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下げた視線を、ちらりと後方のマルグリットへ向ける。幸か不幸か、彼女は先ほどの痴態の恥ずかしさでそれどころではなく、この危機には気づいていない。
何とかこの男を言い包め、『我々が正式な諸侯の使いだ』という事を証明しなければならない。
「エドガー殿の姿も無いようだが……はて、そなたは何者か?」
「北方諸侯に縁を持つマティアス・ゴートが嫡男、ルーフェン・ゴートと申します」
「ゴート……ふ、ふはっ!」
男の問いに、僕はこれ以上に無い流暢な自己紹介で答えてみせる。しかし、彼は僕の家名を口にした途端、返事の代わりに笑いを噴き出していた。
「ゴートだと……? 名声と繁栄を過去のものとした平貴族が、高貴なるこの王城に何の用か!」
高笑いと共に、男は怒鳴った。ドクンと、自分の心臓が高鳴る音が聞聞こえた。
想定はついていた。社交界に於いて、我が家の評価。それは生まれてからずっと、変わりはしない事だったじゃないか。分かり切った事だ。
でも、あの眼だ。また、あの眼だ。男の僕を見る、あの濁り切った眼差し。肥溜めでも見るかのような、一方的に、絶対的に、確定的に、自分の優位を信じ切ったあの眼だけはダメだ。
あの眼の前で、僕は動く事ができない。
声を発する事ができない。
息をする事ができない。
全身の毛がプツプツと逆立ち、毛穴という毛穴からドロリとした汗が噴き出した。呼吸は歪になり、唇は青ざめ小刻みに震えだす。思考はいつしか真っ白になり、そこには男の目だけがグリグリと、赤い絵の具で塗りたくられたように浮かんでいた。
何か言葉を口にしなければ。
だけど声は出ない。
口は動かない。
思考は働かない。
あの眼が僕の、全ての計画を無へと帰す。
「それで、そのゴート家の現当主がどのような故あってここに?」
「それは……その……」
言葉を絞り出そうと無理やり口を動かすが、出てくるのはうめき声のような音だけ。流石にマルグリットも異変に気付いたのか、心配そうにこちらへ視線を注いでいた。
「語れぬのなら是非も無し! 侵入者を捕らえよ!」
男の命令に従って、二人の兵士の旗槍が僕の首筋を抑えつけた。そのまま別の兵士が後ろ手に僕の腕を抑えつける。状況がまるで呑み込めていないマルグリットも同様に。
「地下牢に入れておけ。今は忙しい時だ。沙汰は式典の後にでも下るだろう」
後の事は兵士に任せると、男は踵を返して僕らに背を向け立ち去ろうとする。
どうしてこうなる。僕ならは、こんな下っ端の一人や二人言い包めるのなんか大した苦労じゃ無いハズなんだ。なのにできない。あの眼が、僕をそうさせてくれない。
僕はあの眼が嫌いだった。
僕にあの眼を向けさせる、この《紋章》が嫌いだった。
――お待ちなさい。
その時、澄み渡った声が中庭に響いた。夜明けの空に鳴く小鳥の囀りのように、安らかな声だった。
誰もが無意識にその言葉に従った。
誰もが無意識にその声の主を見た。
もちろん僕は、誰よりも先にその声に気づき、その姿を目に捉えていた。この厚い雲の上に広がる青空のように透き通った、腰丈のさらりとした青い髪。それを覆う白いベールはさながら雲のようで、そこから覗くアメジストの瞳は、純真無垢たる輝きを放ちながらも、海底のようにどこまでも深く吸い込まれて行くかのような底知れなさを持っていた。白い肌は文字通り陶器のようで、顔立ちはまだ幼さを残しているものの、うっすらと唇に注した朱が少女に淑女らしい力強さを与えていた。
彼女は薄く細い身体を真っ白なドレスで包み込み、雨上がりのローズガーデンの中を、数人の従者を引き連れてこちらの方へと歩いて来た所であった。
小さな肩から伸びたしなやかな腕、そして指先は、成長こそ経たものの、昔のままの優しさを宿していた。そして自身の存在を誰よりも理解し、認めているのであろうその佇まいは、十年近い時が経った今でも、あの日の僕の憧れそのものだった。
「――姫様!?」
踵を返したはずの男が、僕らを捕えていた兵士が、己の全てを放棄して一斉にその場に跪く。一方で僕は拘束を解かれたにも関わらず身体の自由が利かず、マルグリットは余計に状況が呑み込めず、ただポカンとして地面に伏せるのみだった。
「お前たち、不敬であるぞ!」
「構いません。それに、彼女らにそうさせたのは貴方でしょう?」
「……ははっ」
盛大に唾を飛ばしながら粋がる男を、彼女――シルフェリア様は優しく嗜める。それから従者共々歩みを進め、僕ら僕らの背後へと迫っていた。
「ひ、姫様は何故このような処に……?」
「一時の晴れ間が伺えましたので、雨に濡れた薔薇を見に参ったのです」
「それはそれは、さぞ美しい様子をご覧になる事ができたでしょう」
シルフェリア様の一挙手一投足毎に、ロラン爺はたじたじと縮こまる。
「それで……これはどういった状況なのでしょう?」
「ははっ! 先に控えました王制三〇〇周年記念式典に託けて、祝賀隊に扮して城内に侵入いたしました不審者を、まさしく今、このロランめが捕縛いたしました所です!」
彼(ロランと言うらしい)は跪いたまま、そう彼女へと申し上げた。こちらが口を聞けないから、好き勝手に言われるのは心外だ……もっとも、あながち嘘でも無い事がひたすら心臓に悪い。この角度では、シルフェリア様の表情をうかがい知る事もできない。こいつの話を聞いて、彼女はどんな顔をしているんだろうか。
「なるほど……それは大儀でしたね。それで、この者達の式典の参加状は?」
「それはこちらに……しかし、本物かどうかすらも疑わしいものです」
書状がメイド服姿の従者に手渡され、シルフェリア様へと手渡された。
それに関しては間違いのない本物だ。あの土砂の中で必死に掘り出したのだから。
「……この認め印は確かに王城で発行されたものの証。書状の真偽に関しては、疑いようが無いと思われますが」
嗚呼……流石シルフェリア様。分かっていらっしゃる。あなたならそう言ってくださると、心から信じておりました。
「で、ですが、肝心のヘルナル殿の姿がお見受けできず、紋章官のエドガー殿もまた同様に……さらには、この目の前の薄汚い若造、どなたであるとお思いでしょう。王国史上最も『落ちぶれた』とされる、ゴートの家の末裔ですぞ! そのような者が何故に王城などに足を踏み入れているのか。さらにはその連れの女! 白昼堂々恥も知らずに男と戯れる、全く理解に苦しむ者達でございます!」
ロラン爺は額に汗しながら早口で一息に語って見せた。
「ロラン。故意に他人を貶めるような物言いは関心できるものではありません」
「も、申し訳ございません……!」
再び嗜められ、ロラン爺は一層深く、地面に額を擦り付けるように頭を下げた。
正直にいい気味だと心の中で呟いておこう。
「話はの筋は理解いたしました。それで、あなたの言い分は?」
「え、僕……じゃなくて、私ですか?」
彼女の言葉に合わせて彼女の侍女に肩を叩かれ、思わず素で返事をしてしまいそうになった。無表情で不愛想なメイドは無言で頷くと、肩を支えて僕が立つのを手伝ってくれた。艶やかな黒髪と、切れ長の目に灯ったルビーの瞳が印象的な女性だった。
傍らを見るとマルグリットもまた同じように、他の侍女の助けを借りて立ち上がっている所だった。
「あなた方はどなたですか? 何故、ミュール家の書状をお持ちになのでしょう?」
僕は身体に鞭を打って、ロラン爺や兵士達がそうしたように姫様の前へと跪いた。
気づくと汗も引き、唇の震えも納まっていた。頭の中で真っ赤に塗りたくられたキャンパスもいつしか消え去り、道中の車内で散々繰り返してきたその文句が、戯曲の一ページのように明白に頭の中に蘇っていた。