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鼻先を叩く冷たい感触と共に目が覚めた。うっすらとした視界の中で、最初に目の前に広がっていたのは見上げている屋根だった。厳密には岩が広がっているだけだったが、それでも雨を凌げるものを屋根と言うのであれば、それは間違いなく屋根だった。
岩の天井の一点から、雫が一つ垂れ堕ちる。それが鼻先に当たって、弾けた。水滴が目に入り、僕は思わず顔をしかめた。
どうやらこれに起こされたらしい。状況を確認しようと身体を起こす。
身体が重い……が、動けない程ではない。気を失うように眠って、多少は体力が回復したんだろう。
見渡すと、僕は洞窟の中に横たわっている事を知った。
光があるので出入り口は近い。その方向から雨と川、二つの水の音が鳴り響いている。という事は、あの現場の近く――という事だろう。
僕は、どのくらい寝ていたんだろうか……?
不意に、何か物をぶちまけるような音が聞こえて咄嗟に振り向いた。入口の逆光になって良く見えなかったが、人が立っていた。小柄で、少なくとも良い身なりではない。
影の主は、取り落としたのであろう木箱とその中身に目もくれず、こちらに向かって小走りに駆け寄って来る。そうして傍らに膝まづくと、僕の右手を取って、縋るようにそれを彼女の額に押し付けた。
あかぎれて、ガサついた手が彼女の第一印象だった。
「良かった……良かった……目が覚めて……」
その声には聞き覚えがあった。あの時、馬車の中から助けを呼んでいた声だった。
そうか……あの後上手く出る事ができたらしい。
手元で良く見えないが、震える肩と声の様子から、彼女は泣いているのだと思った。良く泣く子だな……それが彼女に対する二つ目の印象だった。
黒いワンピースに白いエプロン。フリルのついた頭巾。どれも泥で汚れてはいるが、ヘルナルの家に仕えていたメイド達の服装である事はすぐに分かった。
「手……放してくれないか?」
「あ、ああっ……すみません」
彼女は驚いたようにぱっと、僕の手を離す。そして小さく鼻を啜ると、服の袖で目元の涙を拭った。涙の代わりに、裾に付いた泥が頬に塗りたくられてしまっていた。
「君が僕をここまで運んでくれたのか?」
「は、はい……あそこじゃ風邪をひいてしまうと思いまして」
「そうか……助かった」
そう礼を言うと、彼女はこそばゆそうに頬を染めて、モジモジと視線を外した。うつむく彼女の、先ほどは良く見えなかったエメラルドグリーンの瞳に僕の視線は吸い寄せられていた。
年頃だろうか、比較的大人びた顔立ちだが、どこかまだ世間を知らないようなあどけなさが残った横顔。泣き腫らしたらしい赤い目がやぼったいが、それさえ無ければくっきりとした大きな瞳は愛らしいばかり。これで泥に塗れていなければ、可愛いと言って良い部類の人間なんじゃないだろうか。
亜麻色の髪は仕事の邪魔にならないよう、前髪から全て後ろにまとめ上げられ、できた団子にメイド特有の白い頭巾を被せてある。くせっ毛で上手く纏まらなかったのか、こめかみの辺りで後ろに流した髪を支えている、琥珀色の髪留めも印象的だ。
身体は既に成長期を経ており、女性らしい肉付きがぶかっとしたワンピースの上からも何となく分かった。なるほど……あのオヤジの『趣味』に合いそうな少女だ。
「僕はルーフェン・ゴートだ。ミュール家に仕える文官……だった」
あまりじろじろ見ていても失礼かと思い、話を切り出すように名を名乗った。
肩書に関しては本当はまだ見習いの身分だったが、咄嗟に身を取り繕ってそう口にしてしまった。何年後かにはそうなっているのだから、嘘ではないだろう。
「マ、マルグリットと申します。オードリィ様の身の回りのお世話をさせて頂いておりました……その――」
オードリィと言うのは僕らの主人であるヘルナルの娘の事だ。高飛車で、自分勝手ないけ好かない世間知らずの箱入り娘。正直、社交界であまりいい噂は聞かない。
しかし、自らの主人の名を口にしたとき、彼女――マルグリットの表情が僅かに曇ったのを見た。その様子を見れば、同行していた領主の娘の身に起きた不幸を、十二分に察する事ができた。
それから彼女は弾かれたようにして僕の方へ向き直ると、冷たい地面に手をついて、深々と頭を下げる。
「あ、あの……助けていただきまして、本当にありがとうございます! この御恩、一生を掛けて返させて頂きますっ!」
そう、一息でまくし立ててみせた。不意に脳裏にとある幼い頃の記憶が蘇ったが、それを振り払って僕は彼女に尋ねた。
「……他に、生きていた人は居たか?」
マルグリットは頭を地面に擦り付けたまま、大きく首を横に振った。
「僕はどのくらい眠っていた?」
「ほ、ほんの一時ほどです」
「そうか……」
それだけ口にして僕は起き上がろうとしたが、うまく力が入らずふらりとよろめく。慌ててマルグリットが脇から支えてくれた事で、何とか立ち上がる事が出来た。
洞窟を出て、相変わらずの雨の中で再び土石の山と対峙する。
ただただ途方に暮れる、とはこういう事を言うんだろうな。思いの他、心に悲しみや恐怖心は無かった。
「――あそこから落ちて来たのか」
雨粒に思わず眉を潜めてしまう視線で、背後高く聳え立つ崖の上を目にする。
斜面を削り取られるようにしてできた泥の坂。その上に元来た谷間の山道が、これまた数十、数百メートル以上にわたって根こそぎ削り取られながらも、変わらずそこに通っていた。
「わ、私、これからどうすれば……」
改めて現場を目にしたマルグリットは、血色の悪くなった薄い唇を震わせて怯えていた。無理もない、気持ちは分かる。
「や、やっと見つけたお仕事だったのに、どうしてこんな……」
誰に言うでも無いその言葉をただ自分の境遇を呪うかのように、僕の身体を支えるその手にも力がこもっていた。心なしか、唇同様その手も震えているような気がした。
「……雇い主が亡くなったからと言って、家から追い出される事は無いだろう。屋敷に戻って、また新しい仕事を貰えばいいじゃないか」
そんな無責任な慰めの言葉を口にして、僕は改めて災害の様子を眺めた。
突然の土石流は、王都の式典へ向かっていた地方領主の一団をいとも簡単に、丸ごと飲み込んでしまった。この様子じゃ先ほど彼女が言った通り、他に生きている人間は居ないだろうな。
僕たちはただ不運な事故に巻き込まれて、幸運にも生き残っただけ。
それがどうして、職を失う理由になるだろうか。
「――いや……違う」
そう思った途端、脳裏を何か捉えどころない違和感が支配した。
なんだ、僕は何かを忘れている。何かをはき違えている。
「ち、違う……って?」
マルグリットが不安げに僕を見上げる。
違う……問題は僕達が暇を言い渡されるような事じゃなくて、もっと根幹的な――
「――式典だ!」
「式典……?」
そうだ!
まずい……まずいぞ。どのくらいまずいかと言うと……とにかく、まずい。
途端に目の前が真っ暗になったような気がして、思わず手で顔を覆った。
支えてくれているマルグリットは事の重大さが分かっていないようで、変わらず不安げな表情を浮かべるだけだった。
「どうする……どうすればいい?」
いけ好かない雇い主だったヘルナルは、正直、死んでせいせいした。
上司である紋章官のエドガー様は惜しいと思ったが、感傷に浸る程の間柄ではない。
でも、そんな事関係なしに起こってしまった『この状況』が非常にまずかった。
このままミュール家が『式典に参加しない』という事が、まずい事なんだ。
「確かに、僕らは職を失うかもしれない……!」
「え……!?」
だから考えろ、考えるんだ。この状況を打開する方法を……!
これからだったんだ。
僕のような人間を雇ってくれる相手が見つかって、ようやく実家にひとつの示しがついたと、そう思っていた。やっと一つの肩の荷が下りたと、そう思っていた。
なのに、ここで雇い主の家が潰れたら僕は――いや、ゴートの家は――
何かに縋るように、もう一度眼前の山を見上げた。
火事場泥棒に来たらしい数人の小汚い集団が、服が泥に塗れるのもお構いなしに馬車の荷台や放り出された木箱、死体の懐を漁っている。なんだか無性に腹が立ったが、僕にはどうする事も出来ない。
谷間に風が吹いた。土砂の中から突き出た『飾り旗』が、揺られてはためいた。
旗の中央には、でかでかと描かれた《水瓶を抱いた蛇》のミュール家の紋章。
その上に、その者を統べるように、絶対的な権威を示すように、金糸で模られた《王権の百合》が、雨に濡れて艶やかに輝いていた。
目を奪われた。途端に思考が空になって、視界いっぱいに《百合紋》を捉えていた。
そして、僕の頭の中が空っぽになるのを待っていたかのように、脳裏で悪魔がハッキリとした言葉で囁いた。
なんて馬鹿な考えだろうと思った。だけど、それしか無いとも思った。
今、僕はどんな表情をしているんだろうか。視線を下げて、健気に支える少女のそれと合った時、彼女は途端に怯えたような表情になって、目じりに涙を浮かべて見せた。
先の見えない恐怖に駆られる少女は、薄汚れてこそいるものの、よくよく見れば見た目はそれ程悪くない。交友関係はどれほど広いのだろうか。だが、田舎諸侯の使用人風情なら、流石に王都に知り合いが居る事は無いだろう。
それに、ミュールの家が潰れて困るのは僕だけじゃない。彼女だって、路頭に迷うのを恐れていたじゃないか。なら、利害は一致する。。
――僕たちは、同じ穴のムジナだ。
少しでも罪悪感を消し去ろうとするように、心の中で言い訳をする。
それは間違いなく、『一人の少女の人生を狂わせるに十分』な考えなのだから。
僕は少女を見下ろしたまま、大きく息を飲んだ。嫌な汗が、滴る雨粒に交じって喉から鎖骨へ伝う。口の中はカラカラに乾いていた。
考えれば考えるほど、それ以外の選択は無いような気がしてしまう。もはや思考は正常じゃない。そんな事、自分でもよく分かっている。あとはほんの少しの度胸と覚悟で、僅かに残った良心を追い出すだけなんだ。
だから僕は生まれて初めて後先を考えず、思考より先に口を開いた。
「お前……貴族になる気は無いか」
「え……?」
目元に涙をめいいっぱいに貯めながら、彼女は蚊の鳴くような声で問い返した。
「え、あの、どういう――」
僕の言葉に、彼女の理解は追い付いていなかった。当然だ。僕だって理解しているとは言い難い。だからこそ僕は間髪置かずに彼女の支えを解き、逃がさないようその両肩を掴んで、真正面からその困惑した表情を見据えた。
彼女が選択する余裕を奪うため。
僕が選択する余裕を無くすため。
握り込んだ彼女の肩は思った以上に細く、思った以上に小さかった。
「今までの人生を全部、今、この雨の、濁流の中に捨ててくれ。そうそうしたら――」
僕は彼女の顔を見ている事ができなかった。とてもじゃないが、人に頼める事を口にしていなかった。気づけば視線は足元に向いて、まるで神様に懺悔でもするかのように、彼女に頭を垂れていた。
「僕がお前を――貴族にしてやる」
僕は彼女に縋るように、言葉を絞り出す。