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一体、何だって言うんだ。会場に着いてからのオルキデ伯の様子を思い返しながら、この異常な雰囲気に全身の産毛がぷつぷつと逆立つのを感じていた。
「お席にお戻りください。流石に、我が主に対して失礼です」
「た、頼む……僕は関係ないっ!」
「お戻りください」
「い、嫌だ――」
オルキデ伯が再三の言葉を発した時、シャンデリアの輝きに揺られて何か煌めくものが一瞬、彼とハイドリクスの間で閃いたように見えた。
否、確かに煌めいていた。目にも止まらぬ速度で、いつの間にかオルキデ伯の喉元に、ハイドリクスが抜き放ったレイピアの切っ先が突きつけられていたのである。
「――お戻りください」
言葉と同時に、つぅとオルキデ伯の喉に横一文字の赤い筋が浮かぶ。そこからとろりと、赤い雫が涙のように胸元へと伝ったのがハッキリと目に映った。
「ひ……ひいいいいぃぃぃぃぃっ!」
首を抑えてその場に崩れたオルキデ伯を、彼の従者が抱きかかえる。伯は、自分の首が身体についているのを確かめるように、シャツの襟が真っ赤に染まるのもお構いなしに手で喉をまさぐった。
「シャルドン公。こ、これは……っ」
一連の異常事態を目の当たりにして、次いで血相を変えたのはノワズ伯。先ほどまでのゴマをするような様子とは一変、唇を小刻みに震わせながら、本人とは視線を合わせずに問いかける。
「これはこれは、我が使用人が失礼をいたしました」
ニコラスはそんな事態に一切動じる事も無く、悠然とそう答えた。
「どうぞ、オルキデ伯。席へお戻りください。これからとっておきのデザートも用意しているのですよ」
口にしながら、杯の中の液体の香りに笑みを浮かべるニコラス。
何だ、何なんだこの状況は……?
僕はいったい、何を見ているんだ……?
マルグリットも同じ心境なのか、それとも完全に思考を停止しているのか、席から動けずに怯えた表情に涙を浮かべて、肩を抱いて震えていた。
「い、いい加減にしていただけませんか! 仮にも我々は客人ですぞ!」
「――ノワズ伯」
取り乱したノワズ伯を、モンベルト候が静かに低い声で制していた。
「オルキデ伯も席に戻りなさい」
次いで腰を抜かした伯へそう告げると、その鋭い眼光をニコラスへと向けて、大きく深く息を吐いた。
場の緊張に、数秒が何時間にも感じるかのよう。静寂中で、大粒の雨と風が石壁を叩く音が五月蠅いくらいに響いていた。
「さて……説明して頂けますかな、シャルドン公。ノワズ伯の仰る通り、仮にも我々は客人。オルキデ伯の非礼は窘められて然るべきだが、刃を向けられる理由は無いはず」
「理由――この顔ぶれが集まっていれば理解して頂いているものと思っていましたが」
自分に向けられたわけでもないのに縮み上がりそうなモンベルト候の眼光と口調。それに対してニコラスは、悪びれる様子も無く逆に挑戦的な黒い瞳を向ける。
「何のことか……察しがつきませんな」
モンベルト候が冷静に答えると、ニコラスはわずかに両の口元を吊り上げ笑った。
その表情の端から零れた言葉にできない強い感情が、冷たい刃で撫でつけるように背筋を襲い、思わず身を震わせた。
「――よかろう。では、今度は私の方が問おう」
それを境にニコラスは一変。椅子の背もたれに深く身体を預けると、よそ行きの口調も捨てて、高みから見下すように着席した面々を見渡した。その頃には、従者の助けを借りながらオルキデ伯も自分の定位置へと戻っていた。雪原に放り出されたかのように青ざめた表情と紫色に変色した唇、止まらない身体の震えが印象的だった。
「――まずはモンベルト候。十年前に貴殿が東の国へと送った積み荷の中身は、本当にただの銀子だったのかな」
彼が何を問うているのか、全く分からなかった。
いや、それ以前にこれまでの話しぶりからニコラスと他の諸侯達とは全く面識がないものと思っていた。だが、その見立ては間違っていたのか?
「十年前……はっ。流石にそんなに昔の事は覚えてなどおらん」
モンベルと候はあからさまに不満な態度を露わにして、話題を一蹴する。
「では質問を変えよう……この封書に見覚えは?」
言いながら、傍に控えるラインハルトが手渡した羊皮紙を目の前で広げ掲げて見せるニコラス。それを目にした時、モンベルト候は目を見開きあからさまな動揺を見せた。
「貴様……どこでそれを?」
「その反応、知らないわけでは無いようだ。もっとも、ご丁寧にモンベルト候アッシュ家の紋章が封蝋に使われている中で、言い逃れができる訳が無いが」
あの紙に何が書かれているのか分からない。だが、モンベルト候の動揺を見るに何かしらの重要なものであることは察しがついた。
「貴様が『ニコラス殿では無い』事は知っている――彼をどこへ遣った?」
「貴殿達が知る由はないさ……何せ、私たちは『初対面』なのだからね」
「いや……検討は付くぞ。貴様、殺したな……? 実の肉親を……!」
モンベルト候の不可解な言葉に、ニコラス――を名乗る何者かは、乾いた笑みを浮かべながら目元を手で覆った。そして、指の隙間から覗いた濁り切った瞳で候の姿を捉えると、深い怒りに満ちた声で言い放った。
「――言質は十分だ。燃えろ」
天が機会を伺ったかのように鳴り響いた雷鳴。
同時に座っていた椅子ごと、巨大な火柱がモンゲルト侯の身体を包み込んだ。目が眩むような炎の輝きと余波の熱波が、部屋一帯を一瞬にして包み込んでいた。
「があああぁぁぁぁぁっ!」
候は悲鳴とも叫びともつかぬ奇声を発しながら、もがくようにして椅子から転げ落ちる。地獄の音楽のような声と共に床を転げ、のたうつ。しかし、身体を包んだ炎は次第に勢いを増しながら、彼を苦しめ続けた。腐った魚の焼けるようなツンとした匂いが、鼻孔の奥を熱風と共に通り抜けた。
やがて叫びは嗚咽のような弱々しいうめき声に変わり、もがき苦しむ抵抗も次第に薄れていく。そして、炎の中に浮かび上がっていたシルエットがボロリと崩れ落ちると、黒髪の男は高らかに指を鳴らした。すると瞳に焼き付くような残光をたなびかせて炎は掻き消え、後に残ったのは黒い土塊の山だけだった。
誰もが言葉を発せず、息を飲んで、その様子を目の当たりにした。
見ている事しかできなかった。
目の前で起きた常軌を逸した出来事に、思考は完全に停止していた。




