の事態に取り乱すアレクセイ。そんな彼に向って、僕は震える右手で握りしめた『それ』を掲げて見せた。
「家を捨てるお前には……必要の無いものだろ……?」
彼はそれを目にすると、咄嗟に自分の左手を見て、それから憎悪の表情で僕を見下ろした。
「私の紋章を……ッ!」
紋章術には、基本的な三つの制約がある。『エーテル』と『血脈』と――『紋章』。先ほどの取っ組み合いの時に抜き取った彼の指輪――紋章を失ったアレクセイは、どれだけ望んでもその力を行使する事はできない。
彼は獲物に襲い掛かる肉食獣の如く、僕の手にしている《炎鴉》の指輪を取り戻そうと飛び掛かる――が、それよりも早く、僕は先ほど僅かに手に着いた彼の血液を指先で掬うと、指輪の表面に擦り込むようにして撫でつけた。
同時に、アレクセイの足元から巨大な火柱が立ち上る。彼の指輪を使い、僕はイメージしたんだ。彼を打ち倒すだけの、エーテルの爆発を。
「あ……ああああああぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」
アレクセイは身を捩りながら、千鳥足でふらふらと後ずさる。彼にとってはおそらく初めての自らの炎に焼かれる体験。耳障りの悪い叫び声を上げながら、悪夢を振り払うように腕を振り回す。しかし、力が生んだ炎をその程度で振り払う事ができるはずもない。やがて受け入れたようにおとなしくなると膝をついてぐったりとしてしまった。
そこまで見届けて、僕は力の行使を止めた。その瞬間、炎は弾け散るようにして消えていった。
再び咳き込みながら僕はゆっくりと起き上がって、身体を引きずるようにしてアレクセイの傍へと近寄った。呆然として正気を失っているアレクセイに、僕は語り掛ける。
「……お前の負けだ」
「……そのようだな」
力なく答えると、彼の身体がふらりと揺れた。そのまま糸が切れたようにして、前のめりに石畳の上へと崩れ落ちた。
それを見届けて、僕もふらっと全身の力が抜けて同じように崩れ落ちた――しかしその身体は、誰かの手でひしりと抱き留められていた。
「――ご無事ですか、ルーフェン様」
「……ベルナデットか」
ベルナデットは紋章入りの首飾りを揺らしながら、僕の肩に手を回す。
「ハイドリクスはどうなった……?」
「炎の中で少々手こずりましたが、どうってことはありません。むしろ、そちらこそ大変大きな爆発がありましたが……」
無表情でさらりと答えた彼女だったが、そのメイド服の至る所が裂け、そこから覗く肌に細かな切り傷が見て取れた。
「――いえ、今は無駄話をしている暇はありませんね。早くこの場を脱しましょう。先ほどの爆発で都の警備兵がここへ向かって来るはずです」
「それはマズイな……すまないが、王城まで肩を貸してくれ」
「もちろんです……リア、マルグリット様は貴方がお連れしなさい」
「はい、分かってます!」
僕は彼女に抱き抱えられるようにしながらアローの屋敷を後にした。あの書斎は水で鎮火したものの、屋敷の他の部屋は勢いの衰えない炎で包まれている。
闇の中で煌々と燃え上がる屋敷を尻目に、僕らは僕らの裁きが待つ城を目指した。




