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姫様の赦しがあったとは言え、僕らの扱いはあくまで『脱走』だ。常に兵が警備している正門を堂々と潜るわけにはいかない。そこで僕らが取ったのは、礼拝堂のエスケープルートを使う事だった。ベルナデットも初めからそのつもりだったのか、ランタンを片手に僕らを先導し、水滴が滴る地下道を速足で抜けて街の中へと降り立った。
外は相変わらずの雨模様だったが、夕方だと言うのに街は人で溢れかえっていた。賑やかな繁華街や目抜き通りの光景は、今の僕らにとってはどこか非日常的で、それこそ物語の中の世界のようにすら思えた。
「ルーフェン様。このような場所ですが、姫様からお預かりしておりましたものを」
言いながら、ベルナデットが僕に何か小さなものを差し出した。
「これは――」
受け取って、その感触ですぐにそれが何か理解できた。立体的に掘られた獅子の手触り――ゴートの紋が掘られた僕の飾りボタンだ。
「いつの間にこれを……?」
「面会の前に、押収した物品を管理している兵から譲って頂いたものです」
「面会の前……じゃあ、姫様はやはり――」
そこまで口にして、ベルナデットの人差し指が僕の唇に突きつけられた。触れてこそいないが、氷のようにひんやりとした冷気が指先から伝わって来る。
なんとなく、昨日の夜のリアの手の冷たさを思い出した。
「姫様のお考えは、私たちの理解を越えるものです。はじめからそのつもりであったかもしれませんし、ただの気まぐれ……かも。期待はなさらない方が得でしょう」
そう言って、彼女は指を離した。
「ねぇ……ところでずっと聞きたかったんだけどさ」
「何だ。急いでるから手短にな」
タイミングを見計らったかのように、リアが話に割って入る。言ってから、聞くべきかどうか迷うようにうんうんと唸って、そうしてやっと言葉を紡いだ。
「あの地下牢での姫様って……何?」
……なるほど。マルグリットがそうだったように、リアも初見だったな。
「何もかにも、シルフェリア様だ」
「いや、そういう意味じゃなくってさ」
「一国の王女ともなると、いろいろと溜まるものもあるのですよ」
「いや、だから……」
示し合わせたわけでも無いが、僕とベルナデットで畳みかけるように答えていた。嘘も言っていないし、答えたくないわけでもない。ただ、言葉で説明できるもので無いだけなんだ。
「あー、もう良いわよ。わかったわかった、そういうモンなのね!」
リアはぶすっとしながら、納得いかない様子で返事をした。が……思いのほか話題を拾ったのがベルナデットだった。
「ルーフェン様からすれば、普段の姫様の方が違和感がある事でしょう」
「ああ、そうだな……僕にとっては、あの傍若無人な姿しか記憶にない」
僕は懐かしむように同意する。
「……と言うか、やっぱり覚えてたんだな、僕の事」
「後にも先にも、シルフェリア様の『ご友人』を叱ったたのはあの時だけですから」
何を当然の事を、と言いながら彼女は急ぎ足で少し乱れた前髪を整える。
「どうで、会うたび会うたび目の敵にされていたわけだ」
「目の敵……滅相もありません。むしろ、感心していたものですよ」
「関心……?」
どういう事だろう。僕は語る彼女の横顔をまじまじと見つめていた。
「当時の状態の姫様を知る者は、多くが早い段階でお傍から離れて行ってしまいました。流石に淑女の嗜みを叩きこませて頂いてからはそういった事も無くなりましたが……それでも、それこそ幼い頃の姫様は独りぼっちでございました」
「あんたが居たじゃないか」
「私は従者であり理解者であっても、友人にはなれませんので」
自虐的に言って、彼女は溜息を吐く。
「だからこそ、姫様はずっと期待していたのです。ルーフェン様があの雨の日の約束を、いつ果たしに来られるのか……と」
唐突に、僕は言葉を失った。
「私は一切信用しておりませんでした。それまでがそうでしたから――まあ、私が少しきつく叱りつけすぎた自覚があったからかもしれませんが――ルーフェン様も他の者同様に建前だけの約束であり、二度と戻って来る事はない、と。しかし、あなたは帰って来られた。それは、結果として罪に問われる方法ではありましたが……変わらず姫様へのお心を持ち続けておりました。だから私は感心しているのです。あなたは嘘つきでしたが、それ以上に誠実な人です」
なんだかむず痒い感覚と共に、じんわりと鼻の奥が熱くなった。
姫様の境遇に……?
それもあるが、それ以上に初めてだったんだ。小さい頃からずっと『僕を僕として見てくれていた人』に出会ったのは。姫様から見れば、民は皆平等である事は知っている。だからこそ、僕と同じ目線でそう思ってくれる人が居た事が嬉しかった。
「じ、じゃあ……どうしてずっと僕を睨みつけて?」
恥ずかしさを紛らわすように問うと、彼女は眉間に皺を寄せて視線を逸らした。
「……申し訳ありません。目が悪いもので」
「んな……っ」
じゃあ、ずっと睨まれているように感じたのは単純に良く見えなかったから?
バレてるんじゃないかとずっとドキドキしていたこの数日間は、僕の思い過ごしだったって事か……!
これから大事だと言うのに、どっと疲れが押し寄せていた。だが確かに、本当にベルナデットに嫌われていたら姫様の様々なお誘いが僕らの元へ来る事は無かっただろう。姫様への進言も辞さない彼女なら、お咎めの一つでも口添えるハズだ。そうならなかった事が、彼女の言葉を信じるに足る理由となった。
「ですが、図々しくも配慮の無い男だとは感じておりました。罪を裁かれる前に、小一時間ほど紳士としての女性の扱いに関してレクチャーさせて頂きましょうか?」
「い、いや……遠慮させてくれ」
忘却の彼方に放り捨てたはずの記憶が再び蘇り、僕は彼女の申し出を謹んで辞退した。そう言えば彼女の姿、その凛とした大人の女性としての美しさはあの時からずっと変わらない……と言うか、全く年をとっていないような気がするのは気のせいか?
そもそも子供の頃の時点で教育係を任される程度の歳だったはずなのだが、いったい今いくつなんだろうか……?
気になったが、命が足り無さそうなのでこの状況で話題に出すのはやめておこう。そんな事をしていると、不意にリアが驚いたように声を上げた。
「ね、ねえちょと……アレって何?」
言いながら指刺した先――富裕地区の背の高い建物たちの遠い先から、天に黒い煙がモクモクと上がっているのが目に付いた。
「あれは……アロー家の邸宅の方角か!?」
間違いない、アレは僕らの目的地から発せられているもの。粘土のように粘り気のある真っ黒な暗雲。だが、いったい何の煙だ?
「急ぎましょう、嫌な予感がします」
ベルナデットの言葉に、僕らは石畳に打ち付ける雨の中を駆け出した。神殿を抜け、住宅街を抜け、人気の無い私有地群へと抜ける。次第に大きく鮮明に見えてくる黒い入道雲を見据えていると、やがて迫って来る大きな赤い輝きが視界の先を覆いつくした。
「あれは……!」
僕らは絶句した。アローの屋敷が、モウモウと黒煙を上げながら特大の炎に包まれていたのだ。炎を司る家系の屋敷が炎に包まれる――その屋敷の芸術性も相まってどこか絵画的な風景だったが、今は情緒に浸っている暇は無い。
「ちょっとこれ……あの子は大丈夫なの?」
青ざめた表情で震えながら口にしたリア。僕は言葉も返さずに、屋敷の正面玄関へと飛び込んでいた。




