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「――よろしいのですか?」
顔に掛かった液体を拭いながら、ハイドリクスはいかにも不機嫌な様子で主へ指示を仰いだ。
「構わんよ。少し、虐めすぎたかな」
「しかし、書庫の情報が――」
進言するハイドリクスを、アレクセイは平手を向けて制する。
「馬は用意できるか?」
「はい……直ちに」
「よろしい。では王城へ向かうとしよう」
「はい……?」
アレクセイの言葉に、ハイドリクスは意図がくみ取れない様子で聞き返した。
するとアレクセイはよそ行きの清々しい微笑みを浮かべて言い含めた。
「彼が使い物にならないなら、もう一人の情報源を当たるだけだ。それに……飼い主の手を噛む犬には、しつけもしてやらねばね」
アレクセイは薄ら笑いを浮かべながら、叩かれた腕を軽く摩っていた。
大量の雨粒が叩きつけられる石畳の上を、僕はただ懸命に駆け抜けていた。どのくらい走ったのかも、どこへ向かっているかも分からない。とにかく遠くへ、アローの屋敷から離れる事だけを考えていた。
街は灯りの一つもなく、家々からも人の気配が無い。時間はもう分からないが、とっくに深夜を回っているのだろう。常闇の中で、雨音と、足音と、呼吸音だけが五月蠅いくらいに響き渡っていた。
しばらくそうして体力も限界を迎えた頃、僕は道の真ん中でゆっくりと崩れるようにして膝をついていた。先ほどとは違った意味で、肺が握りつぶされそうなほどに痛い。
息を吸おうとする度に咳き込んで、酸っぱいものが胃から喉へと逆流してくる。猛烈な吐き気を抑え込みながら、僕は霞んだ視界で辺りを見渡した。
見覚えがあった。ここは、姫様やマルグリットと共に来た、王都の目抜き通りだ。昼間の喧騒は成りを潜めて人っ子一人歩いていやしないが、街並みや、畳まれた屋台の様子は昼間の活気を容易に脳裏に思い起こさせた。
真っすぐ正面の道を見上げると、ずっと先に王城の城壁、そしてシンボルマークの門番、のっぽ、ふとっちょの三つの塔が見える。小さい頃からあこがれて、いつか堂々と足を踏み入れようと誓った王城――もはやその資格も失ってしまった。
今はただ、僕の夢の残滓でしかない。
これからどうしよう。とりあえず、王都を出るべきか。だがアレクセイの計画はどうする……王国はどうなる?
いや、僕が口を割らなければ王室書庫へはたどりつけないハズだ。そして、あそこはやみくもに探しても見つかる場所にはない。ベルナデットですら正確な位置を知らないのだから……おそらく王城の外にあると言うのが僕の見立てだ。
なら、安心じゃないか。僕がどうこうする問題じゃない。僕が何もしなくても、王国はずっと、平和なままだ。
不意に力が抜けて、その場に仰向けに倒れ込んだ。目を閉じると、顔に大量の雨粒が降り注ぐのを感じる。息ができないくらいに。
苦しい。発作による呼吸困難とは違う。もっと直接的に、息を吸う事を止められている。このままこうしていたら、息ができずに死んでしまう事だろう。それも良いな……僕はもう、生きる価値も目標も失ってしまった。家名を背負う覚悟も、後ろ指を指される覚悟も、すべてもう、無意味なものになってしまった。僕の夢は、約束は、もう叶わないものなのだから。そう思った瞬間、全てが楽になった気がしてふっと全身の力が抜けた。このまま雨に身を任せよう。そうすればきっと、明日の朝にはもう――
「――ルーフェン!?」
不意に、聞き覚えのある声が遠くに響いた。水を撥ねながら石畳を駆ける音。視線を向ける気にもならないが、確かにそれは僕の方へと駆けよって来る。そうして僕のすぐ傍で足を止めると、不意に雨が止んだ。
「ルーフェン、ちょっと聞いてる? ねぇ!?」
雨音もかき消すそのやかましい声に、僕はうざったく瞼を開いた。暗がりでもハッキリ分かるほど近くで、僕の事を覗き込むリアの姿が目に入った。
「……お前は、どこまでもウザい奴だな」
「何よそれ、人がせっかく心配して――」
そこまで言って、彼女ははっとして口を噤んだ。それから少しよそよそしい様子で肩を貸して、僕が起き上がるのを手伝ってくれた。そのまま二人で雨の掛からない軒下へと一時的に非難する。ぐっしょり濡れた服が肌に張り付いて、何とも気持ち悪かった。
「うぇ、べちょべちょ……帰ったら怒られるわ」
リアもいつものメイド服をぐっしょり濡らして、ぴっちりとその比較的凹凸のハッキリした肌に張り付けていた。真っ赤な髪から滴る水滴と、ほっそりと濡れた唇。小さな背中からくびれた腰、そして女性的な下半身への身体のラインが手に取るように分かるこの格好は、普通の人間が見たら煽情的な光景なのだろうが、今の僕にとっては全てがどうでもいい事だった。
「どうしてここに……?」
力なく聞いた僕の言葉に、彼女はこれでもかと口を尖らせて答える。
「部屋に戻ったらアンタが居ないじゃない? だから、一人でアローの屋敷に行ったんじゃないかって心配になって……」
「……そうか」
自分で聞いておきながら、僕は興味なさ気に視線を外した。
「あー、何よその態度! 雨の中走らされたこっちの立場にもなりなさいよ!」
「……頼んだつもりは無いが」
こっちはヘトヘトだというのに、リアは全くもっていつも通りだ。きっと僕がどんな状態かなんて、彼女は知りはしないだろう。さっきまで死のうとしていただなんて――
「はいはい……分かってるわよ。それより、その様子じゃまだしばらく歩けないわよね?」
僕は声を出すものダルくなって、ただ頷いてだけ答える。
「そ。じゃあ、こんなとこで何だけど頼まれてたのだけ報告しちゃうわ」
そう言って、彼女は懐から羊皮紙のメモ用紙を取り出した。大事に抱え込んでいたのか、雨の中でも全く濡れていないそれを彼女は広げると、中の文字に目を通す。
「えっと、まずモンベルト候、ノワズ伯、オルキデ伯、ローリエ伯だけど……何、この四家って何か共通点あるの? どこも十年前くらいから領地をじわじわと拡大して力を強めてるのよ。その領地を融通しているのがシャルドン公。それもニコラスが継いでからの話よ。名目上は未管理領土の譲渡って扱いになっているみたいだけど、なーんかきな臭いわね」
メモ書きを見ながら、彼女は調査内容を語って聞かせる。僕は耳だけ貸しながら、気だるげな視線で何ともなしにそのメモを覗き込んでいた。書き慣れた筆記体で掛かれた、少し丸っこい女性的な筆跡だった。
「でもって、シャルドン公が調べてびっくり! 以前の老使用人に聞いた話なんだけど……これも十年前くらいに長男のアレクセイが国家反逆の大罪で収監されてるのよ。沙汰は終身刑! セドリックと違って、今もまだ収監されているみたいだけどね」
「……初耳だな」
「アンタも知らないって事は、かなり内々に処理された話みたいね。三大貴族としての圧力かしら……情報集めるのも超大変だったわ。それで今は、次男のニコラス様がアロー家を継いでるってわけみたい」
それから……と口にしながら、彼女はメモ用紙を指差し確認する。
「長男のアレクセイが捕まってから、長女のニーナが自殺しているわ。海への身投げだそうよ。アレクセイとは婚約関係にあって……まあ、ショックだったんでしょうね」
眉を潜めながらリアは語る。
途中から、僕は彼女の話を半分聞き流してしまっていた。体力を使い果たした中で、それでも身体を動かしたせいか頭の中は思いのほかすっきりと、空模様に似ず晴れ渡っていた。だからこそ、どうしても気になっていた。彼女の持つメモ帳が。




